Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

自転車で彼女と書店街へ。1994年、東京、冬。

1994年、冬、僕は東京にある私立大学の法学部の3年生で、刑事訴訟法ゼミに所属していた。そのゼミは面接だけで入れたが、なぜか人気がなかった。不人気の理由は入ってから知った。四年生に上がるときの条件が厳しく、三年末でクビが続出していたのだ。生存率30〜40パーセント。ゼミに入っていないと就職で不利になるのだ。「彼女」はゼミ同期で唯一の女の子だった。よく笑うチャーミングガールで、優秀だった。課題をこなすだけで精一杯な僕とはちがって、進んで教授に質問したり、教授室に押しかけたりしていた。僕とは違う世界の住人だった。ゼミ以外で顔を合わせても、挨拶をするくらいの関係。

ある冬の日、休講をいいことに学食で友達と馬鹿話をしている僕のもとに彼女は現れた。「ちょっと付き合ってくれない?」と彼女は言った。あなたは逃げられないのよ、と告げるような凄みが彼女の言葉にはあった。まるで起訴されたら100%有罪になる刑事訴訟みたいな絶望感ばかりで、素敵なことがはじまりそうな予感はなかった。
彼女は僕をゼミで長年使われてきた自転車の置いてある講堂裏に連れて行く。「ボアソナード号」という偉大な名前を付けられ、弁当や飲み物やお菓子の買い出しに使われていたこのママチャリで何をさせるつもりだろう…僕の疑念を見越して「神保町まで付き合って」と彼女は言った。書店街で書籍を集めてくるように教授から頼まれたのだという。断ろうとしたけれど、神保町で安くて美味しいと評判のカレーライスで僕は陥落した。まだ電子書籍やオンライン書店やネットオークションは存在しない、書店めぐり、書籍探しが行われていた昔の話だ。

自転車に乗って出発して10秒後、東京が坂の多い街だと思い知らされた。足に負荷をかけるのは坂ばかりではなかった。彼女が後ろに乗っていたのだ。僕は初乗りカレーライスの人力タクシーだった。降りてくれよ、と言いたい気持ちは、背中に当たる彼女の胸の感触によって相殺された。「ふたつの胸の膨らみはなんでもできる証拠なの」という古いアニメの歌は真理を歌っていた。僕の太ももは不思議なパワーを発揮してボアソナード号を突き進んだのだ。彼女は厳しい上り坂に差し掛かると飛び降りて押してくれた。交番が見えると飛び降りて、自転車と並走し、交番が見えなくなってから飛び乗った。冷たくて乾いた風が吹きつけていたけれども、寒さは感じなかった。

そうやっていくつかの坂と交番を乗り越えて神保町の書店街にたどり着いた僕らは、教授の作ったリスト(達筆だった)を見ながら、目的のものを探してまわった。書店書房古書書店書房古書。1ダースの書店を探したが、老いた店主が役に立たなかったりして、リストの半分も見つけられなかった。ヘロヘロになった僕に、近い将来こんな無駄はなくなるわ、と彼女が言った。「こんなところでいいでしょ。先生もわかってくれるわ」と現実主義な彼女に僕は感謝した。ボロボロの喫茶店でカレーライスをごちそうになった。予算は千五百円だった。先生ケチなのよ、彼女と笑った。いい感じだったけれど、村上春樹の短編小説のように、彼女と、エスプレッソコーヒーを飲みながら、歯を一本一本外して磨いている疑惑のある同居人のうわさ話をしたあとで、「ミシシッピ」のスペルにSがいくつ入るのか議論しながら交わるような展開にはならなかった。それどころか現実的な書店めぐりによって、ファンタジーからは遠ざかっていた。やれやれだ。

喫茶店でアメリカンコーヒーを飲みながら彼女が、もう少し頑張ってみたら、と言った。僕は何を言っているのかわからなかった。コーヒーの味への評価かと思ったくらいだ。ぼうっとしていると「ゼミ。勉強」と彼女がつぶやいた。僕なりに無理せず頑張っていたので、戸惑った。「君と同じレベルでは出来ないけど」という僕の言い分を聞くと彼女は、ゼミに残れないよ、と言った。何も決めていない僕は、法曹の道に進むと公言する彼女と同じ熱量を持てなかった。それから彼女は「私たちが考えているより人生に時間はないよ」と言うと、不思議な沈黙が降りてきて、僕らは店を出た。

