Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

エンドレスサマー、ホープ


 煙草を吸わなくなってからかなりの時間が経ったけれど、あのころ毎日のように吸っていたホープの苦い味を一生忘れることはないと僕は思う。


 真夜中に携帯電話が鳴って、浅い眠りの淵にいた僕はくいっと頭のうしろを引っ張られるようにして目覚めた。授業中。落書きだらけのコクヨ学習机を枕に居眠りをして教師からワイシャツの後ろ襟を引っ張られたように「くいっ」と。傍らでは一昨日から一緒に暮らし始めた「ゆきえ」が大きなオッパイを抱え込むようにして寝息を立てている。僕はまだ部屋にゆきえがいることに慣れていない。すーすーというゆきえの身体が発する音の寂しさは、僕に別れのときが近づいていると感じさせた。


 こんな時間に鳴る電話がいい内容を運んできたためしがない。バイクで四トン車の下に突っ込んだクラスメイトの青い顔がよぎる。深く息を吸い込み、左の手のひらで宙を握ったり放したりして寝惚けた心と身体を繋げてからドコモを開く。液晶から白い光が漏れ、薄闇のなかで光という光が僕の手に集まってくるようだ。電話の主は旧友の西ヤンだった。僕は言った。「行くのかい?」静けさが包み始め僕を支配しきるまえに西ヤンの弱い声がした。「悪い。俺はいくよ」携帯を手のひらに包むと白い光が僕の骨、肉、皮で色付けられて違う輝きを帯び始める。嘘だろ?


 西ヤン。電話。十年くらい前の春の朝を僕は思う。西ヤンは僕が夜勤のバイト明けでくたびれて眠っているのを知っていて、朝早くに電話を寄越してきた。「もしも…」「今すぐにテレビをつけろ」「なんだよいきなりー眠いから寝るわ」「いいから、早くつけろって。騙されたと思って。信用しろ」意図の読めないままテレビの電源をいれてニュースにチャンネルを合わせ唖然とした僕に西ヤンが言った。「やはり俺は正しかった」嘘だろ?


 高校にいたころはいつだってジリジリとアブラ蝉が鳴いていた気がする。あの日もそうだ。アブラゼミの声。校庭では部活動。薄い壁の向こう側、となりの教室からは話し声がした。チョークの粉雪が降る最前列に僕と西ヤンは座らされ補習を受けていた。名ばかりの補修だ。教室には僕らしかいなかった。国語教師は古文の教科書のページを指定して「時間内に現代語訳して持ってこい」と言っただけで消えた。僕らは隠し持ってきた「教科書ガイド」の現代語訳を語尾や言い回しにアドリブや個性をつけながら写した。教室にあったラジカセのテープをかけた。知らない日本語のロックが流れては消えた。


 僕らの意味のない作業を受けとると国語教師は言った。なんで皆と同じにできないんだ。嫌なことでも皆やっているんだ。まともな大人になれないぞ。夢や目標はないのか。僕らは「以後気を付けまース」と言って後にした。僕にはまぶしかった。その教師が。周りのすべてが。なぜ真っ直ぐに生きられるのだろう。なぜ一学期の最終日きっちりに進路希望のカードを提出できるのだろう。夢や希望はあったけれど壮大で曖昧で生まれたてで。形にしてしまうのが僕には怖かった。形にしてしまった途端、それは夢でなくなってしまう、そんな気がした。曖昧なまま慈しんでいたかった。リミットがくるのは承知の上で。


 僕と西ヤンは校舎の影でロングホープに火をつけ吸った。それから西ヤンは「畜生!」と言って空になったプランターに蹴りをいれた。僕はコンクリートの隙間から均一の長さで生えてきていた雑草をひきちぎり空に投げると、チェリオの瓶を口に当てた。空に投げた雑草は陽に当たってエメラルドグリーンの顔を一瞬だけ見せるとすぐ側に落ち、たちまち風に飛ばされてどこかへ消えていった。西ヤンがプランターを蹴り続ける音を聴きながら、僕は頭の後ろで手を組み、コンクリートの上で仰向けになり瞼をとじた。瞼を透かしてくる太陽が眩しくて苛立たしかった。卒業してからしばらくしてロングホープの生産が終わった。


 画面では僕らに構い続けた国語教師の顔が卒業写真をボイコットしたバカなヤンキーみたいに隅にあって、事件を伝えていた。見慣れた校舎。処理された音声。「ウソー!」「あの先生が?」中学生にわいせつ。嘘だろ?「やはり俺は正しかった」西ヤンがもう一度言った。僕は電話を切った。嘘だろ?僕は卒業して何年かたって、やっと僕に対して口うるさく言ってきたあの教師のことがわかりはじめていた。感謝、といっては大袈裟だけど、もし顔を合わせるときがあったら前よりも話ができるような気がしていた。だから。正論を言い続けていて欲しかった。まっすぐに生きていて欲しかった。そのとき僕は高校時代に遡って裏切られたのかもしれない。そして僕は目の前のニュースに嘘だっていって欲しかった。


 ロングホープの生産が終わっても僕は生きて、当時の国語教師とほぼ同じ年になった。手の中で携帯電話が鳴る。「悪いけど俺は先に行くよ」西ヤンの声だ。プランターを蹴っていたときは別人のような穏やかな声だ。時の流れは残酷で僕からいろいろなものを奪っていく。「わかった」「情けない声をだすなよ」「ごめん」「俺の話、聞いてた?」「え?だからどこかにいくんだろ、天国とか」「あー違う。ソレ違うから。俺ね、結婚するの3月に」「えー!」「それでさパーティーの司会進行を頼みたいんだけど…」「無理」「なんで?」「無理だから無理」「まーとにかくもう決まりだからよろしく頼むわ」深夜にかけてくる電話か?嘘だろ?

 
 変わっていくもの。変わらないもの。僕のなかで。あるいは外で。いろいろあるけれど僕はこの世界で、与えられた命を精一杯生きるしかないのだと思う。あの頃吸っていたロングホープはなくなってショートホープに代わってしまったけれど、僕のホープは今でもちっとも変わらない。今そこにある希望。ゆきえ。僕はベッドに戻り、抱き枕になったゆきえを抱いて、明るい朝が来るのを眠らずに待った。おめでとう西ヤン。