Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

本牧埠頭、1995年、夏。

1995年の初夏から秋にかけて、横浜の本牧埠頭の倉庫でアルバイトをしていた。当時、僕は法学部に通う大学生で、たまたま学生課の掲示板で目に留まったのが本牧の倉庫会社のアルバイトだった。時給は1000円。すでにバイトをしていたファミレスや蕎麦屋の時給が700円台だったので、何も考えずに飛びついた。家庭の事情でお金を稼ぐ必要があったからだ。もちろん、うまい話はないのは知っていた。時給の高さはハードなアルバイトの裏返しだと覚悟していた。どれだけ酷い仕事であっても「数か月耐えればいい」「無理なら逃げればいい」と割り切って面接に臨んだ。お金を目的にはじめたアルバイトだったけれども、あの1995年の夏は、お金には換えられない意味を持つ大切な時間になったのだ。

面接5分で採用決定。研修や教育はなし。「今から行ける?」と作業服を着た社員に車に乗せられ連れていかれた倉庫で「見よう見まねで覚えて」と言われて放り出された。前任者のおばちゃん(腰の手術で離脱)が作った引継書はあったけれども、蛇がのたうち回っているような古代文字を連想させる達筆で、解読を挫折した。主な仕事は貨物の受付と日雇い労働者への給料支給だった。所長をのぞけばアルバイトの僕、その他の作業員は日雇い労働者。日雇い労働者全員が現金支給を希望した。彼らは何らかの理由で口座を持っていなかった。彼らを見た瞬間に、僕がそれまで付き合ってきた人間とは違う世界の人間だとすぐにわかった。入れ墨、大ケガのあと、目をあわさない話し方、いいかげんな挨拶、ヘビースモーク、酒の臭い。率直に言って「地獄」「底辺」だと思った。

仕事は失敗を重ねながら覚えた。失敗のたびにオイコラ!ボケナス!ナメとんのか!と日雇いからの厳しい叱責や汚いヤジを食らったが、ダメージは残らなかった。彼らが、怒鳴った数秒後にそれを忘れてしまう程度の人たちで、数分後には何事もなかったかのようにタバコを分けてくれたりしたから。そして何より「金のための期間限定アルバイト」という意識で働き、大学を出て社会に出れば、彼らのような日雇い労働者とは一生縁のない生活を送ると信じていたので、何を言われても気にはならなかったのだ。あー底辺が何か騒いでいるなー。という感じ。「自分は底辺の彼らとは違う」というどうしようもない優越感に支えられた自信を持っていたのだ。偏見ではない。実際、日雇い労働者の彼らは酷かったのだから。約束の日時に現れない、行方不明・消息不明になる、同僚同士の喧嘩、二日酔いで仕事にならない、は日常茶飯事。その穴埋めのために僕も働くはめになった。荷積みや荷下ろしをやらされた。フォークリフト講習を受けさせられた。その合間に本業の事務作業と会社や役所回りをこなしていた。ハードだった。

日雇い労働者の彼らは、クセの強さと口の悪さを別にすれば、付き合ってみると素朴でいい人たちだった。全員男性で、年齢は30代前半から70代まで。50代から60代前半がいちばん多かったと記憶している。違う世界で生きている底の人たちだと決めつけていたので、彼らが休憩時間に語っていたこと、それは彼らの境遇や不幸や人生訓めいたものから、世界をまたにかける商人の冒険譚や超有名人との意外な交際話といった真偽不明のものまで多種多様だったけれども、僕は「参考になります」「なるほどそうなんすか」といい加減な相槌で聞き流していた。彼らも自分の話をすることが主目的で、話の内容が届いているかどうかは気にしていないように見えた。プロ野球の結果やくだらないエロ話はしたけれども僕も自分のプライベートはいっさい話さなかった。聞かれもしなかった。「お互いの私事には触れない」「領域には踏み込まない」そんなルールを遵守した、相手がいる独り言だった。

