Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

夏に揺れる。

駐車場でときどき見かける、オバハン運転の高級外車の危なっかしい運転にムカつきながらやってきた、いつものスーパーの夏野菜コーナー。特売を報せるアナウンス。キンキンに効いたエアコン。入り口のドアが開くたびに侵入してくる猛烈な熱気。目の前にはナス、トウモロコシ、トマトが信号機のような色合いで並んでいる。

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僕の傍らにいた1人の女性がキュウリを手に取った。僕と同じ年代だが、ノースリーブの白く細い腕とたくましいキュウリのコンビが妙にエロティック。僕の視線は、甘い蜜をみつけたアリになって白い腕を舐めるようにはい登る。そして白い腕を持つ女性と目があってしまう。僕は彼女を知っていた。彼女の目も僕を補足していた。その目はあの夏の日と同様に、僕を睨みつけていた。

1994年、大学3年の夏休み。僕は隣町の山の上にあるゴルフ場のレストランでアルバイトをしていた。自転車で山道を登って通うのは一苦労だったけれども、仕事自体は楽勝だったし、時給もよく(900円だった)、何より綺麗な女の子が何人か働いていたので、ペダルの重さと筋肉痛は気にならなかった。注文を取り、料理や飲み物を運び、空いた食器をさげて、洗う。ゴルフを終えたあとの気持ちのいい一杯でほろ酔いのおじさんへの愛想笑いとお世辞。仕事はそれだけだった。

そのレストランは空き時間が多く、客の迷惑にならないかぎりという条件つきで比較的自由にその時間を使うことが許されていた。僕はテラスにある青と白のパラソルの下にある丸いテーブルでアイスコーヒーを飲みながら本を読んだり、大学のレポートを書いたりして過ごした。遠くでセミが鳴くのを聞きながら隠れて飲む生ビールは最高だった。

ゴルフ場には真っ白なプールがあった。晴れた日は水面が空を映して青く光った。そこだけがまるで「マイアミ・バイス」。外国のようだった。プールには監視員が何人かいた。全員、夏限定の学生アルバイト。サングラスをかけて脇のベンチからプールを見守るのだ。そのなかに彼女はいた。濃紺の水着と上にはおった白いシャツでは隠しきれない大きな胸と細く長い足。監視員の連中は日焼けしていたが、どういうわけか彼女だけは真っ白だった。

休憩時間に、運よく、彼女の白く長い足を見つければ、僕はパブロフの犬のごとく彼女を眺めつづけた。ヨダレも出ていたかもしれない。僕は彼女の胸の奴隷だった。足や尻の下僕にもなった。顔の向きは変えず、アイスコーヒーのかげから眼球だけでロックオン。あの水着の胸の部分を膨張させている白い力の源を想像しては、パラソルの下で足を組み替えた。客がいないプールで彼女はときどき泳いでいた。仰向けに手を横に、目をつぶり、十字架になって浮かんでいる彼女をみて、僕は「ジーザス」と何度も心の中でつぶやいた。

僕の覗き見は彼女に気付かれていた。何度か目があったことがある。彼女は一瞬睨みつけると、決まって、プールの水面へ目線を移した。それから、そこに何かがあるかのように見つめていた。僕の視線なんて気にしていないようだった。眩しさのなかにいる彼女には、影のなかにいた僕は見えなかったのだろう。

8月。激しい夕立が降った日、アルバイトを切り上げた僕はゴルフ場のレストハウスの前で、彼女と一緒になった。帰りが一緒になるのはそれがはじめてだった。Tシャツとジーンズの彼女は僕の姿を認めると近づいてきて「雨止まないね。どうするの?」と言った。今思い出してもどんな言葉を返せばよかったのかわからない。僕は「自転車を置いていけないから」と言った。いつも水着の彼女が、僕に話かけているときだけ服を着ていることにわずかな苛立ちを覚えていた。

