僕の右胸にある黒い影が先々月よりひとまわり大きくなっているのがわかって、明日、僕は紹介された都内の病院でCTスキャンを受けることになった。昨夜、目にしたものが頭から離れなくなる。昨夜、僕は興味本位で影の見つかった部位をインターネットで調べていた。検索結果に、ある病名が並んだ。ある種の圧力がその名にはあった。肺癌。十数年前、ひと夏のうちに僕の祖母を襲い、葬った病だった。
病院を出て家へ向かう。歩道に落ちた枯葉をスニーカーが踏みしめる音だけがした。「よくあることです」、診察した医師はなにごともなかったかのように、さらりと僕に言った。彼の患者をむやみに不安にさせまいとする気づかいと職業経験上から生まれた言いまわしはかえって僕を不安にさせた。よくあること?もし僕の胸にある影が悪性のものだとわかったとき、彼はそれでも言うのだろうか。さらりと、何事もなかったように。よくあること、と。
言葉は、想いを伝え人を繋ぎ物語を紡ぎ、さまざまなものを可能にする神だと僕は信じているけれど、ときおり、気まぐれや癇癪を起こして、善意を悪意に変換して伝えるような残酷な仕打ちをする。言葉は、ときおり、悪戯だろうか、姿をくらましたりもする。今朝、電話の掛けてある柱の目の止まる高さに、病院へ行ってくる、と書いたメモ紙をピンでとめて家を出たのは、家族になんて言えばいいのか、見つけられなかったからだ。焦げ茶色の柱には僕が子供のころの身長が階段のように白く細く刻まれていた。
遮断機が降り電車が右から左へと走り去っていく。音は、しない。車両の向こう側の光景はコマの少ないフィルムのようにかくかくしてぎこちなく見えた。じつのところ僕は楽観的で、右胸にある影も中華丼にはいっていたキクラゲが引っ掛かっていました〜よくあることです〜、そんな笑えるオチなんじゃないかと睨んでいるのだけれど、はっきりとオチを耳にしないかぎりは、不安で、怖い。ナイター観戦だって、ファールボールにご注意ください、というアナウンスのあとボールが飛んできて死につながるような大怪我をする可能性はゼロじゃないだろう。死は案外近くにいるものだ。
情けないけれど自分の死を意識してしまうと追われるような気分になって、自分以外のことを思いやる余裕はどこかに霧散してしまう。僕は家族や友人、自分の周辺にいる人を大事にしたいと常日頃は思っていて、不測の事態で僕が斃れたときでも迷惑をかけないようにしたいとは考えていたのだけれど、実際、今の僕は自分のことしか頭にないのだ。演習と本番は異質だ。
携帯に着信があった。母からだった。僕が病院でのいきさつを話すと、母は、ひとことだけ、きっと大丈夫、と言った。僕は、もし、自分に何かがあったときに母親や周辺がどうなるか、どう思うかをまったく考えられない自分の小ささにムカつきながら、できるだけ平静な口ぶりで、そうだね。もしものときは生命保険に入っているから、と答えた。すると、母は、そういうことを親に対して口にするもんじゃない、といって切った。はっ、となった。そうだ。もし、言葉が神ならば。
僕はなぜか、子供のころ柱に頭をつけて身長を測ってもらうときに、親に見付からないようにして背伸びをしたことを思い返して悔やんでいた。僕は背伸びせずに正面から向かいあわなければいけない。あらゆるものに。僕にその瞬間が訪れるときに備えてもっと強くならなければいけない、他人を想えるくらいの逞しさを身につけなければいけない。もっと。もっともっと。静まりかえった踏み切りを渡っている僕の耳に、街のいろいろな音が、冬眠から目覚めたように飛び込んできた。