Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

父とムスコの30年

30数年前に僕の父は死んだ。自死だった。僕と父は見た目がよく似ていたので父が死んだとき自分が死んだような気がした。嫌だった。その気持ちは僕のなかに今も変わらずあり続けている。不思議だ。当時は自殺だったのがいつのまにか自死という表現になったり、こういう話題をするときに相談窓口の連絡先が表示されるようになったり、変わったものが多いというのに変わらないものはまったく変わらない。遺書はなかったので理由はわからない。もう永遠にわかわないだろう。前兆もなかった。近くにいた僕ら家族には感知できなかった。だから父が理由不明で自死したという事実だけが残った。今振り返ってみれば、父は絶対に悟られないように仕組んでいたのだろう。それでも10代だった僕は理由を探すことに躍起になった。一人の人間が、家族のいる男が、何の理由もなく命を断つことが信じられなかった。許せなかった。なにより僕は自分の落ち度を否定したかったのだ。理由を見つけられれば、免責されると信じていたのだ。

その日は休日だった。家にいたのは父と僕の二人。母と弟は外出していた。昼近くに目が覚めた僕は、家が静まりかえっていたので、家族が僕を置いて外出したのだと思った。当時、僕は10代のシャイボーイ。家族と外出することに気恥ずかしさを覚えて出来るだけ避けていたのだ。だから静けさに包まれた家はごくごく普通だった。結論からいってしまうと、僕がひとりでいると思い込んでいた時間帯に、父は持ち前の手先の器用さを間違った方向に発揮して、いつどこで調達してきたか不明の太いロープを使って…仕事場にしていた書斎で最期の仕事を完遂していたのだった。今でも思い出してしまうのは発見したとき、天井に残っていた器用な工作の痕跡だ。完璧だった。命がなくなった父の体より、天井の工作に生きている父を感じたのだ。

そこからはレスキュー、警察、お葬式という流れで進んでいった。慰めてくれた親族がほとんどだったけれども、残っているのは責められた記憶ばかりだ。「お前は自宅にいたのになぜ気が付かなかったのか」「物音ひとつないなんておかしいと思わなかったのか」「外出する際に使う車が残っていたのに」。最後は例外なく「お前はそのとき何をしていたの?」という質問で終わった。僕は答えなかった。そんな僕の姿を見た親族は態度を軟化させ、攻撃性を同情に変えた。答えなかったのではない。答えられなかったのだ。僕は父が1階で最期の計画を遂行している最中、2階で家族の不在を利用してエロビデオを観ていたのだ。答えられるわけがない。嘘をいう余裕もなかったから沈黙するしかなかった。息子の僕がムスコさえ握っていなかったら父を止められたかもしれない。そんな仮の未来を考えると頭がおかしくなってしまいそうだったから僕は躍起になって理由を探した。救ってくれたのは、母と弟だった。まさか僕がムスコとセルフファイトしていたとは想像していなかっただろうが、母は「お父さんバカだよね。誰も止められなかったよ」弟は「兄貴は何も悪くない」みたいなことをたびたび言ってくれた。母は「お父さんはあなたに見つけてもらいたかったのよ」とも言ってくれた。「迷惑だよな」としか言い返せなかった。

時間はかかったけれど今はわかる。父の死はどうしようもない出来事だったのだと。父の人生は、終わりはまあ残念ではあったけれども全否定されるような悲しい人生ではなかったのだと。生きるということはシリアスばかりではなく、あらゆる欲に流されてだらしのないことに支配されたバカな時間を過ごすことも含むのだということを。すでに僕は父より長く生きている。自分で死んだりはしないけれども、死んでしまいたいという父の気持ちはわからないでもないし、それにもし自分が死ぬのなら父のように周りに悟られないように遂行できる自信もある。でもしない。今のところは。誤解を恐れずにいえば、死ぬよりも自分のムスコを握っていたほうがいいからだ。僕があのとき言われた「お前は何をしていたの?」という問いは他人から言われる筋合いものではないのだ。その問いができるのもその問いに答えられるのも自分しかいないのだ。生きていくほうがきっつーなので、ときどきムスコをいじって慰めるくらいいいじゃないか。

