Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

我が内臓

父が亡くなって25年ほどになる。母は結局再婚することなく働きつづけ定年退職し、今はのんびりと楽しい余生を送っている。変わったことといえば、仕事を辞めて余裕が出来たのだろう、一時はタブーだった父の話をよくするようになったことだろうか。「父さんは…」「親子ねえ、あんた、父さんと似てる」というふうに。父のようなブサメンではないと自負しているので、いささか不本意ではあるけれど、平穏な時間を乱すのはイヤなので黙っている。

 

母は父との思い出を楽しんでいるように僕には見えた。言い方を変えれば、それは生きていくうえでの軸とか支えとか拠り所といったものかもしれない。ふと、僕は思う。僕にもそういう思い出はあるだろうかと。あった。僕にとってのそれは、もう随分と昔の話になるが、当時付き合っていた女性から「ああああ。ヤメて!内臓の位置変わっちゃう!変わっちゃう!」と言われたことだろう。仕事をはじめとして人生の様々な局面でうまくいかないとき、僕がどれだけ「内臓の位置変わっちゃう!」という叫び声を思い出して救われただろうか。

 

不思議なのは当該彼女以降の女性からは一切、内臓についての言及がなかったことだ。そして内臓の位置を変えられない雌伏の時代を経て僕はEDを患ってしまった。もう、内臓の位置を変えられないという悲しみは、もしかして僕チンはそれほどではないのかもという現実を目の当たりにしなくてもいいという喜びでもあった。EDですら喜びに変わる。人生はなんて美しいのだろう。僕は人生にかかるすべてにありがとうをいいたい。家族にカンシャ、元恋人にガンシャ、僕はカイシャ、EDカンジャ。

 

五月。父の命日がやってくる。あと数年で僕は父の年齢を越える。これからまた何度も壁や障害にブチ当たるだろう。そんなとき僕を支えるのはあの「内臓の位置変わっちゃう!」という、もう二度と耳にすることはない、祈りにも似た叫びなのだ。どんなにくだらなくてもいい、バカでもいい、独りよがりでもいい、あまつさえそれが現実でもなくてもいい。案外人間を支えるものというのは偉人の人生訓なんかよりも、そういう自分のすぐ傍らにあるくだらねえものなのではないかと、僕は思うのだ。(所要時間13分)

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