世界的な不況は、神奈川の端に本社を置く、普段は世界からまったく相手にされていない僕の会社も見逃してはくれなかった。直撃。バカボンのオープニング、月が地球にストライクするあのイメージで、社を賭けた部長渾身の一大事業「フィリピンにフィリピンパブ出店」は潰れた。
今年最初の月次定例営業会議は、延期につぐ延期で難産だった。部長の、「わりい。俺は先のことを考えて2010年版の手帳を使っている。先取りしすぎて日付間違えたわ」「私用」「俺は鳥インフルエンザかもしれない」といういたしかたない理由によって月曜日へと延期になった。おそらく、部長は、カレンダーも時計も読めない。部長に公私の区別はつけられない。部長は風邪のたびに鳥インフルエンザだと騒ぐ。諦めの境地に立っている僕は、なにも感じない。白けた空気の流れる会議は、フィリピンパブ出店計画中止の詳細な報告が無念そうな表情をした部長から語られてしまうと、「セ・リーグのペナントレース予想」と「上原浩司はメジャーで何勝出来るか」という話題に終始した。
それならと、僕が「川上憲伸はメジャーで活躍できますかねー」、なんて、まるで興味がないことを言って盛り上げて差し上げようとすると、部長の眼は光を失い、「会議に関係のない話題はするな!」と毅然と言ったので僕は口と心を閉ざすことにした。「巨人を出ていった上原は並の選手」「巨人は20ゲーム差をつけて優勝」「ラミちゃんは今季はHRを60本打つ」。この三点だけを確認して会議は終わった。
会議室の重くオッサン臭い空気が緩むと部長が力の抜けた顔をして、まるでひとりごとを楽しんでいるかのように、一字一字を噛み締めるようにしてゆっくりと話しはじめた。「俺はもう60だ。今度の三月末で退職することになった。皆、今までありがとう…」そういって部長は笑った。その表情を僕は忘れることはないと思う。人は節目節目でいい顔をする力を神から授けられている。だから部長みたいな人物でも60年に一度くらいはいい顔が出来るのだ。
立ち上がった部長がホワイトボードに辞世の句を書いた。「一期一絵」。間違っているけれど誰も何も言わない。面倒くさいからだ。パパ…。どこからか拍手が起こり出し、やがてそれは雪崩のように大きくなり会議室の空気を震わせてっていった。ババババババババババ。あの終わらない夏の夕立を思わせる拍手。部長がいなくなる。心からの祝福。魂の歓喜。プリミティブな喝采。僕ははげしく手を打ちならし、足で床をドンドン踏み鳴らし、「三月と言わず、今この瞬間で退職でもいいですよ部長…」なんて思っていた。
部長は拍手のカーテンコールに乗って目を閉じると、胸についた社章をとりはずし、傷の癒えた小さな動物を森に返すように、テーブルにそっと置いた。僕の目は喜びのあまりチューニングがずれてしまったらしく、部長の動きの一連がスローモーションにみえた。部長はそれから会議室の奥にある神棚に深々と礼をすると「四月からは嘱託社員として部長職を続ける。生まれ変わった俺の指導を受けられるお前らは幸せだ、俺みたいないい上司に恵まれて…」と言った。将軍様の軍事パレードも真っ青の規律で拍手の波がぴたりと止み、そのあとは重苦しい沈黙。