5月末が父の命日だ。その日、仏壇で線香をあげていたら、後ろで見ていた母が「お父さんが歳を取ったら今のあなたに似ているのかねえ」と笑った。いつの間にか母の中で「僕が父に似ている」は「父が僕に似ている」に変わっていた。ずっと、自死した父と瓜二つのように似ていることが嫌だったけれども、これからは似ていることを受け入れて生きていける、そんな気がしている。(所要時間35分)

 

《「部課長以上は365日24時間所在を明確にしろ」「幹部に公私はない。私用での年休は控えろ」などと問題発言をしていた人事の人が、私用で年休を取って急用で呼び出そうとしても音信不通で所在不明になっていて言い訳が今から楽しみすぎるぜ》の顛末がクソすぎて死んだ。

「部課長クラス以上は365日24時間所在を明確にしろ」「幹部社員に公私はない。【私用】での年休は控えろ」などと日常的に問題のある主張を繰り返していた人事部門責任者ご本人が、「理由=私用」で年休を取得し、急な用事で呼び出そうとしても音信不通かつ所在不明となって、僕の中にあった「他者に厳しい人は、己にも厳しくあるべし」という常識が死んだ。自分に甘すぎるだろ。とはいえ、どういう言い訳をするのか楽しみで仕方なかったのは、昨日のこと。

人事部門責任者は某金融機関からやってきた人物である。僕が以前年休を取得しようとした際も「幹部には公私はない」「私用とは何?」「会社に明らかに出来ない用事なのか?」と執拗に詰問された。最終的には業務の運営を妨げるとして時季変更権行使までちらつかせた。完全におかしい。年休中に一族郎党皆殺しにされた悲しい過去があるのかもしれないが、僕の知ったことではない。私用で押し通そうとしたが食い下がってくるので「通院のため」と答えたら「ストレスだな。気を付けてくれ。倒れるときは業務に支障が出ないように事前に申し出てくれ」と彼は言った。マジで〇ね。

実績を残したいという焦り。(方向性は間違っているが)仕事に対する生真面目さ。不愉快な言い方。それらのケミストリーが仕事の厳しさにつながっていると彼は社内でみなされていた。同時に「そこまで他者に求めるなら自身にも厳しい戒律を課しているにちがいない」ともみなされていた。そのような人物が私用理由で年休取得したうえ音信不通の所在不明。部課長クラス以上には労働時間以外でも連絡が取れるよう厳しく言ってきた人間なので、反感も強かった。反感は「何様だ」「矛盾をどう説明するのか見ものだ」という《つるし上げ派》、「事故か事件に巻き込まれたのではないか」「警察に連絡したほうがいい」という《もう故人なんじゃね派》、「もう現れないのでは?」「出勤できないだろ…」という《去る者追わず派》の3派に分かれた。3派に共通するのは、彼が従来の主張と矛盾した行動を取ったという前提であり、何らかの謝罪があるだろうという見込みであった。

本日、弊社のある神奈川県は朝早くから雨足が強かったが、人事部門責任者は何事もなかったように出勤していた。平常運転。同僚たちは「精神力ヤベー」「1ミリも弁明する様子がないとは」とドン引きしつつも、積年の恨みを晴らさなければすまない気持ちもあったので、たまたま痔の治療のため肛門科へ通院する私用で年休取得する必要のある僕が、人事部門責任者を問い質すことになった。

「部課長以上に私用での年休取得をしないように言っておきながらご自分は私用で年休を取るとは何ですか。365日24時間所在を明確にしろと言っておきながら行方不明で音信不通とは何ですか。こちらが納得できるご説明と、これまで我々に求めていた方針の撤回をしていただけませんか」僕はそれだけを言った。自己保身に走った自分本位の言い訳を聞かされると予想していたが、予想に反して人事部門責任者は素直に「謝る。私は間違っていた」と謝罪した。

