Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

コロナの時代の愛はどうだ

新型 コロナの前からアルコール消毒をする人だった。ウチの奥様だ。彼女がアルコールを手指に吹き付けるのは、我が家では当たり前の光景だった。僕が神経質すぎやしないか?と笑うと、彼女は「管理栄養士の職業病かも」といって微笑んだ。穏やかな時代だった。手指のほか、家電や家具の手が触れるところ、ドアノブ、冷蔵庫のドアなどが対象だった。僕も、40歳をこえると、ドアノブ軍団に入れられた。僕が触れたところは消毒、消臭。手洗いを終えると光の速さで飛んできて僕の手のひらにアルコールをシュッシュした。そして、彼女の正しさは2020年に証明された。

母もアルコール消毒をする人だった。もっとも、その習慣が定着したのは、父が亡くなったあと、葬儀屋で働き始めたころだ。そこで手洗いのあとのアルコール消毒を学んだのだろう。もっと昔、たとえば僕が小学生低学年の頃は、今のようにアルコール消毒をする習慣は一般的ではなかったと思う。ポンプ式のハンドソープが世に出たのは体感的には昨日の出来事。小学校の手洗い場では、決まって、蜜柑の詰められていたような、赤いナイロンの網に入れられた固形石鹸がグニャ~と溶けていた。僕らは校庭で遊んだあと、その触りたくないグニャ~で泡立てて手を洗ったものだ。家でも固形石鹸で手を洗ったけれども、あの網に入っていないぶん、見た目がグロテスクでないぶんマシだった。母は「バッチーのちゃんと飛ばした?」といって僕の手洗いを目で確認した。母は僕の手をとって確認することはなく、そのまま走ってキッチンに戻った。それが当時の消毒だった。母。妻。僕の人生でもっとも近い場所にいる女性は、共にアルコール消毒マニアであったが、僕をバイキンマン扱いするのは奥様だけだ。母は誇り高い人。自分がバイキンマンを産んだとは死んでも認めないだろう。

2020年4月。僕の暮らしている神奈川県に新型コロナによる緊急事態宣言が出された。僕は原則在宅勤務。プライベートでは早朝の散歩と最低限の買い物以外の外出は自粛している。奥様と自宅にこもっている。平時から殺菌消毒の対象になっていたので、戦時体制になったら、銃後の僕はどれほど厳しい消毒や殺菌措置をされるのだろうか。僕はお尻にアルコールをひたしたソーセージを突っ込まれるくらいの覚悟は決めていた。彼女の正しさは、新型コロナという招かざる敵の登場で、証明されている。昨年病に義父は病に倒れた。ウイルスは致命傷になりうる。絶対に家族をウイルスには感染させないという決意を、彼女は言葉にすることはなかったけれど、彼女が「県内感染者数」を毎日記録している冷蔵庫のホワイボード(ミニ)で、僕は暗い気分になりながら知ることができた。僕は震えていた。新型コロナの脅威と彼女の仕打ちに。

だが、僕の予想は外れた。彼女は優しかったのだ。どこまでも。ひたすら。僕が風呂を出たあとで息を切らしていると「大丈夫?」と声をかけてくれるようになった。うっかり手洗いを忘れたら、烈火のごとく叱られたものだが、「忘れないでください」と注意されるだけになった。誰もいない街へ買い出しへ出かけるときは、玄関で見送ってくれた。仲が良くなったわけではない。来年2月から3月にベイビーが生まれるような気配はゼロ。家庭内で適度な距離、ソーシャルディスタンスを保っているような関係。それが薄気味悪かった。その謎はあっさりと解けた。

「もうキミにプレッシャーをかけるのはヤメました」と奥様はいった。神奈川県ではウイルス感染者との接触を完全に断つのは無理であって、もし感染者に触れても僕が心身ともに健康で抵抗力免疫力さえあれば感染する危険性は下がる、結果としてウイルスを持ち込まないようになるというのが彼女の理屈であった。「だから多少イラっとはしても、我慢しているの」と彼女は笑った。彼女はほぼ完全に自宅にこもっている。買い物など、外出をともなう用事は僕の仕事だ。すべて感染源の特定を容易にするため。僕のバイキンマンあつかいは1ミリも変わっていなかった。僕の免疫力アップのためにイヤイヤ優しくしてくれている現実を認めるのはつらいけれども、優しくされて悪い気分はしないからいいか、と考えなおして僕はやりすごした。新型コロナ前から駅ビルで咳をすれば知らない女性から汚物をみるような目で睨まれた。何年前かの暑い夏、汗だくで電車に飛び乗って窓の外の青空を見ていたら、スカートの短い女子高生から「こっち見んなオッサン」と睨まれたこともある。そういうつらい現実に比べれば、優しいだけで、いくぶんマシなのだ。

僕はなんとなく自分の存在を確かめたくて母に電話をかけた。この世界でただひとりの、僕を汚物あつかいしない女性。マザー。この連休中、新型コロナで実家に帰るのも控えていた。母さん元気?こないだお金入れておいたよ。3900円。サンキューマザー。母は言った。「お金もうちょっと何とかならないの?」「え?金額。じゃあ今から持っていこうか」実家は近い。「いや、いいよ。あんた昔から汚いからウイルス持ってきそうだもの」母も奥様と一緒だった。二人と僕とのあいだには、一般的にいわれるソーシャルディスタンスの10倍以上の距離がある。もしかしたら、月のほうが近いかもしれない。(所要時間24分)