Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

それは本当に「伸びしろ」ですか?

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僕は食品会社の営業部長だ。営業部ってのは、毎日どこかで誰かが燃えてる場所だ。もちろん実際に火がついてるわけじゃないけど、精神的にはしょっちゅう火事。僕はその真ん中で部長なんて肩書きをぶら下げて立っている。肩書きは重いが、実際に重いのは肩そのものだ。四十肩あらため五十肩、可動域は四十年前のロボットのプラモデル級だ。

ある日の午後、部下がやってきて、ちょっとご相談があります、と言った。表情は若々しい。こういう場合のちょっとがちょっとであった試しがない。それに、相談という言葉は、どうして人間の脳みそをざわつかせるのだろう。

相談はとある顧客への見積提出だった。僕は部下のクソ長い説明に耐えた。案件の難易度、部下の気持ちの湿度、過去のいきさつ、それらを何の処理もせず、まとめて机の上にドサッと置いていかれた感じだ。期限は明日の午前で、なんとか決裁をいただいて持参しなければならないと部下は言う。

どうしてギリギリなのか訊ねると「現代のビジネスのスピード感ですよ」と他責なことを言う。時間がなかった。方向性を定め、ひとまず結論を出し、担当役員をつかまえ、決裁をもらう。それから「じゃあ、この方向で進めてみて」と言った。部下は、はい、とだけ言って静かに席へ戻っていった。なんだか片道分の燃料を積んだ船が港を離れていくみたいに見えた。

問題はその後だ。報告がない。僕は、ふとした瞬間に「あの案件どうなってるんだ」と思い出す。上司があそこまで上に掛け合って通した案件なら、報告があってしかるべきではないか。それともこちらから「あの件どうかな?」って訊くのが令和スタイルなのか。そうすれば「すみません!いまこうなってて!」と若者みたいな勢いで返ってくるだろう。こっちが後ろにのけぞるくらいに。
でもそれでいいのか?こういうふうに自ら報告するもんだよと教えればいいのか。未熟さを無条件で伸びしろととらえればそれが正しい。いや、そうなってくると、部長の威厳なんて、紙風船みたいに軽いものにならないか。つか、いつから会社は紙風船で遊ぶ保育園になったのか。

そういえば、って年末の出来事を思い出す。僕は、彼からとある見込み客への同行を依頼された。「商談は私が進めます。部長は最後に念を押すだけでいいです」などと彼は言った。若々しい勢いがあった。ところが商談が始まってまもなく彼は沈黙した。弾切れ状態。経験不足で弾数を間違えたようだ。これも彼の伸びしろ…と好意的にとらえて僕が話を引き継いだ。客先のビルディングを出て、角を曲がったところで部下は「タフな商談でしたね」と感想を口にした。戦場をくぐり抜けてきた兵士のような言い方だ。「お前は塹壕のなかで戦いが終わるのをひたすら待っていただけじゃないか」と言いたかった。

三日目の午後、僕はついに覚悟を決めて声をかけた。「この前の案件どうなったかな」。部下は書類から顔を上げて、ゆっくりとまばたきした。世界の時間を一瞬止めたみたいなまばたきだった。「ああ、もう終わりましたよ」終わった?僕の脳内で、誰かが巨大な太鼓をドンッと叩いた気がした。報告を完了して、はじめて終わったといえる。あれ、報告は?「部長もお忙しそうでしたし。わざわざお時間取らせるのも悪いかなと思って」。悪くない。むしろ取ってくれ。心の中で叫んだ。口に出したところで彼の穏やかな表情は1ミリも動かないだろう。これも彼の伸びしろとして許さなければならないのか。

人間というのは、全員が全員、ちょっとずつ扱いにくい生き物なのだ。僕も含めて。そんなことは分かったうえで、仕事を進めるうえで、戦力にするため、未熟なところを伸びしろととらえて教えていく。だが、未熟さは無条件で伸びしろにはなりえない。自覚や反省というスパイスが不可欠だ。「死ぬまで勉強」的なフレーズがあるが、実際に伸びしろが許されるのはある程度の時期までだ。学習雑誌『小学一年生』を大学生が読んでいたらおかしいだろう?

「部長、夏以降もよろしくお願いします」という部下の言葉に愕然とした。彼はこの夏で65歳になると言った。未熟さを伸びしろとする季節は終わっていた。僕が勝手にもやもやして、勝手に気を遣って、勝手に疲れていた相手は、実はもうすぐこの職場からいなくなる人だったのだ。すると、なんだか急に、彼の背中が少しだけ小さく見えた。そして、ほんの少しだけ愛おしく思えた。

未熟さが伸びしろになるには条件がある。未熟さへの自覚とある程度の若さ、期限だ。その期限は思ったよりも短い。スーパーで売られている特売の刺身の賞味期限みたいに。そう思うと少し肩が軽くなった気がした。(所要時間26分)お仕事エッセイ本を出しました→