だが、謝罪は謝罪ではなかったのだ。

その謝罪は「部課長以上の幹部に公私はない。そのため私用での年休は控えてもらいたい。そして365日24時間所在を明確にして常に連絡が取れるようにしろ。この点について法的には問題があったとしても私は正しいと考えている。じゃなければ業務が回らないからね。私が謝らなければならないのは部課長以上という曖昧な言い方だった。もっと分かりやすく誤解のないように言うべきだった。この点については謝る。正確には『部課長以上の社員は』だった。部課長以上の社員はこれまで私が求めてきたことを今後も求めていく。そして私をはじめとした取締役は役員であって社員ではない。私が求められるものは社員と違う」というものであった。

要するに、これまで部課長以上に求めてきた私用理由の年休取得の制限や365日24時間所在明確化は、社員向けの話であって、人事部門責任者(取締役)には該当しないよーだから年休も自由に取れるし連絡が取れなくても問題ないよーというクソ理屈であった。「そんなに知りたいなら昨日役員の私が年休を取って何をしていたか教えても、かまわないぞ。釣りだ」が捨て台詞。マジで〇ね。(所要時間25分)

本牧埠頭、1995年、夏。

1995年の初夏から秋にかけて、横浜の本牧埠頭の倉庫でアルバイトをしていた。当時、僕は法学部に通う大学生で、たまたま学生課の掲示板で目に留まったのが本牧の倉庫会社のアルバイトだった。時給は1000円。すでにバイトをしていたファミレスや蕎麦屋の時給が700円台だったので、何も考えずに飛びついた。家庭の事情でお金を稼ぐ必要があったからだ。もちろん、うまい話はないのは知っていた。時給の高さはハードなアルバイトの裏返しだと覚悟していた。どれだけ酷い仕事であっても「数か月耐えればいい」「無理なら逃げればいい」と割り切って面接に臨んだ。お金を目的にはじめたアルバイトだったけれども、あの1995年の夏は、お金には換えられない意味を持つ大切な時間になったのだ。

面接5分で採用決定。研修や教育はなし。「今から行ける?」と作業服を着た社員に車に乗せられ連れていかれた倉庫で「見よう見まねで覚えて」と言われて放り出された。前任者のおばちゃん(腰の手術で離脱)が作った引継書はあったけれども、蛇がのたうち回っているような古代文字を連想させる達筆で、解読を挫折した。主な仕事は貨物の受付と日雇い労働者への給料支給だった。所長をのぞけばアルバイトの僕、その他の作業員は日雇い労働者。日雇い労働者全員が現金支給を希望した。彼らは何らかの理由で口座を持っていなかった。彼らを見た瞬間に、僕がそれまで付き合ってきた人間とは違う世界の人間だとすぐにわかった。入れ墨、大ケガのあと、目をあわさない話し方、いいかげんな挨拶、ヘビースモーク、酒の臭い。率直に言って「地獄」「底辺」だと思った。

仕事は失敗を重ねながら覚えた。失敗のたびにオイコラ!ボケナス!ナメとんのか!と日雇いからの厳しい叱責や汚いヤジを食らったが、ダメージは残らなかった。彼らが、怒鳴った数秒後にそれを忘れてしまう程度の人たちで、数分後には何事もなかったかのようにタバコを分けてくれたりしたから。そして何より「金のための期間限定アルバイト」という意識で働き、大学を出て社会に出れば、彼らのような日雇い労働者とは一生縁のない生活を送ると信じていたので、何を言われても気にはならなかったのだ。あー底辺が何か騒いでいるなー。という感じ。「自分は底辺の彼らとは違う」というどうしようもない優越感に支えられた自信を持っていたのだ。偏見ではない。実際、日雇い労働者の彼らは酷かったのだから。約束の日時に現れない、行方不明・消息不明になる、同僚同士の喧嘩、二日酔いで仕事にならない、は日常茶飯事。その穴埋めのために僕も働くはめになった。荷積みや荷下ろしをやらされた。フォークリフト講習を受けさせられた。その合間に本業の事務作業と会社や役所回りをこなしていた。ハードだった。

