死ぬ順番だけは守ろうと思うようになったのは、父のせいだ。あっけなく自分の手で死んでしまった父が母にたいへんな苦労をさせたのを見てしまったからではなく、むしろ、ギリギリの状態であったはずの父でも祖母が亡くなるのを見届けるまでは生きていたのを見てしまったからだ。ギリギリでもなんでもない僕は順番を守らなくてはならない。そう、強く思う。
じっさい生きていくことはハードコアで、父が逃げてしまいたくなってしまったのも、わからないでもない。たとえば、僕くらいの年齢(41)になると仕事では上と下から板挟みになって心を病み、プライベートでは親戚から「子供はつくらないの?」と心ないことを言われ傷つき、夜のコンビニでは若者のオヤジ狩りのターゲットになることに恐れ、老いた親の面倒を見なければならないだけではなく、そろそろ自分自身の老後のことを考えなければならなくなるなど、ほとんど無理ゲーのつらいことばかりだ。
さいわい母はまだまだ元気で、先週末もいきなり電話をかけてきては「ラジカセが欲しい」と脈絡ないことを言う。演歌でも聞くのかよとおちょくる僕に「宇多田ヒカルを聴きたいから」などと言う。70才にして初宇多田の母を僕は少し誇りに思う。ソニーのCDラジカセを量販店で買って実家に行くと、父を思い出すといって母は喜んだ。僕にはそのラジカセがなぜ父を思い出す鍵になるのかさっぱりわからなかった。怪訝そうな顔をしている僕に母はこう言った。「あんたが生まれる前はお父さん、ポータブルラジオのデザインをしていたのよ。だからなんとなくこれを見ていると懐かしい気分になるの」なるほどと納得する僕とちょっと違うなと反論する僕の二人の僕がいた。
半世紀ほど前、父はソニーではなくビクターでラジオをつくっていたはずだからだ。父はソニーを憎んでいた。クソニ―といって目の敵にしていた。その割にはウォークマンやテレビはソニー製を買ってくることも多々あった、複雑で、謎の人なのであった。「なぜそこまでソニーを毛嫌いするの?」生前の父に尋ねたことがある。ポリシーの相違。憧憬と裏返しのひねくれた愛情表現。大人の男らしい答えを僕は期待していた。父はこう答えた。「入社試験で落としやがったんだ…」 ただのみっともない僻みでした…。
ふと、母が「青い自転車」の話を切り出した。最近、時々、口に出してくるエピソードだ。青い自転車。僕はこの言葉が母の口をついてでるとき、とまどいを隠せない。僕が小さいころ乗っていた小さな、青い自転車。その最期は、遊んだまま放置していてトラックに潰されてしまうという壮絶なものだったという。母は、あの自転車は僕の身代わりになってくれたのだといって信じてきかない。母によれば、自転車になかなか乗ることができなかった僕は、自宅の前にあった広大な空き地で毎日のように青い自転車と格闘していたそうである。
僕が補助輪なしの自転車に乗れるようになったのは、大好きだった、あの、赤い自転車のおかげだ。赤い自転車の最期は従兄弟に譲渡という穏やかなものだった。僕は青い自転車に乗ったことはない。トラックに潰された青い自転車もない。僕の家の前は細い道で道を挟んだ向かいには古びた一軒家が立っている。そのはずなのに最近、ときどきだけど、母は青い自転車と、かつて家の前にあった広場の話を延々と僕に聞かせてくるのだ。最初は否定したが、感情にすらならないものが母の顔に浮かぶのをみて、やめた。僕は、母の語る、存在しない家族のエピソードをまるで本当にあったものであったかのように聞き続けている。それはマトモなエンディングのない無理ゲーなのかもしれない。それでも僕は聞き続ける。それが僕の役目だからだ。
今はまだ時々こういうふうになるだけだが、もしかしたら、母の語るエピソードが現実を征服してしまう時が来るのかもしれない。現実が返り討ちにするのかもしれない。結末はわからない。だけど、そのときまで僕は真正面で受け止めようと思う。それが虚であれ、実であれ、全部が嘘になってしまうわけではないのだから。嘘にしないために、眉をひそめず、首をかしげず、真正面から、母の言葉を受け止めようと思う。その代わりといっちゃなんだが、ずっと昔からリビングに居座って我が家を見続けてきた、あの、有名なビクター犬の置物が僕の分まで首をかしげてくれている。