Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

ロックンロールはふり向かない。


 その声は、ある朝突然、ロックンロールに乗ってやってきた。初夏。春先からダイエットを兼ねて続けていた自転車通勤を暑さで挫折した僕は、毎朝、江ノ電に揺られていた。小さな路線なので読書にはむかない。だから音楽、iPod、インナーイヤーヘッドフォンにひとりごと。


 僕はひとりごとが多い。電車のなかで、インナーイヤーヘッドフォン、稲妻のようにつぶやき、それから、カウル型、と添えてみたりもする。プレイヤーの電源が切れていてもインナーイヤーヘッドフォン。インナーイの接触面が、とか、ヘッドフォの調整が、なんて、呟きながら抜き差しをしていると、この人サウンドに一家言あるにちがいない、と尊敬されつつ、耳掃除ができるから。そんな朝にロックンロールに乗ってその声は僕の背中のほうからやってきた。


 最初にカシャカシャ、ぼんやりとした音。耳を澄ますとドラムとギターが徐々に鮮明になって、エイトビート。ボリュームはとても小さい。あれ、幻聴?昨夜の酒が残っているのか?と戸惑っていると誰かが僕の背中をちょんちょんと叩いた。振り返るとやわらかい声。「落ちましたよ」。インナーイヤーヘッドフォンのイヤーピースが抜き差しで外れ、床に落ちていた。朝陽が斜めに刺さっている床の上で、イヤーピースは黒く丸く、音符のようだった。


 声の主は高校生の女の子。色が透き通るほど白い。彼女の手にある密閉型ヘッドフォンからは小さくロックンロール。肩にかかる髪からのぞく耳は綺麗な楕円形で、スカートから伸びた白い足はしっかりと靴に収まっていた。イヤーピースを拾って、どうも、というと声の主はヘッドフォンをしてドアに寄りかかり退屈そうに外を眺めていた。大人しそうな雰囲気の彼女のブラウスに透けるピンクと黒のブラジャーがやけに派手で不釣合いにみえた。どうも、ともういちど。反応なし。どうやら僕の声はロックンロールの海で溺れてしまったらしい。


 それから毎朝、7時29分長谷駅発藤沢行きの電車で彼女を見かけた。いつも退屈そうに最後尾のドアに寄りかかり、外を眺めていた。いつも、ヘッドフォンをして、いた。つまらなそうに何の音楽を聴いているのか興味はあったけれど、きっかけがなく、ただ見ていた。いちど、ヘッドフォンを外すのをみた。ピアスがひとつ、ぼうっと光った。ブラジャーはいつも派手だった。いつのまにか、彼女の靴のかかとは潰れていた。


 いつもの本格的な夏がきて、彼女はあらわれなくなった。夏のあいだ、僕はビールを飲み続け、からだの脂を増やした。9月に入ると、また、ダイエットを兼ねて自転車通勤をはじめた。2ヶ月間ペダルを踏んだけれども、脂肪が減る兆候もみせず、朝夕の風が冷たくなって35歳の肉体にこたえるようになると、僕はまた7時29分長谷駅発藤沢行きの電車に乗り始めた。最後尾の扉がひらくと、いた。ヘッドフォンの彼女は、夏の朝と同じようにドアに寄りかかり、つまらなそうに、いた。


 彼女はもう外を眺めてはいなかった。大きなストラップがついた携帯をいじるのに夢中になっていた。ヘッドフォンは首にぶら下がっていた。綺麗な黒い髪は金色に変わっていた。白い肌に桃色の口紅は不釣合いによく映えていた。ピアスは増えていた。スカートは短くなっていた。袖が伸びた茶色のセーターを着たおかげで派手なブラジャーが見えなくて、よかった。


 僕はひとりごとが多い。ひと夏、と呟こうとしたら、胸がいっぱいになった。祈るような気持ちで目をとじた。すると、また僕のうしろからあの小さなロックンロールが耳に吸い込まれてきて僕はすこしだけ安心した。君の先にはいろいろなものが溢れている、君に寄り添うように溢れている。さようなら。僕はもう、振り返らない。ロックンロール、この子をよろしく頼むぜ。