日雇い労働者の彼らは、クセの強さと口の悪さを別にすれば、付き合ってみると素朴でいい人たちだった。全員男性で、年齢は30代前半から70代まで。50代から60代前半がいちばん多かったと記憶している。違う世界で生きている底の人たちだと決めつけていたので、彼らが休憩時間に語っていたこと、それは彼らの境遇や不幸や人生訓めいたものから、世界をまたにかける商人の冒険譚や超有名人との意外な交際話といった真偽不明のものまで多種多様だったけれども、僕は「参考になります」「なるほどそうなんすか」といい加減な相槌で聞き流していた。彼らも自分の話をすることが主目的で、話の内容が届いているかどうかは気にしていないように見えた。プロ野球の結果やくだらないエロ話はしたけれども僕も自分のプライベートはいっさい話さなかった。聞かれもしなかった。「お互いの私事には触れない」「領域には踏み込まない」そんなルールを遵守した、相手がいる独り言だった。

ハードなアルバイトだったけれども、手待ち時間は多かった。貨物の到着が予定より送れると手持ち無沙汰になった日雇い労働のレギュラーメンバーと、岸壁に腰をかけてタバコを吸った。日雇い労働者たちは、入れ替わりが激しかったけれども、そのうち何人かのオッサンは仕事があれば必ず顔を出していた。僕はそんな彼らのことをレギュラーと呼んで頼りにしていた。岸壁で時間を潰しているとき、レギュラーからは「大学生がこんなところに来てはダメだぞ」「ハマったら抜け出せなくなるからな」と笑いながら脅された。笑ってごまかした。身体にまとわりつくような粘り気のある塩の香りがした。

日雇い労働の一人が姿を表さなくなっても、気にしなかった。「いなくなったんだな」と思うだけだ。誰も話題にもしなかった。だが、レギュラーの一人が連絡もなく(連絡手段はなかったが)、姿を見せないとなると話は別だ。探しに行くことになって、仕事が終わったあと、数人の有志で立ち飲み屋や簡易宿泊所を見て回った。探していたレギュラーの一人は宿泊所で亡くなっていた。60代。自然死。健診を受けていないし、体調が悪くても寝ていれば治るといって聞かなかったらしい。家族や引き取り手は見つからなかった。

何日か経って岸壁で休んでいるときに、亡くなったレギュラーの話になった。誰も彼の本名は知らなかった。話を振られて「あんなところで死んでしまって…」と口にしたら、レギュラー達から「それは違うぞ」と強い口調で遮られた。「あいつはあそこで死んだからすぐに気づいてもらえたんだ。幸せ者だ。ここがとんでもない場所だと思っているかもしれないけれど、それは間違っているからな」


僕が言い返せないでいると「ここは俺らみたいな人間にとっては楽園なんだよ」と誰かが言った。それきりで誰も話そうとはしなかった。岸壁からは発泡スチロールの箱や木片や運動靴が浮いている汚い海が見えた。彼らは煙草を揉み消すと倉庫へ歩き出した。彼らの背中を見ながら僕は恥ずかしい気持ちになっていた。僕が底辺と見下していたことを彼らは見抜いていたのだ。互いに干渉しないという暗黙の了解があったから指摘しなかっただけだった。僕にとっては底辺でも彼らにとってそこは最後の楽園だった。亡くなった仲間の一人が期間限定でやってきた若僧から底辺で人生を終えたと思われるだけは我慢ならなかったのだろう。僕は頭でっかちで世間知らずの大学生にすぎないことを思い知らされた。

それからアルバイトを辞めるまでレギュラーとは以前と変わらない付き合いが続いた。立ち飲みやいかがわしい店にも連れて行ってもらったこともあった。だが、あの仲間が亡くなった直後の岸壁の話の続きはなかった。アルバイト最後の日も皆素っ気なかった。「今日までか」とか「じゃあな」とか「二度と会わないからな」「こんなところに来るなよ」「戻ってくるなよ」と声をかけてもらっただけだ。

