Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

世界でいちばん悪い夏が僕を救ってくれました。

もし、大人になる瞬間というものがあるとしたら、それは進学や就職といった人生の節目を経過したときでも、異性とのホニャララを経験したときでもなく、「夏が長いやと感じたときではないか。その瞬間をいつの間にか越えていたことに、少しばかりの寂しさとともに、後で気付くのだ。先日、いつまでも夏が終わらないでほしいと祈っていた、あの頃の自分を思い出す出来事があった。梅雨明けを予感させる7月の午後の野球場。夏の高校野球県予選。グラウンド整備の合間、「そういえばホームランって打ったことないや」とスコアボードの上に広がる青い空を眺めていて、ふと、今はもういない一人の教師のことを僕は思い出していた。僕の通っていた高校は県立の進学校で、良くも悪くも勉強ファーストの世界だった。僕のような勉強の出来ない、愛想も良くない生徒が教師の皆さまから良く思われることはほとんどない。こんなことがあった。生物のテスト。どうしても埋められない空欄の前で悶えていると教師様から「何でもいいから空欄を埋めろ。何も書かなかったら可能性はゼロだぞ」と声をかけられた。ピュアな僕は、世界史のテストに備えて「カノッサの屈辱」と書き、猛烈に怒られた記憶がある。怒られた事実は覚えているが、細かいことは覚えていない。きっとたいした話をされていないからだろう。どうでもいいことはどうでもいい。そういうものだ。その高校に、一人、僕みたいなボンクラの数少ない長所を見てくれる教師がいた。その国語教師とは現代文と古文の授業でしか顔を合わす機会がなかった。その高校は【補習】と称し、夏休みの間も半強制的に予備校みたいな受験対策授業を行っていた。当時受験シーンに登場したばかりの小論文、その対策講座に僕は参加して、その担当がその教師だった。与えられたテーマに対して時間内に文章を書く。遊びみたいな授業。これでイリーガル夏期授業のノルマを達成できるなら…そんな軽い気持ちだった。小論文のルールも知らない。真面目でもない。やる気ゼロ。そういう適当を見透かされたのだろう、突然、国語教官室に呼び出されて、その教師から「お前の文章メチャクチャで受験じゃ使い物にならないけどバカバカしくていいよ。受験は難しいけどそのままでいけよ」と言われた。褒めているのか、バカにしているのか、フィフティーフィフティーってところだけれども、平々凡々な学生時代を通じて教師に褒められたのはそのときが最初で最後だった。プール脇の分校舎にあった国語教官室。そのときその二階から見えた青い空とスコアボードは26年という時間を越えて完璧に重なって見えた。正しいとか、間違っているとか、そういうテストでしかはかれないような尺度だけで物事を見ることが全てではないと教えてくれたその人に僕は少なからず感謝している。彼は僕が教師ではなく先生と呼ぶ数少ない人間の一人だ。1991年。レッチリの「ギブ・イット・アウェイ」がFMラジオから流れていた夏。僕も、先生も、まだ何の罪も知らなかった。僕は何も知らないガキだった。先生はまだ犯罪者ではなかった。卒業したあと、「今すぐテレビを見ろ」と先生の逮捕を教えてくれた友人からの第一報で見たワイドショーで、あの、離れにあった国語教官室から卑猥な写真とVHSテープが発見されたと知ったとき僕の胸に去来したのは、子供に手を出してバカだなあ…先生は変態だったのか…という野次馬めいた感情と、先生は正しいとか間違っているという判断が出来ない人間だったのか、というある種の絶望だった。僕は分別のある大人から、そのままでいけよ、と褒められたと思っていたのに…。自分を褒めてくれた数少ない人間が、変態犯罪者だったというのも事実だが、僕があの言葉に救われたのも間違いようのない事実なのだ。あの、変態な写真とビデオテープに囲まれた嘘だらけの教官室で、あの夏、僕にかけてくれた言葉だけは嘘でなかったと僕は信じている。教師を辞めた先生が今どこで何をしているのか僕は知らない。もう会うこともないだろう。僕の中で先生は死んだのだ。僕を生かしてくれた言葉を延命させるために僕は先生を殺したのだ。言葉が神であり続けるために。金属バットに硬球が当たるカーン!という僕の好きな音がした。ライン際。ファールかフェアか。真夏の日差しが白く、ラインに跳ねて、僕のいるスタンド席からは見えない。ホームベースからみて90度の角度内にフェアゾーンはある。その狭いゾーンのなかにボールが落ちるように僕らは祈りながら生きている。エロい格好をしたギャルをガン見しないように。ファールになりませんように。痴漢冤罪にならぬようつり革から手を離さないように。フェアでありますように。「そのままでいい」という言葉が救済の言葉で在りつづけるのか、呪いの言葉になってしまうのかは僕次第だ。僕に出来ることはフェアゾーンに強い打球を打ち返すだけ。フェアゾーンに飛べばそれが凡ゴロだろうがキャッチされようが抜けようがたいした問題ではないのだ。フェアゾーンの中で他人の評価など気にせず好きなようにやればいい。そのことを教えてくれた先生とあの熱すぎた夏を、大人になった僕は、これからも人類史上もっとも暑い夏から振り返ることだろう。(所要時間23分)