Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

客が神すぎて滅!

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商売における「お客様は神様だ」という考え方は過去のものになった。カスタマーハラスメント等の原因になるからだ。だが、営業という仕事に関しては、客が神という考え方でいい。そもそも契約を締結していただく、商品を買っていただくお客様と対等の関係にあると考えるのは思い上がりだろう。また、営業活動が無駄になるとき、たとえば親身に相談に乗っていたが契約に結びつかないときなどに頭に来る人を見かけるが、それは対等と考えているからだ。だけど、相手が神ならば「まあ神様だからね。人間のことなどわからないよ」と諦めがつくものだ。そういうとらえ方が仕事を続けるうえで有効だ。

僕の仕事は給食会社の新規営業開発。給食事業の特性から、困っている見込み客に解決策を提示できないことが多く、歯がゆい思いをすることも多い。たとえば、欠員が発生して給食が提供できないと困っている施設に対して「明日からは当社が給食をやりますよ」とは言えない。即日で飲食店営業許可が取れないので明日明後日から給食事業開始は不可能なのだ。営業目線で考えるなら、困っている相手を救うことが契約につながる。だから、そういった事態にあったときに何ができるかが重要になる。

先日、栄養士が退職したために給食運営が回らなくなった認定こども園から相談を受けた。何とか今すぐ給食の運営をお願いしたいと理事長は言った。長年、自園で給食を提供していたため、安易に考えていた。営業許可の取得等の準備のために相応の時間と手続きが必要と説明した。そのうえで、給食を開始するまでの繋ぎの提案をした。献立作成や発注の代行。欠員を埋めるスタッフの派遣。提案が受け入れられ「給食を任せたい」と委託契約への前向きな回答をいただいた。向こうからの提案で内定書もいただいた。

派遣する人員を確保した途端に先方から連絡があった。「栄養士と調理師の確保の目途が立ったから給食委託の話はなし」と一方的に告げられた。僕は、お客様は神様だから仕方ないとその瞬間に諦め、何か困ったことがあったらご連絡ください、と告げて交渉を終わらせた。対等の関係だったら揉めていただろう。相手が神だから諦めがついた。給食の営業はこんなことばかりだ。理由は明確。自ら給食提供の実績がある法人等は、給食事業をたいしたものだと考えていないからだ。だからリスペクトに欠けた行為に及ぶのである。

その件は忘れて別の仕事に取り組んでいたら、当該こども園から連絡があって「採用するはずの栄養士が飛んだので何とかならないか」と言う。お客様は神様である。何とも思わない。神は我々に越えられない壁を与えない。しかし、わたくしは下界に生きる愚かな人間であり、神のような大局的な判断力、俯瞰的な見方を持ち合わせていない。邪念と欲望にまみれている。手配していた者は別の現場に回した、人材に余裕がないので確保の見通しはわからない、あらためて金額も提示させてください、と告げた。何回か進捗を確認する連絡をいただいているが、うーん、難しいですねー、あのタイミングならできたのですがー、と言って話を終わらせている。その裏で動いてはいない。お客様は神であるが、神のような振る舞いをする客は、仕事を請け負ってから問題になることが多い。営業の契約締結までの段階で、そういう客を断って会社を守るのも営業の仕事だと僕は考えている。

僕は僕の神に従っている。仕事のうえでは各々が信じる神を持つべきだ。営業職としての僕の神は、ある一定の言動をする客とは付き合わないようにする、という判断基準だ。そして対等とか上下といった関係性ではなく、互いに尊敬しつつ独立した関係性が理想だ。自分だけの神がいるからこそ卑屈にならずに、お客様は神様です、と言えるのである(所要時間20分)給食営業の内幕についてはこの本に書いております。