あの夏からずいぶんと時間が流れた。僕は来年で50歳になる。「戻ってくるなよ」という言いつけを守って、あの倉庫へは一度も足を運んでいない。あの夏に出会った日雇い労働者の多くは亡くなっているだろう。レギュラーの皆は人生を終えるまで楽園にいられただろうか。いられたと信じたい。僕が底辺だと思っていた場所は底ではなかった。彼らにとっては楽園だった。最後の楽園。底はもっと深くて手の届かないところにあった。行方不明になった日雇い労働者たちはそこに堕ちていったのかもしれない。底を知らないのは幸せなのだ。あの倉庫で働いていた日雇い労働者たちの目が、僕が見たことのない目に見えたのは、彼らが底を知っている人間だからだと年月を重ねていろいろな経験をした今だからわかる。「戻ってくるなよ」「二度と会わないからな」「こんなところに来るな」日雇いで働いていた彼らは、悪態で僕に教えてくれたのだった。一度底に落ちたら戻るのは難しいことを。あの夏、岸壁から覗き込んだ海は黒く濁っていた。何も見えなかった。今、振り返ってみると、あの岸壁が最後の楽園の淵だったように僕には思えてならない。(所要時間65分)

 

「他社に切り替えるわ」のひとことで契約解除された。

僕は食品会社の営業部長。2か月前、取引をしてきたA社担当者から「新年度からは他社に切り替えるわ。安いし」という非情なひとことで契約解除通告された。なお、2か月前予告は契約書の解約解除ルール通りである。得意先を失いたくなかったので話し合いを求めたが、「もう社内で決まったことだから」と交渉すらできなかった。

それから2か月。元取引先A社の担当者から連絡があった。「過去は水に流して何とか助けてほしい」と泣きついてきたのだ。新取引先が必要数量を揃えられなかったみたいだ。アホか。「これまで築き上げてきた関係を濁流で流したのはそちらでしょ」と言いたかった。だが、相手の口調から焦りとヤバさを感じたので「考えさせてください」といって電話を切った。

A社との契約条件は厳しかった。納期が厳しいうえ、納品ルールが細かかった。社風なのか育ちの悪さなのか知らんけれども、荒っぽい社員が多くて当社の担当者は疲弊した。近年の値下げ要請にも応じてきた。それでも取引を続けてきたのは、長年、お互いのピンチを支え合ってきた関係性があったからだ。だが、解約された時点で契約条件はリセットされる。お得意様ではなくなる。いったん関係が切れた以上新規顧客となるため扱いもそれに準じたものになる。しかもA社担当者の話によれば社業の存続にかかわる大ピンチなのだ。優位に立って交渉ができると踏んだのだ。

実は、A社からの解約があったとき、選択と集中を掲げていた会社上層部は「いいんじゃね?」みたいなワンダーな余裕を見せた。プライドが高い会社上層部は、自分たちが切り捨てられたことを認めない傾向がある。切られたとしてもこちらから切るつもりだったと受け止めることで自我を保っている、「敗北を知らない」人たちなのだ。上層部は言った。「わが社は事業と経営資源を選択・集中している。選択と集中に聖域はない。A社も同様だ」 負け惜しみに聞こえたのは気のせいだろうか。

時間的な余裕がなかったので、会社上層部の了解のもと関係各所と連絡を取って、A社との事業再開が可能か。検証して調整をした。担当していたスタッフが残っていたので多少の無理をすればできないことはなかった。目途は立った。次は優位な立場から新たな契約条件を設定することであった。準新規顧客として扱うなら。それがA社との事業再開の最低条件として社内コンセンサスをとりまとめた。

A社担当者に目途が立った旨を伝えるべく電話をかけると、衝撃的な言葉をぶつけられた。「納期と納品ルールは以前と同様でよろしく。価格は以前契約していたときよりも安く頼むわ。B社(当社のあとに契約した会社)と同じ金額で頼むよ。ウチにも予算があるからさー」
今なんと。我が耳がバカになったのか。相手がバカになったのか。
彼のいう「水に流して」における流すものは「過去のわだかまり云々」ではなく「前取引時の契約条件」であった。アホが考えることにしても都合よすぎるだろ。

