Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

SNSで子育て写真を見るのが楽しくなった。

我がことながら驚いてしまう。昨年くらいから、知人によってSNSやインスタグラムにアップされた子供の写真を見るのが楽しみになっているのだ。もちろん、僕がインスタグラムに求めているもの第一位が、グラビアアイドルやレイヤーのセクシー画像であることは変わらない。告白しよう。それは純粋に下心からの行動である。彼女たちが毎日アップする画像に光の速さで「いいね!」を付けることで、お近づきになれるワンチャンがあると僕は強く信じている。夢のない世の中。夢を語っても会ったこともない無名の人から「僭越ながらそのような夢を実現するのは貴兄のようなアンポンタンには無理だと思いますよ」とバカにされる現代。そんな悲しい現実の中で、セクシー画像への「いいね!」だけがチョメチョメな夢への懸け橋なのである。下心とバカにすることなかれ。かつてベータとVHSの覇権争いを決定打となったのはセクシーソフトの数だったといわれている。多くの下心を受け入れた方が勝ったのだ。近所のラーメン屋のオッチャンも「アダルトが天下を決めた」と言っていたくらいなので、おそらく事実なのだろう。グラビアアイドルやレイヤーのセクシー画像に数秒で大量の「いいね!」が付く様子を目の当たりにしながら、「このいいねのひとつひとつはもう一人の僕…」と恐ろしくなる。それぞれの「いいね!」がチョメチョメと叫んでいるような錯覚にとらわれるのだ。

一方、そんな下心地獄を生きる僕の中で、知人の子育ての様子がわかる写真が最下位からぐぐっと順位を上げてきているのも事実である。信じられない。アメージングだ。かつての僕なら、知人のお子さん写真を見ても「つまんねえ写真をアップするなよ!」「あーギガ損した!」「ええい、ガキンチョはいい。母ちゃんを写せ!」という非人間的な感想を持つくらいであった。親族だけで、田舎のジジババ向けに、やっていればいいのに、なぜ、全世界に公開する必要があるのか、と。それが今は、知人たちの子育てや子供の画像を眺めて「いいね!」を付けるのが楽しいと思えるようになっている。下心で汚れちまった己を、ピュアな子供や子育て画像で浄化しているのは否定しない。セクシー、セクシー、セクシー、子供。セクシー、セクシー、セクシー、子供、というリズムが妙に心地いい。しかも、セクシービキニ水着ギャルと哺乳瓶をくわえた乳児を交互に見ていると、自分自身を乳児に投影して、ギャルをチュッパチャップスしているような感覚も得られる。そのうえ、「ああ、この人はセクシー画像を追っかけているだけのボンクラじゃないのね、少子高齢化について考えがあるのね」という好印象を持ってもらえるのだ。

最も大きな理由は自分で自分を肯定したいからだ。僕には子供がいない。子供のいる生活について、羨望や憧れはもうないけれど、ネットに上がってくる子供や子育ての情景が、「もしかしたらあったかもしれない」自分の人生の分岐、別の世界線の自分の出来事に見えるようになった。「僕に子供がいたらこんな写真を撮っただろうなあ」という仮想現実体験。映画や小説に自分を重ねてしまうように、人様の子供のいる情景に、訪れなかった未来の自分の姿を重ねているのだ。つまり、僕の付ける「いいね!」は、画像をあげている親子への「いいね!」であると同時に、自分の人生への「いいね!」なのだ。僕のような中年男性はグラビアアイドルやレイヤーのように「いいね!」されることはない。だから自分で自分を「いいね!」する。それでいいと僕は思う。そうだろう?最終的に自分を評価するのは自分自身しかいないのだから。つまり、僕が子供の画像に「いいね!」するのは、高度なマスタアベイションなのである。好き好き大好き、ますたあべいしょん、気持ちいいからやめられない。(所要時間19分)