Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

分家の買い物

 これは病院から出てきて母と会ったさい、聞いた話だ。母は、僕をのぞいた家族の話を、身振り手振り物まねをしながら、じつに楽しそうに話をする。僕についての話をするときは、伏し目がち、吐き捨てるような早口、ため息の連続になるのだけれど。


 静岡で暮らしている弟一家のことを母は分家と呼ぶ。今日、分家を訪れた母は、義妹とスーパーへ買い物へ行ったそうだ。分家には三人の子供がいる。三人とも男の子。僕からすれば甥だ。僕の家系は、男ばかりが産まれる。しかも全員血液型、B。おかげで僕は、母以外の女性ものの下着が物干し台ではためく情景をみたことはないし、自己主張合戦にならずに穏便に終わる家族会議も知らない。買い物には甥たちもついてきたそうだ。友達と遊びにいった長男をのぞく二人、六歳のカンと、昨夏生まれたばかりのワー。


 買い物を終えた母はカートを押してレジに並んだ。義妹は赤ん坊のワーを抱っこ。母たちの前には同じように買い物カートを前に置いて並んでいる若い女性が一人でいた。その女性はかなりふくよかな体型をしていたそうだ。力士レベルの。人なつっこいカンが女性に、ねえ、ねえ、と声を掛けた。とっさの出来事で、母たちはカンが何をしようとしているのか考えが及ばなかったそうだ。女性はカンに、あらどうしたの、と言った。するとカンはその、力士レベルにふくよかな女性をさして、「ねえ、赤ちゃんいるの?ねえねえ赤ちゃんいるの?」と大きな声で言った。


 赤ちゃんいるの?ねえ、赤ちゃんいるの?。子供のやること。とはいえ母と義妹の大人ふたりの動揺は想像に難くない。僕なら逃亡している。カンは、赤ちゃんいるんでしょ、ねえ、大きいの?赤ちゃん、と続けた。子供は残酷だ。たまらず母たちは女性に子供の非礼を謝ったそうだ。するとそのふくよかな女性は笑いながらカンに話しかけた。「そうね、お姉ちゃんには赤ちゃんがいるの。ちょうどそこのボクくらいかな」女性はカンを誘導するように抱っこされているワーの方を指差した。「やっぱり赤ちゃんいるんだあ」。母たちはしきりに謝ったらしいが、女性はまるで気にすることもなく支払いを済ませていってしまった。


 母と義妹はカンを叱ったそうだ。どうしてああいうこと言うの、言っちゃダメでしょ、おそらく、そのようなことを、鬼の形相で言ったんだろう。するとカンは言い返してきた。「悪くないよ。赤ちゃんいるからどこにいるのかきいたの」。だからそういうことを言っちゃダメなの。ああいう人に言っちゃダメなの。「どうして?」。だからダメなの。ああいう人に言っちゃダメなの。「だっておんなじなんだもん」。母も義妹も子供が何を言っているのかわからなかったらしい。何が?何がおんなじなの?ちがうでしょ。お姉さんはちがうの。とにかくダメなの。「だってお姉ちゃんの車のなかにおんなじのがあったの」。だから何が。ダメなものはダメなの。「これ!」カンが大きな声を出した。


 そのあと、一部始終をみていたレジのおじさんから、ぼく偉いぞ、ちゃんと見ていたんだな、遊びにいくときもちゃんと用心して前を見るんだぞ、とカンはほめられたのよ、わたしたちは面目もなにもなくなってしまったけれど、って笑うと母は、たいしたことではないけれど、たぶん今日のことは一生忘れないと思うなあ、みんなが元気でいて普通なのがイチバンと僕に言った。僕は、母が一生忘れないといったのが、なんとなくわかる気がした。人間が最期に思いだす情景って特別なものじゃなくて、ごくありふれた日常なんじゃないか。「まだ勉強不足ねえ…」「あのさ、母さん」「何よ」「実は俺、入院していてさっき退院してきたところなんだよね」「生きていればいいのよ」


 「これ!」。大きな声を出したカンは買い物カートから箱を取り出した。離乳食の箱だった。