こちらのドン引きしている様子に気づかずに「3割引いてもらいたいところだけれど、2割引きでいいわー」などとクソ発言を続けているので、便所にこびりついたクソのようにわずかに残っていた「助けてあげよ」という気持ちを水洗便所に流すかのごとく流して「無理です」と回答して話を打ち切った。ウォシュレットを使った直後のようにすっきりした気分であった。

会社上層部にも経緯を説明した。「わが社は選択と集中している。それでいい。よくやった」……的な言葉を期待して待っていたら「もったいないだろ。向こうからやってきた顧客を失ったんだぞ。A社とは長い間取引があったのにー」などと言う。「設定した採算ラインに達しない顧客は選択と集中で切り捨てる方針ですよね」「A社は前契約時よりも2割引きを求めてきました。採算アウトです」「選択と集中に聖域はないと仰いましたよね」と食ってかかった。会社上層部は65オーバーの高齢者グループ。そのため、自分の発言を忘れてしまうことがある。意見することで思い出させるつもりだった。

無駄であった。会社上層部は「赤字にならなければいいよ。今からでも頭を下げて取引をしてもらいなさい。頭を下げれば元の条件で再開できるかもしれない」と言った。出た、ワンダー楽観視。2割引きしたら赤字だよ。できるわけないだろ。僕は会社上層部の目を覚ますためにもういちど「我が社の選択と集中に聖域はないと言いましたよね」と食い下がった。会社上層部の一人は真顔で以下のように言ったのです。「わが社の選択と集中に聖域はない。それは間違いない。確かに言ったよ。これはね、選択と集中に固執しないという意味だ。時と場合によっては条件が悪くても排除の対象にならない場合もあるという意味。わかるよね」わからねーよ。以上終わり。(所要時間32分)

採用面接で「これは圧迫面接に該当します」と指摘されて心が死にかけた。

就職求人市場は、需要状況によって「売り手市場」「買い手市場」と呼ばれる。今は売り手市場であるらしい。売り手市場であれ、買い手市場であれ、そのときどきにおいて優位に立った者が優位にある立場を利用して強者のふるまいとする…僕が新卒の頃、平成一桁台は今ほどコンプライアンスもなく、買い手市場であったため、それはまあ酷い目にあったものだ。そんな薄汚れた下水のような世の中で、せめて己が面接官としてかかわる面接において、自分だけはドブネズミみたいに美しくありたいと心に決めている。

美しくあり続けることを試されるような試練が続いている。

第壱話 出ない、電話

初冬。営業職企画職の欠員補充のための中途採用に応じて「業種や仕事について担当者と実際にあって話を聞いてみたい」という問い合わせがあった。20代女性。アメリカ暮らしの長い帰国子女。ただし、現在勤務しているため特定の平日夕方6時から職場近くで話を聞かせてほしいという要望アリ。「それがかなわないならこの話はなかったことにしてくれ」と売り手市場らしい強気な発言もあった。不利な立場にある僕と人事担当は、その要望に応じて、指定された場所と時間にDon't be lateという強い気持ちをもって待機していた。売り手市場の厳しい状況下で我々の出した求人に対する反応が薄かったからである。

都内の巨大ターミナル駅。夕方。人の多い時間帯。僕は人事担当とオッサン二人で待っていたが、約束の時間が迫っても相手は現れなかった。
「最近の若い人は時間ぴったりに来るから」「我々の時代では考えられませんけどなー」と余裕の態度で若者を待っていると待ち合わせの時間ぴったりに人事担当の携帯に着信があった。「2人ともグレーのコート。七三とテンパー」スマートフォンを耳に当てて彼は言った。73と10%。我々が立ち尽くしているポイントの詳細を伝えるために、ここの番地と降水確率を教えたのだろうか。

