すべてを包み、押し流していく時間。僕は流される。もちろんあなたも。流れていく時間の感じかたは人それぞれのもので、残念ながら生きているあいだに、僕にとっての、あなたにとってのベストな時間の感じかたが見つかるという保証は全くない。もしかするとそんなものは存在しないのかもしれない。あるいは、存在していても、決して、触れられないものなのかもしれない。今日の僕たちが、昨日の僕たちや明日の僕たちに声をかけることが出来ないように。あるいは、神のように。だけど、これが私の選んだ生き方です、という時間は存在しうる。
おそらく、彼の目には、血の通っている僕らだけでなく、目の前に置かれたグラスや、ほうれん草のお浸しといった命の宿ってないものでさえ、早送りのように映っているだろう。「遠いところをごめんなさいね」といって彼女は僕と彼の前に置かれたグラスにビールを注いだ。「気にしなくていいよ」と僕は言い、出張の帰りに立ち寄った経緯と、久しぶりになったことを詫びた。僕と彼女は、彼にグラスを掲げて五年ぶりの乾杯をした。ふたつのグラスが鳴らす、かちん、という音が、駅構内にある店特有の喧騒の隙間に響いた。
本当に久しぶりね、彼も喜んでいるわ、といってビールを飲み干した彼女の頬は、ずいぶんと痩せてしまっていた。あの、ふっくらとしていた彼女の頬は、僕と過ごした学生時代とともに、どこかへ消えてしまったのかもしれない。「もう三十六だよ。あと十五年で旦那に追いついてしまう」と言うと彼女は「早いよね。本当に」とこたえた。闘病中の彼には時間の流れがどう見えただろう。人生の終わりまでの一分一秒を噛み締めるように、じっくりゆっくりとした流れに感じられただろうか、それとも駆け抜けるような一瞬に感じられただろうか。
彼が病だと知っていて、彼女は結婚した。ささやかなウエディングパーティーで、病を聞かされた僕は、二人で力をあわせれば病魔には勝てる、そんな、型どおりなことを言った。彼は、オッケー!といって僕の肩を叩いた。どうでもいいことはいくらでも口から出てくるのに、どうして、ここっていう肝心なとき、言葉を見つけられないのだろう。それから彼が亡くなるまでの一年間の、彼と彼女の闘いは、僕の想像を絶する、壮絶なものだったはずだ。僕はよく、そのときのオッケーについて考える。病気の五十代の男から気のきいたことがいえない三十代の男へのオッケー。どの側面を切り取ってもオッケーじゃない。これからも僕は時折考えてしまうにちがいない。
「もう五年だろ。そろそろ旦那も許してくれるんじゃないか?」冗談混じりに僕が言うのを「むこうの親にもよく言われるんだけど…」といって制して彼女は笑った。みんながいろいろ言ってくれるのは嬉しいんだけど、と前置きして、「でも、自分の気の済むまでは…先のことはわからないけど、今は終わりまで彼と一緒にいるつもり」。彼女の生き方は正しい。もちろん。彼女と彼の短かったけれど濃密な時間は、他者のうかがい知れない深い時間のながれだったのだろう。彼と一緒に生きる生き方を選んだ彼女は幸せなのだ。それがとても厳しいものになったとしても。
僕は、グラスを手のひらで弄びながら、時間が、僕の昔の恋心と彼に対する僅かな嫉妬をどこかへ流してくれるのを待った。「ねえ?」「ん?」「最近、君はどんな感じに生きているの?」「そうだな、あまりいいことはないよ」僕はグラスの底で温くなったビールを流し込み、話しはじめた。僕もあなたも、流れていく時間のなかで、生き方を彼女のように見つけられるといい。目の前の彼女の頬には昔と変らないエクボがあった。