Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

世間はそれをワークライフバランスと呼ぶんだぜ

「すこしワークライフバランスを配慮してもらえませんか」と同僚に言われてしまった。ワークライフバランスとは「国民一人ひとりがやりがいや充実感を感じながら働き、仕事上の責任を果たすとともに、家庭や地域生活などにおいても、子育て期、中高年期といった人生の各段階に応じて多様な生き方が選択・実現できる社会」のこと。今の職場環境では多様な生き方が出来ないらしい。申し訳ない。

当該同僚は営業として僕の下で働いている五十代前半の男性、勤務態度はまじめで、仕事の能力はうちのメンバーではよくいえば中の下、悪くいえば下の上といったところか。性格は穏やかで、いい意味で目立たない人間なのである。最初に、部長、ちょっといいですか、と声をかけられたのは黄金週間明けである。彼は、ミーティングルームに入るなり、「給与を上げてくれませんか?」といい、その際に冒頭のワークライフバランスという言葉を持ち出したのである。仕事と生活の調和がとれていない、と。

「最近お弁当を持ってきています」「妻も毎日パートに出ています」といった回りくどく、かつ面白くないエピソードの披露に耐えかねた僕は「評価は毎日の仕事ぶりや実績・結果に対しておこなうものであって、あなたが持参したおにぎりの個数は評価に反映しませんよ」と当たり前のことを口にした。彼は、僕の言葉を遮って、生活が荒んでいて調和が乱れ、仕事に悪影響が出てきています、モチベーションがあげるためには給与をあげてもらうしかない、と身勝手なワークライフバランスを唱えた。

僕はそんな理由で昇給は出来ないと言い切った。すると彼は、そうですよね、わかりました…無理ですよね…それなら主任に上げてもらえませんか?と別の要求を突き付けてきた。彼の言い分によれば、50才を超えて名刺に肩書がないと相手に信用してもらえない。信用してもらえないと成約できない。成約できなければ給与が上がらない。生活が荒んでワークライフバランスが崩れてしまう。ということらしい。素晴らしい。《根拠のない昇給申請》から《懸命に働くための称号の獲得》へ。人はわずか数分間でここまで成長できるのか…。

そんな美しい魂に感動しながら、給与そのままで名刺に主任と入れるだけなら僕の一存で出来るけれど、それでいい?と言ったら、ダメでした。なぜ、そこまでお金にこだわるのか?尋ねてみると、ワークライフバランス以前に家計バランスがおかしくなっていた。彼には中学生の子供が二人いるのだが、二人とも名門私立中学に通っている(下の子から)。某プロ野球球団の傍らで暮らしたいという子供の頃からの夢を実現するために、球場そばの超一等地にマンション購入、重すぎるローン支払い。子供の可能性を信じたいという御心のままに習い事多数。ご近所さんの目があるので国産車には乗れないというワンダーな理由で愛車は新型ベンツ。そして、子供たちの知見を広げるために英国への夏季短期留学を申込みした時点で、貯金が尽きていることに気づいたらしい。奥様は50才になってフルタイムのパートで働かされて、機嫌が悪いそうである。知らんがな。彼の言葉が真であるなら(僕はフェイクだと考えている)、ワークライフバランス以前に、生活が破綻寸前ではないか。

僕は上司の立場から「申し訳ないけれど、家計が苦しいからという理由で昇給させるわけにはいかない」と言った。当たり前のことを告げているだけなのに、なぜ、申し訳ないと思わなきゃいかんのかよくわからなかった。破綻してるライフと調和させるワークはないというシンプルな理屈だ。なぜ、彼は自分の懐に見合った生活が出来ないのだろう?という謎だけが残った。

僕なりに考えてみた。僕より少し前に別の業界からこの会社にやってきた彼(一年前)。そこそこ優秀だった彼はこれまで、ある程度営業として実績を残した段階で「待遇をよくして欲しい。さもなくば辞める」という要求を通してきたのではないだろうか。トップ営業マンならそれがまかり通る。だが、残念ながら、今の職場で彼は平均マンである。その作戦は、彼の生活同様、破綻している。悲しい。穏やかな性格と美しい魂を持つ彼は「話を聞いていただいただけで少し楽になりました」と笑った。僕は「お役に立てなくてすみません」と頭を下げた。

もう声がかからないと信じていた。ところが今日、月曜日の朝、彼はちょっといいですか…と僕に声をかけてきた。このあいだの話を蒸し返すのはヤメてくださいよ、僕が釘をさすと、彼は、違いますと真顔。話をうながすと、「実は実家の父が脳血管の病で倒れまして…。治療費用が…」とはじめるので、ちょっとちょっと、と話を遮り、この前結論はいいましたよね、僕の評価は仕事に対するものであってあなたの生活の困窮ぶりへのものではないって。

すると彼は、ええ…ですが事情が変わりましたので…などとまたも、生活が回らないので仕事もうまく回らない、これを調和解決するには自分の給与をあげてもらうしかないという独自のワークライフバランス論を僕に語った。やめてー。僕の精神バランスが壊れる。破綻したライフ。激怒するワイフ。応じないワーク。彼のような美しすぎる魂を救済するには、素手でのトイレ清掃や社訓絶叫といった荒療治が必要なのかもしれない、「じゃあヤメれば?」と口から飛び出しそうになるのを必死に抑えながら、僕は、そんなことを考えていた。(所要時間27分)