《慌てずに来てくださいね》《多少遅れてもオッケーだから》弱い立場特有の卑屈さのチラつく言葉を吐いたあとで人事担当は「近くまで来ているが人が多すぎてどこにいるのかわからない。二人の格好と特徴を教えてくれとのことです」と説明した。七三分けと天然パーマ。僕は頭髪を分けているつもりはないが、天パーの人事担当は分け目という概念が欠損しているらしく、七三分けに見えるようだ。人間は自分の持っていないもの、経験したことのないものを理解できない。見た目の特徴を誤って伝えることがランデブーの失敗に直結することがテレクラ経験のない彼にはわからない。嫌な予感がした。

そして悪い予感は的中する。1時間近く待たされた挙句、面接希望者は現れなかったのだ。電話には出なかった。待ち合わせ相手の容姿を遠方から視認してドタキャンをするとは。ルッキズムかよ。確かに僕らは目の下のクマを隠しきれない疲れ切ったオッサンではあるけれどドタキャンはきっつー。ネット恋愛で盛り上がって実際に会うことになり「あなたの姿を事前に確認したいから画像送ってー」という声に応じた途端、音信普通を喰らうオッサンの気持ちが少しだけわかった気がした。これが売り手市場…。こんな薄汚い世界でも自分だけは強くありたいと思った。なにより人間を信じたかった。人間の美しい魂とやらを。

第弐話 プレゼンの価値は

このような出来事があったために、プレゼン君との面接は僕にとってとても美しい経験になった。プレゼン君。その名からは想像しにくいと推測されるので説明させていただくと、彼は、面接において、実に感動的かつ印象的なプレゼンをおこなったのである。我々がプレゼンを求めたのではない。求められていないプレゼンを、彼は自発的に、プレゼンをすることが、まるで10年前から定められていたいたかのように、ごく自然におこなったのだ。もし、買い手市場であったら「悪いねー。意気込みは分かるけれど面接希望者が廊下で20人ほど待っているので手短にお願いできるかな。できたら3秒くらいで」といってプレゼンを遮っただろう。だが、時はまさに売り手市場。扉の向こうに面接者はいない。プレゼン君のプレゼンを拝聴する以外に我々には選択肢はなかった。

掛け値なしで素晴らしいプレゼンだった。大昔に蒸発した仕事に対する情熱とやらを取り戻せそうな気がした。彼は冒頭で5分ほどかけて「当社にどれだけ惚れ込んでいるのか」についてたっぷりと話したあとで「当社でやりたいこと」を熱く語りだした。培ってきた経験を活かして私なら御社の仕事のありかたをブラッシュアップできます。新たに事業を立ち上げて軌道に乗せた経験のある私なら新規事業をゼロから立ち上げられます。もちろんグローバルにビジネスをしてきた私なら残念ながら関東一円の猫の額ほどの狭いエリアで展開している既存事業を全国展開させられます。

私なら。私なら。私なら。売り手市場の勢いにまかせた《私ならラッシュ》に僕と人事担当はノックアウト寸前になった。大言壮語ではなかった。極めて客観的にウチの会社が抱えている問題をとらえ、それに対する現実的な解決策を打ち出した内容であった。彼の「私は風を起こします」というキメ台詞を喰らったときはマジで失神するかと…。

プレゼン君のプレゼンは裏を返せば「現在会社で働いているあなたたちは、私と比較すると能力的に問題を抱えているうえ、無駄に積み重ねてきたクソのような経験で身動きがとれなくなっている。それゆえ私のような高性能かつ柔軟な発想をもった人間と同じレベルで仕事ができない」と言っているようなものである。もし今現在2023年が買い手市場であったなら強気に「現在働いている私たちにはキミほどの能力がないとでもいうのかね?」と指摘するところであったが、現実の2023年は新卒の給与アゲアゲの売り手市場。とても言える状況ではなかった。