ボアソナード号の前カゴに紐でしばった書籍を突っ込み、残りは彼女の背負うリュックに入れた。後ろに乗った彼女は、行きと同じように上り坂では力を貸してくれ、下り坂では僕にしがみついた。大学まで帰ると彼女は、恐竜みたいだったよ、と赤信号で止まり信号を確認するために首を伸ばした僕を笑った。「私たちは視界不良でも先を見ないとね」。

僕は生き残れた。同期で上がれたのは僕と彼女を含めて4人だった。生存率40%。そして一年が過ぎて僕らは卒業した。ボアソナード号は盗まれ、僕は会社員になった。彼女が何回か試験に落ちたことを風の噂で聞いた。そのたびに「視界不良でも先を見る」という彼女の言葉を思い出した。彼女なら大丈夫、気にも留めなかった。

トラブルやアクシデントにぶち当たったとき、運に見放されたときは、いつも彼女の言葉を思い出す。「視界不良でも先を見ないと」「私たちが考えているより時間はない」。彼女の肉体と魂がこの世からいなくなってからずいぶん長い時間が経った。彼女が無駄と切り捨てた、冬の東京の片隅でおこなわれたアナログでフィジカルな小旅行と、その過程で放たれた宝石のような彼女の言葉たちは、年を重ねるごとに愛おしさが増しているように僕には思えてならない(所要時間29分)→昨年出したエッセイ本です→【電子版限定特典付き】 給食営業マン サバイバル戦記 カスハラ地獄、失注連鎖、米の仕入れも赤信号

恩人と再会して胸がいっぱいになった。

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横浜の街中で、偶然、「彼」と会った。彼は、かつての上司だ。二十数年ぶりの再会。四十代だった彼は「定年退職して、今は毎日サンデーだよ」と笑った。薄くなった頭髪。シワとシミが目立つ顔面。それでもあの頃そのままの変わらない笑顔に、僕は胸がいっぱいになった。何かが胸の奥からこみ上げてきた。感謝の気持ちを伝えたかったけれど、こんなとき僕はいつも言葉が出てこない。適切な言葉を探しているうちに、タイミングを失ってしまう。そんな僕を置いてきぼりにして、彼は近況や当時の仲間たちの噂話をすると、こう言った。「私を部下にしてみないか?今の君に私が使えるか?」

三十年前(1990年代後半)、二十代の僕は今とは異なる業界で営業として働いていた。昭和のモーレツな働き方が色濃く残り、各種ハラスメントは当たり前の環境。営業部門は特にそういった傾向が強く残っていた。厳しかった。先輩たちの指導は容赦ないものだった。同僚との競争も熾烈だった。一日が終わると心と体は疲れ切っていた。満足感や充実感は一切なかった。「一日を乗り切った」という安堵と、こんなことをしていていいのだろうか、という虚しさが残った。通勤電車内の「ゲームボーイ」が一日の癒しだった。

先輩たちは今ならハラスメントに該当間違いなしの言動で僕ら若手に当たった。人格否定が指導や教育という名目で許されていた、とんでもない時代。思い出すだけで、胸が苦しくなる。一日のノルマが達成できなかったときは、囲まれて罵声を浴びた。何をやっているんだ。帰ってくるな。何か言い分はあるか。達成しても囲まれた。今日はたまたまだ。ノルマ達成で満足するのか。上積みをしてこい。彼らから技術的な助言を受けた記憶はない。彼らには教えられるものは何もなかったのだろう。その証拠に当時の先輩たちで今でも営業職として働き続けている人はいない。生き残れなかった。彼らも時代の変遷の犠牲者だったのかもしれない。同情は一ミリもないけれど。