僕が駐輪場から自転車をレストハウスの前にあるロータリーに持ってきたとき、ちょうど彼女は国産のスポーツカーの助手席に乗り込んでいるところだった。運転席には40歳くらいの中年男性がハンドルを握っていた。いけすかない派手なシャツにサングラスをかけていた。父親だ。父と娘。二人を乗せたスポーツカーは走り去った。彼女は何もない水面を見つめているときと同じ顔をしていた。

僕が父親だと思っていた男は、彼女の彼氏だとアルバイトの同僚から教えられた。彼女のもうひとつのアルバイト先の経営者で、既婚者という情報もあれば、すでに離婚しているという者もいた。全員が遊ばれているだけ、すぐに捨てられると言っていた。どうでもよかった。20歳前後の僕にとって、既に彼女が僕とは違う世界の住民であることがすべてだった。

僕は夏が終わるまで彼女の水着姿を見つめ続けた。あの男とのエロティックな姿を想像しては足を組み替えた。ときどき、男のスポーツカーに乗り込む彼女も見かけた。プールにいるときあれだけエロティックに見えた彼女の白い腕が、幽霊のように儚く今にも消えてしまいそうに見えた。僕は次の年の夏もそのゴルフ場で働いたけれど、彼女は現れなかった。

あれから25年経って、今僕らはスーパーの野菜売り場にいる。麻色のノースリーブから伸びる白い手も、僕を虜にした大きな胸も、あの頃のまま。そして僕を睨むようなあの目はあの頃と同じだった。だが声は掛けられなかった。「あいつとはどうなったの?」「大学は無事に卒業できたの?」聞きたいことは山ほどあった。だが、胸を眺めていただけの覗きマンの僕にそれを聞く権利はないように思えた。

何より彼女が僕のことを覚えていないような予感がして、その予感が僕にブレーキをかけた。マスクをしているからなおさらだ。試しに僕は彼女の目線の先にまわってマスクをズラして笑ってみた。彼女は「中年のオッサンがマスクを外し笑っている。キモいヤバいアブない」と危険信号を点滅させるような不審な表情を浮かべただけであった。彼女の中に僕はもういなかった。寂しかった。気が付くと彼女の姿は消えていた。あとには特売のアナウンスとカラフルな夏野菜だけが残った。

 僕はスーパーを出て駐車場へ向かった。さっき引かれそうになったオバハンの銀色の高級外車が出ていくところだった。ハンドルを握っているのは、彼女だった。マスクを外した彼女の頬には、年齢相応のほうれい線が刻まれていた。これまで何回も見ていたはずだが、彼女の目と胸しか観ていない僕には、年齢を刻んだ彼女を彼女と認識することができなかったのだ。マスクは魔法だった。マスクで目もとしか見えなかったからこそ、僕は彼女をあの頃の彼女だと認識することができたのだ。

目の前を彼女の車が通り過ぎていく。助手席には派手なシャツを着た初老の男がいた。間違いなくあの男だった。薄くなった髪を精いっぱい整髪料で後ろに向けてかためていたが、彼女を迎えに来ていたスポーツカーの男だった。あの頃の僕らが終わってしまうと決めつけていた彼女たちはまだ続いていた。年齢差は変わらないが、お似合いのふたりになっていた。遠ざかっていく銀色の車に太陽の光が跳ねていて眩しさのあまり目をとじる。二人にはこのまま走ってほしいと心から願った。

そして気づいた。あの頃、彼女だけが眩いばかりに輝いていたのではなく、僕も同じように眩しい光の中にいたのだ。目をあけると二人の車は視界から消え去っていた。僕は助手席に買い物を放りこんでからエンジンをかけてあの頃よく聞いたロックをかけた。おなじロックでも1994年の僕と2020年の僕では同じようには響かない。それでいい。そのときどきの今を生きるしか僕らには出来ないのだから。(所要時間46分)