「届かない思いや、報われない気持ちはどこへ行ってしまうのでしょうか」。僕の斜め前で青椒肉絲のピーマンを、解剖でもするような手付きで皿の縁へ避けていた総務のマヤちゃんが前触れもなくそう言うので僕は心を乱してしまう。言葉の末尾に半透明の疑問符のような曖昧さがあり、質問なのか独り言なのか、答えを求めているのかいないのか判断できなかったからだ。そして僕はなぜか遠く暗い宇宙を泳ぐ鯨のことを考え始めていた。
バカな宇宙人に手違いで拉致され、宇宙人A「キャトルミューティレーション!」宇宙人B「うわっキモ!地球人のアニメみたいな掛け声やめろよ〜」なんてコントの末にどこかの牛の身代わりにチンポコをくり抜かれ宇宙に遺棄された鯨。星の海を、行く先のない航海を、泳ぐ鯨。僕も宇宙鯨と同様に目的地を見つけられずにいる。
沈黙はいつも僕の背中を押す。なにか言わなければいけない気がしてくる。軽口で少女に陰毛の生えた程度のガールを煙に巻くなど赤子の手をひねるようなものだ。僕は言った。「僕もたくさんの気持ちを女性に投げつけてきたけれどまったく届かないね。女性ってのは残酷だよ。たった一匹の精子以外は皆殺し。ジェノサイド。僕の気持ちも精子みたいにどこかで干上がっているんじゃな…」「訊いてない!」と総務ガールは言った。
テーブルには僕ら以外に若いだけの鼻の穴が臭そうな同僚が二人。そういうことね。気まずい空気を中和させるように僕は担々麺を指差しながら「この野菜なんていうんだっけ?」と訊いた。「チンゲン菜」と総務ガールがだるそうに答えた。「デザート何にしたの?」と訊くと「マンゴープリン」と総務ガールの声が言った。それから総務ガールは並列ピーマンを塗り箸でつまみまとめて口に放り込んだ。担々麺の器、橙色の海を宇宙鯨が泳いでいるのを僕は見た。美しい時間だった。
人の気持ちはどこへいくのか。仕事を終えた午後六時の僕のなかを雪のように不安が降り積もり覆っていった。僕は、キャバクラと僕のあいだに拡がる給料日前には無限にも思える空間をぱきんと半分に折った。ぱきん。ぱきん。空間を折り畳んで半分にする作業を繰り返し、気が付くと僕はキャバクラにいた。胸の空いたドレスから覗くオッパイを眺めながら水割りを飲み、トイレに行き、ギャルがくれたおしぼりで首を拭き、水割りを飲み、トイレに行き、ギャルがくれたおしぼりで耳の周りを拭いた。僕は、おしぼりが、好きだ。
「いままで何人の女の子と寝たの?」「666人と寝たところで呪いをかけられた」「すごーい」。空虚を実感させる以外に意味をもたない会話を終えてしまうと店から出たくて仕方なくなり、すぐに抑えきれないものになった。水割りの氷の間を宇宙鯨が漂っているのを見た。鯨は生きているようにも死んでいるようにも見えた。
店を出た僕は路上で酔い潰れたオッサンに躓いてバランスを崩した。胸のポケットから物が飛び出す。10円玉(ギザジュウ)、折れた銀行のカード、なめ猫の免許証、キャバ嬢の名刺。蝶を模した名刺は、ネオンに照らされて今にも甘い香りがしそうな彩りを湛えていた。伸ばした手をすり抜けるようにして名刺は夜の空気へと舞い始めた。僕は離れていく名刺を追いかけた。「待てー」「オエー」とか言いながら蝶を追いかけていると暗い辻から首無しの武士が出てきて甲冑を派手にガチャガチャ鳴らしながら僕を追い掛けてきた。海岸線に掛かる横断歩道の信号が赤になり僕は立ち止まった。後から付いてきた首無し武者が口無しのクセに「天誅!」とか言って僕の首を刎ねた。
胴体から離脱した僕の首はつかの間の慣性飛行のあとで宅急便の4トン車にはねられた。ぐるんぐるん回転する世界。蝶と鯨が夜空で戯れているのを見た。蝶と鯨は融け合って輪郭を失い、色彩だけが残った。すべての色の光と影がそこにはあった。人の気持ちの美しさや儚さや醜さをあぶり出して可視化したもの。美しい光景だった。それから煩悩の詰まった僕の首チョンパは、対向斜線に飛び出しトレーラーにぐしゃっと踏み潰され、そのあとは明け方まで闇。