彼は営業部門の責任者だった。僕ら若手が先輩たちから厳しい指導を受けているのを見つけると、「どうした?何か問題があるのか」「このことは私に任せてくれ。悪いようにはしない」と声をかけてきた。「今はつらくても、あとで感謝するようになる」と励ました。彼はいつも見守っていた。それがどれだけ僕の心に大きいものだっただろうか。数年で世の中は変わった。ハラスメントやコンプライアンスに厳しくなり、効率や生産性を重視して、職場環境の改善が叫ばれるようになった。従来の働き方を転換できなかった人の多くは退場した。あっという間だった。

転職してから、一度も彼とは会っていないけれど、再会して一瞬で二十数年という時間が融解した。僕は胸が吐き気でいっぱいになった。奥から酸っぱいものがこみ上げてきた。あの頃、彼は僕ら若手が先輩から罵声を浴びてやられるのをただ見守っていた。「どうしたの?何か問題があるのか」「このことは私に任せてくれ。悪いようにはしない」「今はつらくても、あとで感謝するようになる」と指導疲れをした先輩たちを励まして、指導をさらに厳しいものにした。目標を達成すること、数字を上げること、それだけが正義の小さな王国の、彼は王様であり禍々しい元凶だった。彼には感謝している。人間の汚さや社会の欺瞞、「本当の悪とは己の手を汚さない」ということを教えてくれたから。地球が太陽の周りを二十数回周って、彼は僕の前に現れて「お前に俺が使えるか?」と言った。当時遠くから僕らを見ていたときの、あのときと変わらない嫌な笑顔を浮かべながら。(所要時間18分)

労働組合さん、社員食堂の価格アップに同意してくれませーん。

僕は食品会社の営業部長だ。ウチの会社の給食事業において、とあるクライアントと昨年夏から年末までの値上げ交渉をおこなっていたが不調に終わってしまった。その原因はクライアント(顧客)、カスタマー(利用者)、につづく第三の客、労働組合。労働組合が取引において大きな存在感を示すのは給食業では普通だが、一般的には知られていないようだ。案件は、とある企業の社員食堂で、ウチの会社は長年契約を継続していただいている。昨今の食材高騰と人件費の確保のために、価格アップをお願いしていた。数か月にわたって、クライアントの担当者と慎重に協議を重ねてきて、ほぼ合意まで至ったけれども、残念ながら最後の最後で労働組合によってひっくり返されたのである。

社員食堂は福利厚生施設だ。毎日利用する人もいるように、従業員の生活に密接に関わっているという点が、レストランや食堂と異なる。もう一点異なるのは、社員食堂がクライアントから施設や経費や金銭的な補助を受けて成り立っていることだ。補助の割合はクライアントごとに異なる。クライアントからの補助が多ければ利用者の負担(一食あたりの価格)は下がることになる。

当該案件の社員食堂はクライアントとの契約により定食を550円、カレーや麺類を300〜400円で提供していた。長年、現行価格を続けてきた。価格アップを依頼してきたけれども、「もうちょっと頑張ってよ。業者は変えないから」と歴代クライアント担当者に言われて、まあ契約を更新してくれるなら、と引き下がってきた。しかしながら昨今の食材の値上がりは半端じゃなく、また人材確保のための労務費も上昇、現行価格のままでは運営できない、ということになりガチで価格アップの申し入れをしたのである。

マスコミが価格高騰を取り上げてくれたこともあり、クライアントの担当者も「世の中がこうだから仕方ないですね」と、ようやく重い腰をあげて、ガチな価格交渉に応じてくれるようになった。そして、年明けからの価格改訂を目標に、交渉を重ねて準備を進めてきた。クライアント側のコンセンサスが取れ、ほぼ合意に至った最終段階でひっくり返って「ゼロ回答」となったのである。

価格アップを土壇場で据え置きにしたのは労働組合であった。理由は、昨今の物価高で苦しんでいる社員の生活を支えるため、らしい。だからウチも同じだっつーのと言い返したかった。クライアントの担当者は労働組合サイドと話を進めてきたけれど最終的な調整がうまくいかなったと説明した。労働組合と社員食堂の関係は深い。社員食堂が福利厚生であり、社員の生活に大きく関わるからだ。そのため労働組合は社員食堂の価格改訂に対して慎重だ。だから、今回の交渉でもクライアント担当者と労働組合向けに値上げの根拠を説明した資料を作成して進めてきたのだがやられた…。

