Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

人は誰かにはなれないけれど。

昨夜、サッカーで日本とパラグアイが激闘を繰り広げているまさにそのとき、僕は、二本のセクシー動画とバイアグラで激闘を繰り広げていた。家族に見つからないよう、声をひそめてポニーテールをシュシュする悦びに浸っていたのだ。突然、理由もなくアニマルになったのではない。最近、10日ほど僕を悩ませていたミステリーがすっきりと解決し、安心したのだ。先日(先月末)、父の命日の朝に墓参りに行った。いつもの墓参りとはちがった。僕と母が墓に着いたとき、すでに墓前には盛大に花が飾られていたのである。父の命日を知っている、近しいが家族ではない人物による花、主役の向日葵とエキストラ・フラワーズ。ここ十年ほど、家族や親族以外で墓参りに訪れる人はほとんどいなかった。墓参りのスタートは、前に自分たちが飾った花を片付けるのが常となっていたので、僕らを待ち構えていた小さな向日葵の黄色と茶色の鮮やかな色彩には、日常に意外が差し挟まれるときに感じる、あの、小さな不吉と不安を覚えながらも、驚かされてしまったのだ。いったい誰が、この花を?その謎を僕は解けなかった。手の付けようのない謎にお手上げ状態だったけれど、2週間前に届いたきりリビングのテーブルの上で存在を忘れられていた一枚のハガキに母が気づいた瞬間、あっさりと謎は解けてしまう。個展の開催を知らせる、どこか田舎の風景を切り取った油絵の写真が印刷されたそのハガキは父の学生時代の友人からのものだった。詳しいことは知らないが、父とその人は北陸地方にある、とある高校の美術部で腕を競いあった仲で、同じように工業デザイナーになった。その人は、今は故郷の北陸を離れて、九州の片田舎で、定年退職後の人生を絵描きとして送っている。ハガキには「東京で個展を開くので、是非、お越しください」という母へのメッセージが添えられていた。父との関係と、東京に来ているタイミングから、向日葵の主はこの人だと思った。確かめもしなかった。ひとつ、その人について印象に残っていることがある(だから覚えていた)。父の葬儀のあと、友人一同でウチを訪れにきたときのことだ。多くの人が僕の姿を見て「父と似ている」と感想を述べていくなかで、その人だけは「あまり似ていない」と言ったのだ。なんてことのないその一言で随分と救われた気持ちになったのを今でも僕は覚えている。ハガキには、もうひとことメッセージが添えられていた。「カツジの分も20年以上描きつづけてきました。最近、また画風が変わってきました」カツジとは父の名前である。母はよく「忘れてあげてしまうほうが亡くなった人間は幸せ」と言っているのだけれど、それは、少ないけれども、こうしてときどき思い出してくれている人が存在しているから言える言葉なのではないかと僕は思った。その父の友人は、僕のことを父と似ていないと評したあとで、あいつはフザけている奴だったから許してやれよ、とも言ってくれたその人は、父の分まで生きろみたいなアホなことは考えなくていいと乱暴な言いかたで言ってくれたのだと僕は今も思っているけれど、誰よりも父のぶんまで生きてくれていたのだ。大好きだった絵を描きつづけることによって。死んでも、誰かの重荷になるのではなく、人生に染み入るようにして生き続けられるのなら、人生も捨てたもんじゃない。動物嫌いで、庭をいじることもなかった母は、今、実家の庭の手入れをするのが楽しくて仕方ないらしく、毎年、可愛がっている紫陽花が咲くのを楽しみにしている。最近は「犬を飼いたい」と言い出している。20年間、我が家の番犬として活躍していたのに母から、うるさい、くさい、食べ過ぎと毛嫌いされていたタローが不憫でならない。許せタローよ。庭も動物も父が好きだったものだ。タローの暮らしていたあたりには花が咲くようになり、主を失った犬小屋の屋根にはときどき野良猫が居眠りをしている。さりげなく繋がって続いている。心を受け継ぐ、とか、想いを繋ぐ、みたいなヘビーなものではなく、ゆるやかにさりげなく続いていくものの強さ。それを僕は知った。今週末、たまたま出張で訪れる先の町で開かれている父の友人の個展を見に行くつもりだ。彼は父の年齢に近づいた僕をみてなんていうのか楽しみだ。フザけた人生を送ってきたか?と言われたら、最高だ。僕は、50年以上前の雪の降りしきる北陸の田舎にある県立高校の美術室でフザけながら絵を描きつづける二人の高校生の姿を想像してみた。その思い描いた情景に付ける題名は、ついに浮かんでこなかった。それはきっと僕が彼らの人生のエキストラにすぎないからだろう。(所要時間22分)