正直にいってプレゼン君はどこに出しても恥ずかしくないほど全方位的な好青年であり同時に有能なビジネスマンであった。彼の実績と能力はぜひ当社の一員として働いてもらいたい、とつい口にしてしまうほどであった。面接の終わりに僕は思わず感謝の言葉を口にしていた。「そこまで真剣に当社のことを考えてくれてありがとう」と。一緒に働きたいと心の底から思ったのだ。翌日、プレゼン君に内定の連絡を入れた。電話の先で彼は「本当ですか。信じられない。応募して本当に良かったです」とシャイな感じで謝意を伝えてきた。そして彼の希望する待遇に経験と実績を加味して上乗せした条件を提示すると「そんなに!本当にありがとうございます。会社から、皆さんからの期待に応じられるように頑張ります」と喜びをこらえきれない!というような口調で述べた。嘘みたいだろ。その数日後に「辞退します。他社に決めました」と棒読みで彼は辞退してきたんだぜ…。きっつー。

第参話 せめて、求職者らしく

プレゼン君ショックの傷が癒えないうちに次の応募者があらわれ、面接をすることになった。営業職希望の男性。30代。期待しすぎると裏切られたときのダメージが大きいことを学んだ僕と人事担当は、粛々と面接をすすめることにした。最初に簡単な挨拶と自己紹介をしたあと、人事担当が「では最初にお名前をお願いします」とうながした直後、事件が起こった。

30代男性は「氏名は履歴書に記載されているはずです。記載されていることをあらためて言わせるのですか。緊張感のなかで分かっていることをあえて言わせる行為、これは圧迫面接に該当しませんか。問題になりませんか?」と言ったのである。

想定外の事態に人事担当が「いちおう確認の意味で、ですね」「確かに書いてあるけれども」と動揺している傍らで、僕は「めんどくせー奴が来たぞー」とネガティブな気持ちの高まりを感じることはなかった。ただ虚無的な気持ちになり、面接スペースの窓から見える青空を眺めながら、夕飯に何を食べようか、考え始めた。それでも僕らは大人なので、大人らしく、大人しく、粛々と面接をすすめたのである。30代男性はときどき、書いてあるとおりですけど、というフレーズを挟みながらも既定の質問に対応した。僕らも彼の「書いてあるとおりですけど」のたびにイラッとしながらもイラつきを表に出さずに冷静に対応した。話は弾まず、既定の質問以外の質問をする気持ちはなかった。

最後に、既定どおりに「ご質問はありますか」とたずねた。30代男性は「採用通知はいつ、どのように来ますか」と言った。通知ではなく採用通知。採用される可能性が高い。つまり勝算があると見積もっていなければ、出てこない言葉であった。「名前をどーぞ」「はいそれ、圧迫面接です!」の流れでどう採用しろと?きっつー。僕は、不採用通知と言いたいところをぐっとこらえて「通知は三日以内にいたします」と言った。三日も待たせることなく、翌朝、不採用の連絡を入れた。

最終話 お礼、心の向こうに

立て続けに地獄面接を経験してきて、売り手市場において己が優位にあると勘違いして強気に面接に臨んでくる人間が一定数いることがよくわかった。この仕打ちの恨みは買い手市場になったときに晴らすしかない。圧迫面接で潰してやる!という暗黒面に落ちてしまう寸前の僕を救ってくれたのは、辞退したプレゼン君からのお礼メールであった。彼は内定辞退の謝罪とその理由を教えてくれた。詳しいことは明かせないけれども、「待遇が良かったということもありますが、御社が素晴らしすぎて私の能力が入る余地がないように見えてしまいました。御社より劣悪な環境の他社を選んだのは、待遇が良かったということもありますが、自分の能力をより発揮できると考えたからです。このたびはありがとうございました」という内容であった。

お世辞でも嬉しかった。売り手市場を憎む気持ちは萎んだ。ダークサイドに堕ちないで済んだ。救われた。売り手/買い手市場は要因のひとつにすぎないのだ。結局のところ人間性や性格といった個人の資質が、面接というイベントの持つ重大性や緊張感を加えられて、ワンダーな行動として現れるということなのだ。今、僕は面接におけるドタキャンや意味不明な言動に感謝している。採用/不採用の判断に要する時間と手間を省けるからね。(所要時間70分)