ちなみに新規の社員食堂の業者選定コンペでも、最終的なプレゼンや試食会には労働組合の代表者が参加することが多い。労働組合からの賛同も得ないと業者変更ができない企業がほとんどだ。新規であれ既存であれ社員食堂の運営を変更するのには労働組合の了解が必要になる。クライアント担当者は「労働組合の賛同得られないとどうにもならない」と完全諦めムードで「来年また再調整しましょう」と言っている。つか、「労働組合との調整はばっちりです」と胸を張っていたのはあなたなんだけど。労働組合の名を出せば交渉を打ち切れると画策したのでは?と疑いたくもなる。ちなみに当該労働組合からは長年の協力への感謝とともに、企業努力でなるべく食事の質と量を落とさないでほしいと要望された。それでも食材は出来るかぎり国産中心にしてほしいなどと言うのだからもう我がままがすぎる。お手上げだ。

労働組合は労働者の味方のはずだ。しかし、今回の値上げがなくなったことで、ウチはパートの人数を削減や労働時間をカットしなければならない。利益も減るだろう。当社のスタッフも労働者である。また、食材を納品してもらっている協力会社に対しても値下げをお願いすることになる。協力会社に勤めているのも労働者である。社員食堂の値上げにゼロ回答することによって、そういう下請け労働者が苦しむのですけど、労働組合さん…。

社員食堂にかぎらず下請けからの価格アップに対してゼロ回答することで得たものは、こうした下請けの犠牲のうえで成り立っているのだ。結局のところ労働組合は自社の労働者のことしか考えていない。分かっていたけれどもあらためてこの目で見て感動しました。労組サイコー(所要時間21分)給食業界の内幕を書いた本を昨年出しました。

氷河期世代が浮上出来ないのは努力が足りないからなのか?

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僕は団塊ジュニアで就職氷河期世代の一人だ。大学新卒時の就職率は確か6割ちょっとで、底ではなかったとはいえ厳しく、僕のような平凡な法学部生は、夢や希望を目指すよりまず、就職することが現実的な目標だった。企業には門前払いされまくった。だから、当時まともに相手にしてくれなかった某社が先日、新卒を確保するために初任給を大幅にあげて人事担当が「学生たちに気持ちよく働いてもらいたい」と言っているのをみて、「入社3日で退職者続出しろー!」と呪詛を唱えずにはいられなかった。

昨年の選挙の際、一瞬、氷河期世代救済が話題(争点)になりかけた。「選挙のネタにするなよ」と思ったが、一転して今回の衆議院選挙では話題になっていない。それはそれでどうなのか。各政党のサイトに氷河期世代救済策的なものが掲載されているものの、柱ではない。ネタにならなくなったのだろう。氷河期世代支援策は、それが十分なものかはさておき、すでにいくつか施行されていて、新鮮さに欠けているからだ。

それに、もう手遅れ。40代から50代にかけて構築しておくべきキャリアのない人たちに、就労支援や職業訓練をおこなっても、人不足で厳しい仕事に送り込まれて、安く使われてしまうのがオチだろう。それが分かっているから広まらない。誰だってしんどいのは嫌だろう?希望がなさすぎる。費用対効果も期待できない。金と労力をかけても回収は難しい。たとえば50代の氷河期世代を職業訓練しても回収する時間がない。そもそも回収しようとするのが間違っているのかもしれないが。いずれにせよ、支援する側、される側双方にとって希望がないことが、これまで支援策がうまくいってないことに繋がっているのではないか。先日、ウチの会社で営業職の中途採用をおこなった。50代後半の営業経験なしの人が「ガッツ」を武器に面接を受けに来た。断った。ゼロから営業戦力に育ててもまもなく定年。そんな投資ができる中小企業は無い。現場の仕事を斡旋したが、やりたくない、と断られた。これは「甘え」なのか、「諦め」なのか。

就職氷河期世代は十分なチャンスが与えられなかった。救済も足りなかった。社会は、若い方がいいからと、次の世代を選んだ。楽だからね。必要とされていないという傷だけが残った。どんな施策でも、気持ちと心の傷は救済できない、ということ。さらに時間の経過により年齢面でも救済の難易度があがってしまった。年齢を重ねてからでも一からトライできる人はいる。偉いよ。でも、そういう偉い人ばかりではない。僕みたいな人間には無理だ。頑張ろうという気持ちより諦めが強くなるはず。