ナフサの調達状況について業者から連絡がありました。。

ごみ袋やポリ袋などの主原料であるポリエチレン・ナフサが確保されているのかないのかが話題になっている。ナフサが足りているのか、それとも足りていないのか、わからない。そこに見え隠れする駆け引きや思惑にも興味はない。お菓子のパッケージや製品の包装が簡略化されたりモノクロになっても、実用面で支障がなければ問題はないでしょというのが僕の認識。だが、生活や仕事に支障が出れば話は別だ。僕が勤めている給食会社ではナフサを原料とした手袋やラップやビニールといった衛生用品や消耗品が事業継続には必要不可欠だ。ここ数年間値上げが続いている。大量購入も控えるよう要請されている。ナフサの調達状況によって、値上げが加速したら嫌だな、…と恐れていたところにそれらを納品してもらっている各業者からお願いの通知が届いた。具体的な金額を除けば各業者ほぼ同じ内容の文面だった。

各社の共通部分をまとめると《1.昨今の物価高・物流コストの上昇に加えて、中東情勢の緊迫でナフサ等の調達環境が不安定となっている。2.そのため、メーカーから供給量の制限と価格アップが発生しているので、まことに申し訳ありませんが今年に入って三回目の価格改訂をさせていただきます。なおすでに需要の逼迫により一部製品が逼迫しております。3.引き続き、大量購入はお控えください。安定供給には万全を期しておりますが、ナフサ等の調達が不安定なため状況によっては欠品、供給困難のおそれがあることをご了承ください》

値上げ申請と大量注文への戒めはここ数年続いてきたので驚きはない。だが、今回はじめて「ナフサの調達環境」という文言があらわれた。値上げの理由にナフサ不足をあげながら、ナフサはあるから安心してね、でもなくなったらごめんね、と読める怪文書である。どちらなのか。国は「ナフサはあるから安心してほしい」と言っているが、ナフサは不足すると言っている有識者も多い。どちらが真実を述べているのだろう。わからない。はっきりいってどちらでもいい。ナフサの調達の噂に乗じて一儲けしようとする者、慌てて買い占めて要る者がいるのかもしれない。わからない。ただこうしてナフサ理由で業者から通達が来ていることは揺るがない事実だ。そして、当社のようなパワーのない中小企業は衛生用品や消耗品の入手が困難になりそうだ。「ご了承ください」と言われても、在庫が切れたら…了承しましたオッケーとはならない。現場があるからだ。国や業者の言うことを信じて在庫確保に奔走せず、ある日事業停止に追い込まれるのか、今から在庫確保に全力をあげていくべきなのか(後者一択しかないと思われるが)、生き残りのために見極めているところである。ナフサが足りているのか足りていないのかはどうでもいいけど、衛生用品や消耗品の供給の見通しは正確な情報が欲しい。ものがなくなったら現場は終わる。まあウチの会社の給食事業が回らなくなって倒産するくらいならいいけど、病院や老人ホームの食事提供が止まったら命の問題になりかねないんだよ。現場からは以上です。(所要時間16分)給食業界の内幕について書いた本を昨年出しました。

ワイドショーは本当にゲスでくだらないものなのか。

ワイドショーを誤解していた。バカバカしく、くだらないものと決めつけていた。自分の浅はかさが恥ずかしい。僕は給食会社の営業部長で、ときどき人員不足の老人ホームと保育園の厨房にヘルプで入っている。昼食の提供が終わると休憩時間で、休憩室でパートさん達とワイドショーを連日見ている。パートさんたちとの「あらまあ」「やだあ」な雑談に参加するのも大事な仕事だ。共通の話題の源であるワイドショーは無視できない。これほど真剣にワイドショーを視聴したことはない。新鮮な経験だった。そして認識が変わったのである。ワイドショーはくだらないものではなかった。

