ぷ〜りゅりゅりゅりゅ〜と笑っちゃいそうなピッチの上昇音階を奏でながら京浜急行が赤い車体を揺らすと、「ベイビーどうしたい?そんなに夢中?」、そう、オッパイがつり革ギュッと握りしめた眼下から語りかけてきて、そいつを迷いなく周囲の目を気にすることなく凝視する僕はオッパイマイスター。冬は裸か厚着。中途半端なスタイルはノー。でもそれがしょこたん似のギザカワユスギャルで、ダウンジャケットの下が、長袖Tシャツみたいに薄着だったりすれば話は別。気分アッパー!
で、ギャルの傍らに、あちらこちらに唾を吐いては、こちらが下手に出て趣味や特技を尋ねようものなら「趣味は〜寝ることっす。特技は体がやわらかいことっす」なんて言い放ちそうな、いかにも馬鹿っぽい男がいて、二人が指を前戯よろしく絡ませ、かたく手を握っているのを見つけてしまうと、ギャルは大宮か浦和あたりの信用金庫前で鼻クソを食べるブスに堕ちてしまうのだから、人生は無情っていうか、悲しみに満ちているっていうか、花の色はうつりにけりないたづらにっていうか、とにかく青い鳥はいない。
だいたい、普通電車が駅に停車するたびに目の前でいちゃいちゃするのだからかなわない。二人の小指と小指を結ぶ、細く、儚く、偽りと肉欲に満ちた、愛なき赤い糸を寸断した僕は赤い電車を降り、CDショップに入り、すぐに後悔する。赤い電車に置いてきたはずの男女がいたからだ。何組も。いや。無数に。そして純粋に音楽を楽しもうとする僕の首を、腕を、足を、その肉欲赤い糸で縛り上げようとする。
「見て〜肩に糸クズついてる〜」「マジうける〜」「この曲マジでクールだからアンナも聞けよ」「靴紐ほどけてる〜。超ウケるんだけど」「あそこのラーメン屋微妙〜」「つかマジありえなくね?」「マジ?マジ?」「ダチのダチのダチが超有名なミュージシャンで〜俺もダチのダチのダチ経由で〜」。顔の区別のつかない肉欲動物達のバイオレンスなノイズが僕を襲う。
これだから嫌なんだ。そうだ。僕はいつの間にか人が集まるところを忌み嫌うようになっている。楽しそうだから。華やかだから。賑やかだから。それらは月のない夜に湾岸線から眺めた工場が照明に照らされ、咲いた花を想わせる佇まいで闇に浮かんでいたように、僕を周りの情景から切り取ってしまう。それが悔しくて、不甲斐なくて、そんなつまらないことに苛立っている自分に僕はまた、苛立つ。たぶん、ほんの少しの勇気やキッカケがあれば僕も溶け込めるはずなのだ。なんて。一瞬、しんみりとしたけどやっぱり無理。無理無理無理。あんな馬鹿みたいには笑えない。はしゃげない。
そんなふうにして視聴コーナーで悶えていた僕の袖を誰かが引く。下へと。見ると、幼稚園児くらいの小さい女の子がいた。女の子の赤色のニット帽が少し大きく、別の生き物のように僕には見えた。女の子は僕の足元を指差し、「おじちゃん紐ほどけている」と言った。「ありがとね」と言ってしゃがみこみ、右足のリーガルの紐を結び直す僕の頭の向こうで声がした。「ちゃんと言えた?」「うん!」若い母親と娘の声だ。
僕が立ち上がるとすぐ近くにいたはずの親子の姿は消えていた。赤い帽子は見当たらなかった。どこにも。やっと手に入れた周りとの接点がなくなってしまい、逃げたいような追いかけたいような気分になった僕は、小走りでエスカレーターへ向かった。左の靴紐がほどけていてエスカレーターに引き摺りこまれそうになり、「ウワーっ」と情けない裏声を出してバランスを崩した僕は、CD屋を我が物顔で闊歩していた馬鹿っぽい唾吐き男と鼻クソ女に支えられ、助けられ、「オッサン気を付けろよな」と捨て台詞を言われ、悔しさのあまりトイレで嗚咽。靴紐がほどけているのを教えてくれる女の子を、僕は、見失ったまま。