さて、それでも僕は何とかここまで生き残ってきた。努力と実力ではない。ただ幸運だっただけだ。就職新卒採用で引っかかって今まできただけだ。氷河期世代には二種類いる。氷河期にはまってキャリアを重ねられなかった人、それと僕みたいに何とか落伍せずに生きてきた人。多くは後者だ。仕事もありキャリアも積んでいる。食べていける。氷河期支援はいらない。そんな氷河期サバイバーは「氷河期世代で非正規の人は20年間も時間があったのに努力が足りないのでは?」「大半の人はちゃんとやれているよね。あなたのように」と自己責任論者によって同世代を「自己責任」「甘え」と非難する材料に使われる。自己責任といって非難する人には、自分の責任で人一倍努力してきたのか、今の安定は己の能力と努力だけで成り立ったものか、たまたまピンチな時代にあわなかっただけではないのか、と自問自答してもらいたいものだ。人生のどこかで不幸にあえば誰だって落伍する。今なんとかやれているのは運に恵まれただけだ。

「現役世代」という言葉がある。最近よく耳にするようになった。僕みたいな氷河期世代サバイバーも現役世代に組み込まれている。で、真面目に働いた人が報われる当たり前の社会にしましょうとどの政党の政治家も言っている。氷河期世代でうまく立ち回れなかった人は、働きたくても働けなかったのだ。まともに働くことが出来るのは、幸運に恵まれているから。そのことを僕らは忘れがちだ。少なくとも15年前くらいまでに、落伍した氷河期世代に機会を与えて現役世代に組みこまなければならなかったと今でも思う。「頑張った現役世代が報われる当たり前の社会」というフレーズは綺麗事だ。その報われる現役世代は、すでに氷河期世代を犠牲にして成り立っている、というかなかったことにしている気がしてならないからだ。「将来に負の遺産を残さない」という言葉もよく耳にする。僕には負の遺産と氷河期世代が重なってしまう。氷河期世代がこの世から消えるのを待っているように聞こえる。氷河期世代マストダイ、と。

僕は氷河期世代で、社会に出て30年間やってきた。他の世代が特別優れているようには見えなかった。ただ、ツイているようには見えた。氷河期世代にはまって浮上できなかった人を「自己責任」「甘え」と切り捨てるのは、資質と時代に恵まれた人の傲慢に僕には思えてならないのだ。(所要時間27分)

 

僕の人生にはずっと犬がいる。

僕の人生にはずっと犬がいる。タロウは1985年の冬に我が家の一員になった。兄弟ワンと二匹で段ボール箱に入れられて通学路の脇に捨てられていた。茶白のオスの雑種は、先代犬タロウの名を引き継いで家族になった(灰色のオスは「ムク」と名づけられて、近所のKさんに引き取られた)。タロウはオテ、オカワリ、マテくらいしか出来なかったけれど、手がかからない奴だった。病気や怪我とは無縁。一晩中吠え続けて僕らを睡眠不足にすることもなかった。前足を組むのが子犬の頃からのクセで「偉そうに腕を組んだまま寝ている」とよく笑った。ズルいところもあって、気分が乗らないときは名前を呼ばれても聞こえないふりをした。散歩やご飯は、僕と弟が交代で担当していた。子犬のタロウは僕らが付いていけないくらいのスピードで走った。散歩ではなく競争。ジャンプするのも好きだった。自宅のガレージから1メートルちょっとの高さがあるブロック塀をぴょんと飛び上がってウッドデッキに登った。ウッドデッキの上がタロウの居場所だった。タロウはそこから腕を組んで寝そべって家族を眺めていた。テレビもよく見ていた。僕が高校3年のとき、埋蔵金を探す番組を見た彼はふんふん鼻を鳴らして興奮していた。主人に似てボンクラの素養があったようだ。

