Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

大銀杏はたおれた

 源 実朝暗殺の舞台とされ、「隠れ銀杏」と呼ばれる鎌倉市鶴岡八幡宮の大銀杏が倒れた。


 「倒れた大銀杏なんか見たって…」と若宮大路を歩きながら爺ちゃんは言う。「生き返るわけじゃあるまいし、なあ。銀杏さんだって倒れた姿なんて見られたくないだろう」。帰ろう帰ろう、言いはじめた爺ちゃんが、最初、大銀杏と呼んでいたのに、いつの間にか、銀杏さん、銀杏さんと呼んでいて、あ、爺ちゃんにとっては、古くからの知り合いの銀杏さんなんだな、ってなんか爺ちゃんにくっついてる感じがおかしかった。そもそも八幡宮に行こうと言い出したのは爺ちゃんのほうなのだ。


 胃は痛え、金はめぐってこねえ、一攫千金の夢を抱いてパチンコにいけば、お金は銀玉となって機械に吸い込まれ、わたくしの銀玉は隣に座ったカップルの機械から吐き出されるばかりで、たいへん面白くなく、瞬く間に千円札一枚を残してすってんてんになり、胃痛はますます酷くなる。このままじゃいけねえ、銭洗弁天にいって金運を変えよう、お参りし、しめしめこれで金運向上って虎の子の千円札を洗い、ひらひら火であぶっていると、朝からハンバーグを食べていそうなお子様が一万円札を二枚ひらひらさせていて、たいへん面白くなく、負けないようひらひらさせていると、中国製のかっこいいナイロンジャンパーに引火して穴が。とことんついてない。もしかして尽きたのか命運、ひょっとして死ぬのか、穴があいていて古着調にかっこいい中国製ナイロンジャンパーを着こなし、とぼとぼ坂道をくだると鎌倉駅西口駅前で僕に手をふる人影がひとり。とても似ている。誰にって僕に。うわドッペルゲンガー、本格的に死ぬな、くそう、残機ゼロだ、覚悟を決めていると、それが爺ちゃん。グランパっていうらしいねこのごろは。「時代劇を録画してくれ、機械はさっぱりわからない」と騒ぐので家に戻り、とっとと世話をしてやると、八幡宮へ行きたい、大銀杏を見たい、と言い出したのだ。


 めぇんどくせーって「え、いーよ、このあいだ見てきたから」やんわり断ると「ここのところ弱ってしまって…歩いていっても帰ってこられるか自信がもてない。今年一年もてばって思っているんだけどなあ…」と泣き言を言い始める。「爺ちゃんそんなこといわないで、百まで頑張ってくれよ。百まで生きてそれから死のうよ。百になったらこころおきなく死んでいいから」「一月で百になった…いますぐ死ねといっているのか」「さあ、風が冷たくなるまえに出発しようか」大銀杏を倒した北風はまだ強かった。


 大銀杏は倒れていた。山側の斜面に弱々しく、寄りかかるように、倒れていなくて、よかった。根本から豪快に折れ、谷側に前のめりにずどんと倒れているさまは、神木の最期らしいと思った。大銀杏の周りには、調査をする人、見守る人、写真をとる人、たくさんの人がいた。デジタルカメラで大銀杏の《らしい》倒れっぷりを撮っていると、「罰当たりめ」と爺ちゃんの声。やべー怒ってる怒ってるってカメラから目を離した僕の横には深くお辞儀をしている少年がいた。少年は学生服を着て、額が地面に落ちてしまうほど深く腰を折っていた。あれ、爺ちゃん、と一帯を見回し、爺ちゃん見なかったか訊こうと、少年の方を向くと少年がいたはずのところには爺ちゃんがいて、やっぱ怒ってた。


 「大銀杏も気の毒だ。神木とされて、たくさん手を合わせられてきたけど、大銀杏自身の長寿と安全を祈願する人間なんていなかったんじゃないか。みんな自分の夢や健康ばかりを祈願するばかりでさ。それで倒れたら、寂しいだ、悲しいだ、勝手すぎやしないか」と爺ちゃんは大声でぶちまけた。近くにいたおばはんがわざとらしく、ぎょっとした顔をした。「まあ、落ち着いてよ、風が冷たくなってきたから今日は帰ろう」と僕がいって、境内をあとにした。


 爺ちゃんのいうとおりだ。人間は自身のことばかりを祈ってきた。大銀杏を神として。不死だと決めつけて。で、大銀杏は神で祈ったり願ったりすれば、それがかなう救われるという考えが、人間の深い部分に敷設されていて、いざ、倒れてしまうと、それが深い部分にありすぎて、うまく対処できないから、不安になる、不吉な予感がする。すべて人間の勝手だ。神木だって死ぬ。不安になる。でもそれでいいのだ。不安になるということは、人間を守る重要な性能で、知らず知らずのうちにおおきな困難から遠ざけていくにちがいない。兎にも角にも大銀杏は倒れた。ちっぽけで脆弱な人間の不安や心配を余所に。


 人間は勝手だ、なーんて偉そうにいっている僕だって大銀杏のことは忘れがちだったりする。参拝にいけば本宮めざし大石段を駆け上がり脇にある大銀杏はおざなりだし、アルバムをめくってみても、大銀杏の写真はほとんどない。


(昭和50年 太鼓橋を登る僕の姿。このころから知性的な顔をしているね。大銀杏が遠くに見える)
 この正月に婚約者候補予備軍補佐代理の人から、大銀杏の写真を撮りましょうと言われなかったら、まともに撮ったものは一枚もなかったくらいだ。大銀杏は移植され再生の可能性は高いそうだ。生まれ変わってまた長い年月をかけて年輪を重ね大樹になっていくのだろう。いまさらだけど僕は祈る。大銀杏の再生と幸福を。どうかその年輪に暗殺者が隠れたりしませんように。


 部屋に帰り、デジタルカメラの画像を確認すると、大銀杏の画像は何も残っていなかった。爺ちゃんの仕業か、でも機械に弱い爺ちゃんに出来るのか、こんな真似。「罰当たりめ」ふっ、と爺ちゃんの言葉が蘇った。罰当たり。僕は八幡宮の方角を向き、大銀杏の復活再生もいいですが、それよりもなによりもって己の身の安全を脂汗がにじみでるほど必死に祈願した。人間は弱くて勝手だなあなんて思いながら。