ブレないの亜種で、「バカと付き合うな」という考え方もある。「バカと付き合うと貴重な時間と労力の無駄だからヤメておきなさい」という急進的な考えである。確かに、目標へ最短距離で向かうとき、バカなるものは障害でしかない。無視すればストレスはない。スタートからゴールまで一直線に突破するなら、バカとお付き合いするのは無駄である。でも、正しくブレることができれば、「バカと付き合う」も、ポジティブなものに変えられる。
現実社会はおバカなことばかりだ。頭のいい人や立派とされる人、社会的に成功している人、といったエリートでも、実際はバカなことばかりしている。緊急事態宣言下で、国会議員が女性の接待を伴う店で深夜まで飲み食いをして失脚している。頭の良し悪しは関係なく、ありえないことをしている。
この世はバカなものばかりである。逆にいうと、「バカと付き合うな」は人づきあいを放棄した、ある種の「世捨て人ライフスタイル」なのである。
生きていくうえでは自分のなかにあるバカ要素も含めて、「バカなるもの」とどう付き合うかについて考えるほうが、より現実的なのだ。「バカと付き合うな」も個人の自由だ。否定はできない。ただし、「あれもバカ」「これもバカ」と相手を切り捨てているうちに、1人きりになっていても後悔しないでほしい。
「バカと付き合うな」は、相手を「バカ」の枠組みに放り込んで単純化することだ。思考停止でもあり、強者の理屈だ。相手をバカ認定したら、バカのレッテルを貼って切り捨てる。切って捨てる前に、「本当にバカなのか」「どうしてバカなのか」は検証しない。第一印象で決めつけている。
バカはいる。ナチュラルボーン馬鹿(生まれついての馬鹿)もいるし、マトモなことを言っていた人が、突如、バカなことを言い始めることもある。付き合うとウンザリする。疲弊する。残念ながらバカからは逃げられない。自分のバカさから逃げることもできない。地獄である。その地獄を受け入れるしかない。
腹をくくってバカと付き合おう。バカなるものを切り捨ててしまいたくなる衝動に駆られるのは、「なんでそういう言動になるのか意味がわからない」という理解不能な部分が大きな割合を占めている。アレルギー反応のようなものだ。
その正体不明性を、書き捨てて、自分の言葉という枠に落とし込んで明らかにしていけばいい。正体がわかれば対応策がわかる。持つべき武器がわかり、適正距離を保って戦えるようになる。
トランプ元大統領のように「あいつはバカだ」「フェイクニュース!」とマウントポジションから切り捨てても何も生まれない。それより、「バカなるもの」とどう付き合うか考えてみよう。 書くことで道を拓こう
この記事は12月16日にKADOKAWAから発売される僕の新著『神・文章術 圧倒的な世界観で多くの人を魅了する』からの先出しです。