我が家は関東大震災の直後に建てられた。親父が亡くなって、すこし落ち着いたころだと思う。そんな古い家に我慢できずに、僕は母に言った。「こんな古い家なんて売りに出してさ。新しい町でやりなおそう。鎌倉って高く売れるらしいしさ」。母は、そんなうまくいかないでしょ、といって聞く耳を持たなかった。そのときは笑い話の枠を越えずに終わった。けれども僕は本気だった。一家の大黒柱を失って不安でたまらなかったのだ。将来を考える余裕はなかった。古い家は、これくらいのことで情けないとでも言っているようだった。不甲斐ない僕に圧力をかけてくるように思えた。人生が川なら、僕は、その深さを恐れて、何もできず、いや、何もしなかったのだ。ただ、闇雲に、楽な方法を探していたのだ。重圧を、古い家を川底に沈めれば、足が届くようになると錯覚して。
ある晩、僕がアルバイトから帰ってくると、食卓のうえに手紙が置いてあった。母はパートに行っていた。手紙には「古くてつぎはぎばかりだけれどお母さんにとっては、お父さんが遺してくれた大事な家です。あんたが言うように、もしかすると売ってしまえば楽なのかもしれない。ただ、戦わずに逃げるようにして出ていってしまえば後悔する。屋根がある。布団がある。灯りがつく。暖かいお湯がでる。それだけでじゅうぶん、まだまだやれると私は思うのです。細かな失敗はつきものだけど」と書かれていた。その手紙の最後は「でもあなたの人生はあなたのもの。あなたは自由にイキなさい」と結ばれていた。イキなさい=《生きなさい》《息なさい》《行きなさい》。僕の浅はかな考えは見抜かれていた。恥ずかしかった。
僕は思い出した。ずっと昔の夏のことだ。記憶のなかで麦藁帽子をかぶったタンクトップ親父が知り合いの大工さんたちと汗をだらだらと流しながら煙草を吸っていた。当時、家の風呂は庭の隅にあった離れのプレハブにあった。夜、風呂にはいるたびに怖い怖いといって泣く僕のために、親父と祖父が家のなかに風呂をつくってくれたのだ。古い家のつぎはぎは、そういう、家族の絆だ。手紙から目をあげると、ぐじゃぐじゃに歪んだまるで奇形の月が見えた。川は深い。僕だけでなく、誰にとっても。深さからは逃げられない。泳いでしまえば深さは関係ない。不細工で、格好悪くても、滅茶苦茶でもいい。手足を動かして進んでいけばいい。無我夢中になっているあいだは、深さ、恐怖や弱さを忘れられる。
今朝、二日酔いだった。酒を抜こうと、風呂を沸かして入った。あの風呂だ。すりガラスのはいった扉はガタがきている。高い位置にとられた窓は半分しかひらかない。酒が抜けたら髭を剃ろう。なにをやってんだーオレはーと思うことはまだまだ多いけれど、僕はあのころよりうまく泳げるようになっている。今日は親父の命日だ。18年経った。18だった僕は36になった。倍になってしまった。明日以降、親父の知っている僕の時間より、親父の知らない僕の時間のほうが大きくなっていく。倍、三倍、四倍…。不思議な感じがするけれど、今、僕は、親父の知らない僕の時間が大きくなっていくことがすごく楽しい。素敵だとも思う。親父、早死のあんたが悪い。許せ。
ときどきあの手紙のこと、あれを書いたときの母の気持ちについて考える。今朝も浴槽につかりながら考えてみた。僕はいつも確認する。自分のなかでゴーのシグナルが出るときってある。手紙を読んだときは間違いなく、そのとき、だった、と。つぎはぎだらけの家もいいものだ、と。もういなくなってしまった親父たちがつくった風呂は、ひざを曲げないと湯船につかれないくらい、狭い。便所は、コタツが置けるほど、広い。風呂と便所。水まわり…。親父の失敗については、家を守ろうといった母も、ことあるごとに文句を言っている。