「保育園落ちた日本死ね」以来、皆、保育園について熱くなりすぎてやしないか。そんな最中に飛び込んできた《「子供の声がうるさい」と近隣住民から反対を受け保育園開設断念@千葉県》のニュースは、僕をひどく残念な気分にさせた。残念だったのは開設断念の事態よりもニュースのヘッドラインの嫌な巧さに対してである。住民説明会の不備や開設予定地周辺の道路事情など他の要因があるにもかかわらず「子供の声うるさい」をヘッドラインに持ってくるところにいやらしい悪意を感じたのだ。「待機児童が国の一大事になっているのに子供の声くらいで反対するとは何たることか」という声を拡散させようとする浅はかさが見え隠れしたのが悲しかったのだ。「保育園落ちた日本死ね」で保育園に係る話題がヒートアップしていなかったら、そのようなヘッドラインにはならなかったのではないか。もっと冷静に問題について考えられたのではないか。残念でならない。
近隣に保育園が出来たら騒々しくなり、交通量が増えるのも間違いない。受け入れられる人もいればそうでない人もいる。だからこそ慎重に事をすすめなければならなかったのだが、今回は踏むべきステップを欠いていたのだろう。件の保育園だけではない。僕は仕事的に保育園や老人ホームと付き合いがあるのだが、最近、僕のエリアにある法人が保育園開設を断念、延期したという話をいくつか聞いた。どれも近隣との折衝の不調が主たる原因。待機児童の問題の存在は理解しているが自分たちの生活環境は守りたい。そう考えるのは自然でちっとも間違ってはいない。保育園を開設すること。生活環境を守ること。双方正しい。しかし正しさと正しさを調整することは、その正しさが足かせとなって解決を困難なものにさせてしまうものだ。正義とは時に厄介だ。慎重さと誠実さと冷静さで乗り越えていくことがこれからの社会的な課題となるだろう。「保育園落ちた日本死ね」は問題を明らかにした点は功績はあれど、今では罪過の側面が強すぎるように僕には思える。
実はこれに似た事態を当事者の1人として目の当たりにしたことがある。その事態を当事者たちがどう乗り越えたのかお話させていただく。施設開設法人と近隣住民、双方の幸福の最大化の実現といったら大袈裟かもしれないが、問題解決のヒントにしてもらえたら嬉しい。保育園ではなく有料老人ホームの話だ。数年前。事前に住民説明会を重ね了解を得てから建設した老人ホーム、建物が出来上がり準備を進めさあオープンまであとわずかという段階でとつぜん近隣の家々に「有料ホーム反対」のポスターが貼り出された。「騒音イヤです」「交通量増加反対」そんなスローガンだったと思う。当時すでに特養待ちのお年寄りが社会問題になっており、有料ホームがその受け皿になっていた。今の待機児童と同じような状況。話し合いを重ねて了解も得た。しかしそれでも反対に会う。そのときの愕然とした関係者一同の姿を僕はつい昨日の出来事のように再生できる。
プロい人が近隣住民を焚き付けたと専らの噂だった。結局、老人ホーム運営会社の偉い人がこれまたプロい人を連れてきて、極めて冷静に反対派住民と個別に話し合いをした途端シュプレヒコールはピタリとおさまった。どうやって反対の声を抑えたのか皆目見当もつかない。的外れな仮説を出すのも当事者の名誉にかかわるからやめておくが、正義というものの厄介さと弱さ、そして問題解決には何よりも冷静さ大事だと僕に教えてくれた事件であった。各方面に気を使った結果、なんだかぼんやりした締め方になってしまい大変申し訳ない。最後に本題とはまったく関係のない「お金で買えないものはない」という僕の座右の銘を締めの言葉としこの駄文を終わらせていただく。(所要時間25分)
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