Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

1995年のビーンボール


 雨が色を消した交差点で、横断歩道を見下ろしている信号が赤から青へと変わるのを僕は待っていた。知らない町だ。僕の町と同じなのは、ミニスカートの女の子の足をじっと眺めていると嫌な顔をされることくらいのものだ。嫌な顔をする女の子の顔はどれもカーボン紙で写したように同じに見える。青い絵の具がぴったりと空に貼りついたような素敵な夏の地下鉄で、初老にさしかかったサラリーマンがミニスカートの女の子から「じろじろと人様の足を見てんじゃねえよ。ハゲ。殺すぞ」と言われるのを見たこともある。哀しい光景だった。


 信号が青に切り替わると頭の上のスピーカーから、「桃太郎の歌」が流れはじめた。「桃太郎の歌」のもの哀しいメロディーはいつものように僕を激しく混乱させた。もーもたろさん!ももたろさーん!僕は頭を抱え、吐き気がして横断歩道の途中でうずくまった。おえおえ。向こう側からやってきた女の子の二人組は僕をみて、「マジ、キモイんだけど!」「はやくいこ!」と言った。ベンツの偽エンブレムを付けたダンプに乗ったオッサンが窓から首を伸ばして「邪魔だ。ひっ殺すぞ」と怒鳴った。すべてが別の惑星の空気に映された映像にみえた。桃太郎の歌が終わると僕は大学の大教室にいた。


 民法の講義のあとで僕と彼ははじめて出会った。記憶は確実に薄まっていて、どういうきっかけで話をしたのか覚えていない。たぶん、土器の底みたいな教室の片隅で彼がドラえもんのコミックを読んでいて、気になった僕が声をかけたのだとおもう。「ドラえもんかい?」と僕は言った。「9巻さ」彼は僕が尋ねてもいないことを飄々と答え、「「ぼく、桃太郎のなんなのさ」が収録されている。バケル君との合作なんだ」と続けた。僕は確認するように言った。「バケル君?なんだいそれは」「すべてをわかろうとするから戦争がなくならないんだ」と彼は言うとタバコに火を点け、反応したスプリンクラーによって鎮火された。


 それからすぐに僕と友人は小さな事務所を借りて仕事を始めた。部屋にお似合いなサイズのエアーコンディショナーと性能のいいトランジスタラジオとデスクを買い、壁にはコンプティークのエロ袋綴じと宮沢リエのサンタフェをバラバラにして、貼った。僕らは毎朝九時に事務所に行き、英文でタイプされたA4の紙の山を、僕が一枚ずつ日本語に訳して日本語でタイプされたA4の紙の山へと変えていった。それから友人が、僕の積み上げた日本語の山を英語の山へと変えていった。


 一日のノルマを終えると僕らはコロナビールの栓をあけ、友人はよく油をひいた熱いフライパンでパスタを炒めた。いくつかの例外を除いて、たいていの昼すぎにはコロナビールの炭酸はじゅっと僕の喉を湿らせた。パスタはいつもソース味だった。具は一切なかった。「これが本場のパスタさ。一般的には知られていないけれどね。イタリアンレストランの賄いではこういうパスタを食べているのさ」と友人は主張したが率直にいって、それは焼きそばだった。


 僕らは月に何度か、変態教師が履きそうなノータックの紺スラックスを、ニコちゃん大王のウンコ顔がバックルに付いた上質の皮ベルトで止めて、依頼主の元を訪れ、報酬を得た。僕らの仕事にどういった意味があるのかはわからなかった。それはどうでもよかった。英語を日本語に訳し、それをもういちど元の英語に訳すことが必要な人間が世界のどこかにはいるということだ。少なくとも一人は。


 仕事は順調だった。僕らはセガサターンを買い、アルバイトの女の子を時給666円で雇った。横顔から覗く鼻の穴がチャーミングな子だった。僕らは報酬の半分をブタの形をした貯金箱に入れ、残りの半分で経費を払い、その残りを二人で山分けした。毎日、お酒をゴックンして鼻野穴子(しっくり当てはまったニックネームがあれば名前なんて意味がないだろう?)への給与の支払いを忘れ続けた僕らはしかるべき手段で訴えられ、会社は空になったブタの貯金箱を残して倒産した。友人は会社がなくなった夜、姿を消した。鼻野穴子もどこかへ行ってしまった。


 友人の消えた部屋では、セガサターンが「エネミー・ゼロ」を動かしていた。「エネミー・ゼロ」。デジタル製の壮大な紙芝居だ。僕は、僕らの紙芝居も終わったのだとブラウン管からの明かりに照らされたときに悟った。電源を落とそうと近づいたテレビのうえで、友人と鼻野穴子のハメ撮りポラロイドを見つけた。やれやれ。僕はポラロイドをリーバイスのポケットに突っ込んで部屋を飛び出した。世界中が一斉にお通夜を迎えたような奇妙な静けさが僕を包んでいた。僕のスニーカーがアスファルトを叩く音だけが響いた。


 「ピストルをくれ。出世払いで」。僕は歌舞伎町の真ん中で拳銃を売ってくれそうなヒゲの濃い外人を見つけては、手当たりしだいに声をかけていった。奴らは今どこにいるんだ?そう叫びながら、僕は、暗く、色のない水のなかへ沈んでいくような思いに侵食されていき、白紙の答案を前に正解を読み上げられるようにして、戦争がなくならない理由を知った。