ハードなアルバイトだったけれども、手待ち時間は多かった。貨物の到着が予定より送れると手持ち無沙汰になった日雇い労働のレギュラーメンバーと、岸壁に腰をかけてタバコを吸った。日雇い労働者たちは、入れ替わりが激しかったけれども、そのうち何人かのオッサンは仕事があれば必ず顔を出していた。僕はそんな彼らのことをレギュラーと呼んで頼りにしていた。岸壁で時間を潰しているとき、レギュラーからは「大学生がこんなところに来てはダメだぞ」「ハマったら抜け出せなくなるからな」と笑いながら脅された。笑ってごまかした。身体にまとわりつくような粘り気のある塩の香りがした。

日雇い労働の一人が姿を表さなくなっても、気にしなかった。「いなくなったんだな」と思うだけだ。誰も話題にもしなかった。だが、レギュラーの一人が連絡もなく(連絡手段はなかったが)、姿を見せないとなると話は別だ。探しに行くことになって、仕事が終わったあと、数人の有志で立ち飲み屋や簡易宿泊所を見て回った。探していたレギュラーの一人は宿泊所で亡くなっていた。60代。自然死。健診を受けていないし、体調が悪くても寝ていれば治るといって聞かなかったらしい。家族や引き取り手は見つからなかった。

何日か経って岸壁で休んでいるときに、亡くなったレギュラーの話になった。誰も彼の本名は知らなかった。話を振られて「あんなところで死んでしまって…」と口にしたら、レギュラー達から「それは違うぞ」と強い口調で遮られた。「あいつはあそこで死んだからすぐに気づいてもらえたんだ。幸せ者だ。ここがとんでもない場所だと思っているかもしれないけれど、それは間違っているからな」


僕が言い返せないでいると「ここは俺らみたいな人間にとっては楽園なんだよ」と誰かが言った。それきりで誰も話そうとはしなかった。岸壁からは発泡スチロールの箱や木片や運動靴が浮いている汚い海が見えた。彼らは煙草を揉み消すと倉庫へ歩き出した。彼らの背中を見ながら僕は恥ずかしい気持ちになっていた。僕が底辺と見下していたことを彼らは見抜いていたのだ。互いに干渉しないという暗黙の了解があったから指摘しなかっただけだった。僕にとっては底辺でも彼らにとってそこは最後の楽園だった。亡くなった仲間の一人が期間限定でやってきた若僧から底辺で人生を終えたと思われるだけは我慢ならなかったのだろう。僕は頭でっかちで世間知らずの大学生にすぎないことを思い知らされた。

それからアルバイトを辞めるまでレギュラーとは以前と変わらない付き合いが続いた。立ち飲みやいかがわしい店にも連れて行ってもらったこともあった。だが、あの仲間が亡くなった直後の岸壁の話の続きはなかった。アルバイト最後の日も皆素っ気なかった。「今日までか」とか「じゃあな」とか「二度と会わないからな」「こんなところに来るなよ」「戻ってくるなよ」と声をかけてもらっただけだ。

あの夏からずいぶんと時間が流れた。僕は来年で50歳になる。「戻ってくるなよ」という言いつけを守って、あの倉庫へは一度も足を運んでいない。あの夏に出会った日雇い労働者の多くは亡くなっているだろう。レギュラーの皆は人生を終えるまで楽園にいられただろうか。いられたと信じたい。僕が底辺だと思っていた場所は底ではなかった。彼らにとっては楽園だった。最後の楽園。底はもっと深くて手の届かないところにあった。行方不明になった日雇い労働者たちはそこに堕ちていったのかもしれない。底を知らないのは幸せなのだ。あの倉庫で働いていた日雇い労働者たちの目が、僕が見たことのない目に見えたのは、彼らが底を知っている人間だからだと年月を重ねていろいろな経験をした今だからわかる。「戻ってくるなよ」「二度と会わないからな」「こんなところに来るな」日雇いで働いていた彼らは、悪態で僕に教えてくれたのだった。一度底に落ちたら戻るのは難しいことを。あの夏、岸壁から覗き込んだ海は黒く濁っていた。何も見えなかった。今、振り返ってみると、あの岸壁が最後の楽園の淵だったように僕には思えてならない。(所要時間65分)