連日のようにワイドショーで取り上げられている事件があった。京都で起きた痛ましい事件だ(今は部活動遠征バス事故に移行している)。毎日、毎日、これでもかといわんばかりの現場レポート、ご近所インタビュー、元警察官の考察。その日も現地緊急レポートという名目で容疑者の自宅前と遺体発見現場から「特別な動きはありません」という、どうでもいい中継をしていた。番組MCが、片田舎の民家を映した静かな映像のあと、コメンテーターに意見を聞き始めた。そこで事件が起こった。ある女性コメンテーターが急に深刻な顔で「この事件を報じる意味ってあるんですかね」「何になるんですか」みたいなことを言い始めたのだ。それから「母子家庭は再婚してはいけないってことなんですか」などと、やや脱線したことまで言い出し、当該事件を報じる意味・意義について疑問を呈したのである。MCは真顔で「我々には視聴者の皆様に事件をお伝えする義務がある」と言っている。その他のコメンテーターは毒にも薬にもならないお決まりのコメント。コメンテーターというのは専門性もなければ、勉強も重ねてるようには見えない人ばかりだ。冠番組を持てない芸人、現役引退後に迷走している元スポーツ選手、結婚出産を経てグラドルからママタレになったタレントなどで、責任を問われない、極薄な言葉を吐くのがお仕事だ。世界でもっとも楽な職業のひとつだろう。

当該事件の取り扱いについてクエスチョンを投げかけたコメンテーターのムーブは、ネットニュースで取り上げられ、概ね好意的に受け入れられたように見えた。その後似たようなお気持ち表明をするコメントをする有名人も出現した。悲惨で救いのない事件を好奇心と視聴率稼ぎのためにから取り上げるワイドショーは褒められたものではない。僕も子供の頃からくだらないものだと思っていた。だが、その認識は間違っていた。

そもそも、ワイドショーはゲスなものである。疑問を呈したコメンテーターの方もゲスなものだとわかっていて、出演しているはずだ。もし、ワイドショーが清廉潔白なものに見えていたのなら、世の中に対してコメントする能力はないだろう。また、ゲスなワイドショーが嫌なら出演を拒否すればよい。あるいは意見を述べたあとでギャラを返上してその場で退場すればいい。なぜ、その後も出演し続けてグルメコーナーや物価高サバイバル術にコメントしていたのだろうか。謎だ。

僕にはこの一連の流れにワイドショーの素晴らしさが凝縮されていたように見えた。懐の深さ、多様性を認める姿勢。言うまでもなくワイドショーはゲスなものである。その枠組みのなかで「この事件を取り上げるのはいかがなものか」と疑問を呈したコメンテーターは、事件を好奇心から取り上げ、当事者への配慮の欠けた、マスコミの姿勢について意見をしていて素晴らしいと評価される。ワイドショーも一時的には非難されるが、反対意見や否定的見解を抹殺せずに抱えている器の大きさ、多様性への配慮を評価される。つまり、それぞれがワイドショーという仕組みのなかで役割を果たしていて、素晴らしいと僕は思ったのである。

ワイドショーはショーである。もっともな意見や、共感を得る意見であっても、ゲスなワイドショーに取り込まれればゲスの一部にしかならない。意見というものは内容もさることながら、意見する場がより大切なのである。ワイドショーなどは最悪である。現場のパートさんたちはそれを見越していた。件のお気持ち表明のごたごたを見ても「なんか揉めてるけど、打ち合わせが足りないんじゃないのー」という反応であった。このようにどんなまともな意見であっても、ワイドショーというゲスな仕組みのなかで消化分解されてしまうのである。きっつー。ワイドショーはゲスなのではなく、めちゃくちゃゲスなのである。ショーがないね。(所要時間23分)給食から社会を見るエッセイ本を出しました。

 

