Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

「専門性」という名のブラックボックスを開けてはならぬ。

 仕事における「専門性」はブラックボックスだ。そんなふうに思ったのは、僕が専門性の極北、《職人》に苦悩しているからだ。妻の実家が由緒ある箱職人の家で、跡取りのいない義父、会社員生活に絶望した僕、お互いの利害が僅かに一致した結果、僕は今、週末ハコ職人(見習い)をしているのだ。


 10月24日土曜日。午前11時。ハコ職人の朝は早い。僕はこの日、職人の厳しい仕事ぶりを目の当たりにして絶望することになる。「段取りが全て」「基本は整理整頓」「仕事は見て覚えるように」口癖のように仰る義父の一挙一動を僕は見逃さない。網膜に焼き付けるように。目を皿のようにして。義父がキキララの座布団に鎮座すると、さすが職人、場の空気が引き締まった。

 

 張り詰めた空気に義父の「あれ?」と素っ頓狂な声が響くやいなや、義父は工房中を捜索しはじめた。道具が見当たらないらしい。道具を見つけたときには正午になっていて、職人らしくきっちり昼休み。仕事が遅れど午後3時にはオヤツタイム。これは厳しいと思った。きっつー、と心が叫んでいた。こんな人に付いて呑気にハコを作っていて大丈夫なのだろうか。不安で吐きそうになる。僕にはわかっていた。この不安は職人=専門職の仕事が外部から見ると皆目わからず、《ブラックボックス》になっていることが原因なのだと僕はわかっていた。


 僕の務めている食品系の会社にも、職人はいる。傘下にある料亭の料理人のオヤジたち。彼らは皆、若い頃、親方の下での下働き、厳しい修行で技術を身につけて、今の地位にいた。彼らは下についた人間を昔の流儀で丁稚のように扱う。それこそ早朝から晩までの厳しい修行。彼らは厳しさは愛情だといって己を変えようとしない。実績もがあるから。自信も後押しをするから。そのうえクソ頑固。

 

 しかしここは会社。僕は、彼ら職人に対して所定労働時間を守るように何度も話をした。答えは例外なくこうだった。「8時間じゃ人は育たない」「仕事が回らない」。確かに朝4時から夜まで働かせていれば人は育つだろう。でも会社という組織でそれは出来ない相談。しかし職人たちは自分の仕事をブラックボックスに入れて守ろうとする。「わかってない」「わかりゃしない」と言いながら。僕に言わせればそれは既得権益や特別待遇を守るための強行手段にしか見えなかった。

 

 時間と手間をかけて職人たちを会社に取り込むことには成功したが、遂にブラックボックスの中身を精査することは出来なかった。そして彼らの仕事を所定労働時間に収めた結果、彼ら職人に続く人材は見事に育たないでいる。職人たちはその頑固さを8時間労働を死守するために活用するようになり、当該事業は一時的にガタガタになった。職人たちはこう言い放った。「余計なことをするからこうなるんだ」僕にはこう聞こえた。《ブラックボックスを開けようとするからこういうことになるんだ》組織が変革するときには必ず専門職というブラックボックスが立ちはだかる。果たして、ブラックボックスを開けずに彼らをコントロールすることは出来るのだろうか。


 ハコ職人の道を歩み出した僕が直面している困難も同じくブラックボックス。僕は今、義父のお喋りとお茶の相手に過ぎない。肝心のハコづくりはまだ何も教えられていない。まだ早いと義父は言う。ブラックボックスに触れることすらかなわない。義父から聞かされるのは愚痴ばかりだ。「俺のことを娘は何と言ってる?」「娘とはうまくいっていないんだ」弟子に拒否権はない。「娘には外面の良さと要領よく生きることだけはきつく言ってきた」そこだけはキッチリ出来てますよと心の中で呟いた。

 

 工房の机に箱が置いてあった。立て20センチ強、幅5センチくらいの、片方だけ口が空いている長方形。僕はブラックボックスの隙間から、わずかでいい、欠片でいい、職人の仕事というやつを少しでも覗き見たかった。この箱の謎さえ解ければ、前に進める気がした。だがまったくわからない。途方に暮れている僕に義父は「私はそれくらいある」と真顔で言った。僕は聞えないふりをした。このブラックボックスは開けてはならぬ。僕の本能が警告していた。

 

 妻に義父の言っていることの真偽を尋ねてみた。父は決して嘘をつかない人ですと妻は言った。僕のハコ職人への道はキツそうだ。専門性というブラックボックスを覗くとき、ブラックボックスもまたこちらを覗いているのだ。世の中には、知らなくて済むなら知らないままの方がうまくいくことが案外多いのだ。