散歩中はいつもタロウに話しかけていた。1日の出来事や世の中の不思議や、くだらないニュースについて。彼は人の言葉を理解していなかったけれど、「俺はわかっているぞ」とでも言うように真顔で首をかしげて聞いてくれた。それだけでどれだけ気持ちが楽になっただろう。父親が突然亡くなった前の晩、タロウは父と散歩に出かけていた。しばらくしてから、ふと、父が人生最後の夜にタロウになにか話をしていたんじゃないかと思った。いつもの公園で「なあ、タロウ。親父はここで何か言ってなかったか」とバカみたいに聞いた。タロウは真顔で首をかしげた。それだけでよかった。そうやってタロウはいつも僕ら家族のそばにいてくれた。祖母と父が亡くなり、弟が進学で家を出て、家族の形が変わってもタロウだけは一緒だった。言葉はいらなかった。言葉は、ときに、相手を傷つけたり悩ませたりする。相手を傷つける意図がなく、善意からであっても。優しさに溢れる言葉であっても。例えば父がいなくなった後に「お父さんの分も頑張れ」「お前にかかっている」と言われた。優しさや激励からの言葉だったけれども、そのときの僕の重荷になった。そんなときでもタロウはいつもと変わらずにいてくれた。腕を組んで。偉そうに。それだけでよかった。

タロウは20歳まで生きた。いつしか走れなくなった。体力も弱くなり、散歩で訪れていた公園で力つきて、抱っこして帰ってくることも増えた。大好きだったウッドデッキにも登れなくなった。腰も曲がってしまって、ぴょこぴょこ跳ねて歩くようになった。ぴょこぴょこ歩きの彼に「年取ったなー」と声をかけると、俺は変わらないぜ、と子犬のときと変わらない目で僕を見つめ返した。最後の数か月間、タロウは犬小屋のなかで寝ていることが多くなった。それでも犬小屋を軽く叩くと何ごともなかったように出てきて、曲がった身体で、早く散歩に行こうぜ、とゆっくり飛び出してきた。俺はまだ行けるぜえええ、と勢いよく出かけたけれど、あっというまにバテていた。そんなときは、抱っこして20年歩いてきたいつもの散歩道を歩いた。あるとき、いなくなったら寂しくなるからもう少し粘れよ、タロウの頭に声をかけた。いつも何らかのリアクションがあったのに、そのときの彼はまっすぐ前を見ているだけだった。毎日のようにお別れのときが来るのを覚悟していたけれども、最後は朝、起きてこなかった。寝ているうちに静かに息を引き取った。多分、死んだことに本人も気が付かなかっただろう。彼は子犬のときと同じように足を組んでいた。

2005年にタロウがいなくなってから、たびたび犬小屋を処分しようとした。そのたびに、屋根を叩くと、散歩に行こうぜ、とぴょこぴょこ飛び出した晩年のタロウや、徒競走を挑んできた子犬の頃のタロウや、高いところにジャンプを繰り返した壮年期のタロウが、ぬっ、と顔を出してきそうな気がして、伸ばし伸ばしにしてきた。タロウが亡くなって庭が寂しくなったので草木を植えた。彼の不在を忘れるため……そんな綺麗事ではなかった。草木を植えてもタロウが「ここは俺の陣地だー」といわんばかりに全部掘り返して駄目になっていたのだ。

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タロウが亡くなって21年たち、母は80歳を越え、僕も50代になった。母は終活をはじめ、僕は肩と腰の痛みに悩まされている。腰が曲がったタロウを思い出す。どんなときでも歩こうとしていた。お前もそのうちこうなるよ、それでも歩き続けろよ。生きているうちは、と教えてくれていたのかもね。母は「タロウがいなくなって20年。もう犬小屋もいいよね」と言った。そうだね、と僕は応じた。犬と人間では生きる速度が違うと言われる。そうだろうか。僕とタロウは20年間、同じ時間を同じ速度で生きていた。走っていた。違うのはゴール地点の位置、それだけだろう。タロウがオシッコをしていたあたりに植えた紫陽花だけが、周りの紫陽花とは違う色の花、真っ青な花を咲かせる。その青い花が咲くたびに、タロウがまだそこに生きているように僕には思えてならないのだ。(所要時間28分)