母と、僕の、最後のディズニー。

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母を連れて家族で東京ディズニーシーへ遊びに行った。今回が母と訪れる最後のディズニーと決めていた。ランドではなくシーを選んだのは、開業25周年でお祝いムードだから。「最後だからお祝いしてもらわなきゃ」という母の前向きな言葉に僕は胸が詰まりそうになった。母は80歳を超えている。最近、目に見えて体力が落ちた。今回を最後のディズニーとしたのは、体力面からの判断である。母は、何度も「これで最後なんだね」と名残惜しそうに言った。一か月前。一週間前。前日。当日の車内。現地で。何度も、何度も。僕はそのたびに「そうだよ。最後のディズニーだよ。楽しもうね」と返した。最後という言葉をこれほどの重さを持って使ったことはない。「最後」と口にすればするほど重さが増していくような気がした。誰にでも最後はやってくる。その時が来たのだ。
東京ディズニーランドができた年、子供会のイベントで初めて訪れた。母と弟と一緒だった。ミッキーマウスやドナルドダックに会えて嬉しかったことを覚えている。ドナルドダックのぬいぐるみを買った。今でも実家のリビングに飾ってある。40年以上の歳月で、帽子は外れ、毛並みもバサバサ、クチバシは歪んでしまった。「最後だね」何度も念を推す母に「ウチのドナルドダックだってボロボロで持ち歩けないでしょ」と言い訳した。母は「そうだね。体力が落ちたから仕方ないね」と笑った。ディズニーリゾートのような行楽地に後期高齢者を連れて行くのは大変だ。本人たちは、なかなか弱音を吐かないし、強がる。言葉を鵜呑みにできないから難しい。そのため、顔色や息づかいを観察して、異常が発生する前に休憩を取る必要がある。休憩場所を確保したり、お茶や食事の店を確保したり、トイレまで連れて行ったり、走ったり、手を引いたり、荷物を持ったり、大変なのだ。来なければよかったと毎回後悔する。それでも今回は母から「最後だけど楽しいね」と言われたらすべてがチャラになってしまった。

時の流れは残酷だ。これまで普通に出来たことが普通に出来なくなる。苦労するようになる。苦労してもできなくなる。終わりが来る。楽しいアトラクションには降りるときが必ず来る。人生というアトラクションも同じだ。永遠に続かないからこそ、いつか終わりがあるからこそ、その途上の一瞬、一瞬が輝くのだ。生きることは、ジェットコースターみたいだ。アップダウン、急勾配、一回転。それらを克服したり我慢したり慣れたりしてなんとか乗り越えていく。逃げられない。別ルートはない。若い頃、父が生きていたら家族はどういうカタチになっていたのかよく想像した。現実よりも良いものを頭に描いた。そうなっていた可能性は高い、と思う。だが現実はそうはならなかった。僕が歩む現実のルート。父がいれば後期高齢者が一人増えてディズニーシーに来られなかったかもしれない。母と今のような何でも話せる関係にはなっていなかったかもしれない。僕は、ようやく長い時間をかけて今のルートも悪くないと思いはじめている。

老いた母がいるので、レイジングスピリッツやセンター・オブ・ジ・アースのような派手に動くアトラクションや、アナ雪やソアリンのような何時間も並ぶアトラクションは回避した。乗ったのはシンドバッドの冒険やアクアトピア(まもなく終了)、ラプンツェルといったのんびりとしたものばかりだ。大好きな海底二万哩は終日動いていなかった。残念だ。夜八時半すぎに、お土産とお菓子を買って母との最後のディズニーは終わった。混雑する店のなか母の手を引っ張っての買い物は、どんなアトラクションよりも僕の体力と精神をすり減らした。生き返りの車の運転は眠気との闘いになる。母は、駐車場でなかなか車に乗ろうとしなかった。入口近くにある巨大な青い地球を見つめながら、母は「楽しかったよ。これで最後なんだね。もう体力がもたないよね」とつぶやいた。僕は母をワゴン車に押し込みながら「母さん、楽しめたかい?朝九時から夜九時まで満喫したよね。これで最後だよ」と告げた。

母は80歳を超えた。老いたけどまだまだ元気だ。息子の僕は52歳になった。元気じゃない。持病の腰痛や肩痛、高脂血症に加えて、加齢による運動能力と体力の衰えはすさまじく、母(後期高齢者)を連れて面倒をみながらディズニーリゾートを回るのはもう無理だ。きっつー。よって、僕の体力の問題により今回をもって母のディズニーは最後とさせていただいた。まことに申し訳ない。(所要時間23分)このような家族文章はこちらのエッセイにもあります。→

資本主義~そして終わりのない悲しみ

先日、SNSを眺めていたら実業家の人が全裸の女性たちでつくられた人間シャンパンタワーに酒を浴びせて「これが資本主義だ」と叫ぶ動画が流れてきた。当初は生成AIで作成された悪戯動画と思ったが、並び重ねられた平凡な尻の造形にリアルと金の匂いを感じ取って、現実のものと判断した。僕は、その実業家をまったく知らない。動画もバカバカしく、良いのではないかと軽く流していた。真剣に取り合うものではないと考えていたのだ。実業家も撮影者も尻出しガールズも、くだらねーと笑われて終わるものと気楽に考えていたのではないか。

