今はほとんどなくなってしまったけれども二十代の頃の僕を回想すると、毎日のように、父がなぜ死んだのか、死ななきゃならなかったのか、その理由について考えていたように思える。父は答えを遺さなかった。ヒントの欠片さえも。なぜ、答えがないクイズを必死に解こうとしていたのか、今ではよくわからない。非現実的なことが現実になったしまった事実と自分の気持ちとで折り合いをつけようとしていたのか、あるいは、現実から逃げていただけなのかもしれない。父が亡くなってから四半世紀が経った。タブーにしているわけではないが家族のあいだで父の話題が出ることも少なくなった。自転車の乗り方を教わったこと。捨てられていたワンコにウルトラ民主的な方法でタローと名付けたこと(「タロウとレオならどちらがいい?」「タロウ!」)。父との思い出は楽しいものばかりだ。終わりかたが少々悲劇的であったことを理由に、父の人生が否定されてはならないが、明るく楽しいエピソードも次第に影で覆われてくるような気がして、なんとなく避けていた。暗いのってイヤじゃん?なにより四半世紀のうちにもっと語るべき話題が増えた。進学。就職。結婚。入院。父は過去になったのだ。実際、僕の人生において父がいた期間の占める割合はずいぶん前に2分の1を下回っている。先日、法事で疎遠になっていた親戚にあった。会うのは約20年ぶり。彼らは僕が父とよく似ていると言った。生き写しだ、と。酒を飲んで打ち解けてくると、彼らは、僕と父の違いに気づいて、僕特有の躊躇なくモノを言う性質を指して「そういうキツい言い方が、オヤジさんを追い詰めたんじゃないの?」と言った。冗談半分で。僕が理由だったかもしれない。理由そのものでなくてもトリガーであったかもしれない。今まで何度も自問自答してきた問だ。違う。そんなはずはない。ありえない。そのたびに打ち消してきた。完璧に否定する材料はなかった。どこにも。答えのないクイズは、正解がわからないことにではなく不正解を否定できないという点において罪深い。彼らは知らないのだ。わからないのだ。吊り下ってブラブラしてる骸や。引っ込まなかった舌。それが乾かないよう刷毛で水を浸す葬儀屋の手つき(なんでそんなことをしていたのかわからない)。自分がトリガーだったかもしれない。そんな意識から眠れなくなって、酒をガブ飲みしなければならない夜を過ごしたことも。父の棺桶の中に生き写しである僕が入っていた夢も。こういう経験を親戚だろうが何者だろうが誰かとシェアしたいとは思わない。これは父が与えてくれた貴重な経験だからだ。僕は父とは違う人生の終わりを歩めばいい。ドラクエ5のように親子二代で完結すればいい。厚顔無恥な親戚に僕はこう言い返した。「確かにそうかもしれないっすね。たとえそうだとして何か問題がありますか?」父の死で僕が得たもの。それが強さなのか傲慢さなのか、今はわからないけれど、今後の人生で強さといえるようにしていきたい。父の書斎にはエロ本が何冊か遺されていた。外人モノだった。僕にはカリフォルニアの青空の下を全裸で散歩する女性を愛でる趣味はない。僕は僕で、誰かの生き写しでも生まれ変わりでもないのだ。(所要時間17分)