ところが世間様は右から左へ流すことを許さなかった。不謹慎。下品。何が面白いのかわからない。(実業家の)家族や子供が見たら悲しむぞ。そういった「いかがなものか」的な反応が大半であった。人間シャンパンタワーは法律に反していない。プライベートな場で尻を並べてはいけない、何人も許可なく尻にシャンパンをかけてはいけない、と法に定められていない。罪刑法定主義によれば罰せられることはないのである。強いていえば猥褻物チン列罪に該当するかもしれないが、汚い尻は猥褻物というよりは汚物だろう。飲食店で汚い尻を出すことが公衆衛生の観点から問題視されそうであるがそういう声は僕の尻かぎりではなかった。「問題ありません」とSiriも言っていた。

法的に問題がないのであれば反感を買ったのは「お金持ちが鼻持ちならないことをやっていてなんかムカつく」という条件反射的な感情からだろう。「家族や子供が可哀そう」という道徳面からの非難については、旦那/父親が馬鹿な行為をしているだけであって周りが流せばいいだけのこと。つまり動画を問題視しなければよい。家族や子供も旦那/父親を反面教師にすれば良い。もし、子供が「僕もお父さんのようになりたい」と決意してより多くの尻を並べてクフ王級の人間ピラミッドを作り上げようとするなら、それはそれでよいのではないか。

では、なぜムカつくのかというと僕らが知らず知らずに持っている欲望を金の力でいとも簡単に叶えたからではないか。並べた尻にシャンパンをかけ流したい。素麺を、チーズフォンデュを、フルーチェ(イチゴ味)を尻の列にかけ流してみたい。しかし、それらは叶わぬ願望だ。これまで諦めてきた夢の残骸だ。それを実業家が財力と人脈で実現した。SNSで公開した。なんかムカつくのである。しかしムカつくと素直に表明するのは負けた感がしてムカつくので、不謹慎、下品、家族子供が可哀そうといった理屈を持ち出して「いかがなものか」表明したり、これが面白いと思っているのは可哀そうというエンタメ性からのダメ出しをしたりするのだ。

告白しよう。僕は羨ましい。生まれ変わったら尻を並べ積み上げてみたい。その模様を配信したい…しかしそこで僕は人間シャンパンタワー動画の真の意味に気付いてしまった。思い出してほしい。実業家は、尻が丸出しの女性を積み上げて人間シャンパンタワーに高級酒をかけながら「これが資本主義だ!」と叫んでいた。あれは金持ちの傲慢のあらわれとして多くの人の目に映っている。それは間違っている。ムカつきの感情が強すぎて素直に見られなくなっている。よく思い出してほしい。あの動画は資本主義の限界と悲哀を映し出している。どれだけ金を稼いでも札束を積んでも並べられるのは平坦で平凡な六つの丸出し尻のみ。共産主義国家の権力者が本気になれば積み重ねる尻の数は桁が二つちがう。尻ひとつとってみても、港区界隈で網に引っかかる尻ではなく、寺沢武一先生の『コブラ』をはじめとする作品に登場する美女の、肉厚で匂い立つような尻になる。研磨された宝石のごときピカピカの尻。財を成し、名を成しても、資本主義のもとでは港区界隈で集めた小汚い尻を重ねた人間シャンパンタワーが到達点になる。資本主義では!そして薄暗い尻の前で「これが資本主義だ!」と叫ばずにいられなくなる。あの動画は資本主義の限界への絶望、資本主義に裏切られた嘆きなのだ。あれは現代社会で繰り返される悲しみに彩られた絶望と嘆きの叫び、令和の「ブルータス、お前もか」に他ならないのだ。ま、実害がないものに目くじらを立てるのは時間とカロリーの無駄なのでやめておいたほうがいいと思うよ。(所要時間20分)昨年出したエッセイ集になります→