Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

「小泉大臣の発言が決定打になってお米の値段を上げられなくなった」と米業者は言った。

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週末、米を納めてもらっている業者の担当者さんに30分ほど一方的に愚痴られた。愚痴の内容は、「小泉大臣やどの政党の政治家は、米の価格を下げると言っているけど、生産コストが上がっているのに、前と同じレベルまで下げられるはずがない。利益を削れというのか。わかっていない」というもの。この業者担当者さんも生産者、卸売り経由で米を仕入れている立場なので、利益を減らすしかやりようがないと言うのである。

当該業者からは業務用米(ブレンド米)を買っている。当該業者も卸から米を買っている。その時点で油や肥料やその他諸々のコストがかかって仕入れ価格が上がっており、さらに精米やブレンドといった工程が入るため、値上げするしかないという状況だそうだ。

今回の米騒動は、見方をかえれば、米の価格ベースを上げるいい機会になったかもしれない。もちろん価格の急激な上昇は影響が大きいけれども、ゆるやかに価格が上がっていくのは自然の流れだ。あらゆるコストが上がっているのだから。米にかぎらず、野菜や卵、養鶏などの生産者の人の話を聞く機会がこれまであって、どの生産者の人たちも異口同音に「価格はあげられない」と口にしていた。食材については「この食材はこの値段であるべし」的な市場の認識みたいなものがあり、それに反することはできないという一種の同調圧力があるのだ。

たとえばお米なら、これまで比較的安価に安定的に買えたのは、生産者をはじめとしたお米に関わる人たちが同調圧力によって身を削るように無理をして価格を抑えていただけだ。鶏卵や野菜も同じ。直接生産者を知らない漁業や畜産業も話を聞くかぎりでは同じようなものだろう。こういうおかしな社会の状況を変えるには大きな事件が必要だ。今回の米騒動はまさにそれになるはずだった。コスト転嫁や利益の確保が出来るようになる良い機会になるはずだった。

ところが最悪なタイミングで選挙(参院選)になった。どの政党の政治家もお米を安価に買えるようにするという話をしている。業者の担当者は、安価な備蓄米が市場に出てきて、「やっぱり米は安く買える/買えなければいけない」という消費者マインドが出来てしまったのが痛恨の極みだと嘆いていた。さらに小泉大臣が毎日のように政府備蓄米の市場への投入で米の値段は下がると連呼したのが決定打で、もうこれでお米の価格を正常にする流れは消えてしまったと。そう愚痴られたのである。

結局のところ、お米をはじめとした食材は安価で手に入るのが当たり前という認識があるかぎり、その価格を維持するための補助がなければ、関わっている人たちは報われないということになる。参院選が終わってしばらくすれば新米が世の中に出てくる。その価格はどうなるのだろうか、どの程度の価格なら市場や消費者に受け入れられるか、注目したいところである。なお、担当者は「世の中は変化を嫌います。安い米にしないと受け入れられませんよ。小泉大臣が米は安いというイメージを作ってしまったから。でも変化は避けられませんよ……」といって諦めていた。僕は前から担当者に新商品開発や販路開発を勧めていたけれども、「いや、無理っす。ウチは米屋なんで」と拒否されてきた。変化を避けているのはお前も一緒だよと言いたかった。

愚痴りまくった業者の担当者は「というわけで苦しいです」といって更に値上げになった見積を提示してきた。想定よりも高かった。しかし受け入れるしかなかった。事業で使う規模の量のお米を新たに確保できていないからだ。このように多少高くても業務米を買う他に選択肢を持たない給食会社があるから、彼らは変化をせずに経営が成り立っているのである。いちばんの被害者は、「委託契約で価格が決められている」&「米業者から高い米を仕入れなければいけない」、クライアントと納品業者の二方向から圧力をかけられているウチのような業者(給食会社)だろう。大手給食会社のように政府備蓄米も買えないしね。きっつー。

食材高騰を受けてクライアントとの価格交渉(値上げ)をしてきて、ようやくそれが実って安定した収益になってきている。しかし、まだまだ食材の値上げ傾向は続いており、今年価格改訂をしたクライアントからは「しばらく上げないからね」とけん制されており、来年の価格改定は苦戦というか絶望的であるため、これから本当の地獄が待っている。そんな事情を教えて「ウチがつぶれたらオタクも困るでしょう。次は値下げしてよ」と担当者に言ったら「そんな愚痴は聞きたくないですね。なんとか頑張ってください」と返された。これまでは受け入れてきたけれども、次回の値上げは一回拒否してみようと決めた次第である(所要時間25分)

「墓じまい」に失敗しそうです。

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もともと墓じまいをするつもりだった。時期は会社を定年退職をして毎日サンデー状態になり暇を持て余してから、とぼんやり考えていた。しかし予定を早めたいと考えている。母親の僕への態度がその原因だ。

先週、母親から「体調はどうですか?」というメールが届いた。僕の体調を気づかうメールをよこして誘い出し、3万くれーつって金の無心をするのが母の手である。もうダマされない。僕にも学習機能は搭載されている。僕は「特に問題はない」と返信して放置した。通常であればジャパンマネーの獲得という目的のために僕が誘いに乗るまで母は執拗にメールを飛ばしてくるのだが、今回は、まったく反応がなかった。一週間経過。酷暑が続いている。自宅で倒れているのではないか。腐乱しているかもしれない。心配になった。心配したのは母の状態ではなく、近くに住んでいるのに母をゾンビにした無慈悲な長男と責められる我が身、世間体であった。母さん、無事でいてくれ。僕の世間体と評判のために。車で向かう途中、母との思い出が走馬灯のように出てくることはなかった。

で、自宅。で、母は元気。「無反応でいれば、心配してやって来るんじゃないかと思ったの。作戦勝ちね」などとふざけたことを言う。そして、いつもどおりの「仕事で材料が必要なので、お金を貸して」の一言であった。母は悪知恵が働く。こうなることを想定しておくべきだった。「人格と性格の歪み具合が子供(長男)と親子でそっくり」とは親族内の評価である。子供の顔を見てみたいものだ。父が40代で亡くなったので母は苦労している。母が僕にしてくれた恩義は最低限返したいと思う。母を父が眠る墓に入れてあげたい、それが僕が墓を維持する唯一の理由であったけれど、そんな気持ちは吹っ飛んでしまった。管理費というコスト。掃除や墓参りという手間。もういい。母の目の前で墓をぶっ壊そう。もともと墓はいらない派であったので、予定を早めるだけの話だ。

僕には子供や子孫がいない。僕が墓に入れば管理が行き届かなくなる。放置された墓が、湘南エリアに生息する台湾リスやアライグマといった外来動物の糞まみれになったり、同じく湘南エリアを徘徊する残価クレジットでレクサスを買ったマイルドヤンキーにペンキで落書きされたりする未来が見える。墓なんて残された家族の気持ちの持って行き先なのだから、子供がいない僕には不要なものなのだ。亡くなった後の自分がどう扱われようとかまわないし、思い出してもらいたいと思わない。管理できないものは整理しておきたいので、割と早くから墓じまいは決めていた。いつやるかという問題だったけれども、まぁ最近の母親の態度を見ていると、そして母を墓に入れる際にさらにかかかるコストや手間を考えると今のうちにやっておきたいと考えたのだ。

なお、ウチの奥様は強硬な墓維持派である。今回の話をしたら「キミの中学生みたいな破滅願望と刹那的人生観は聞き飽きました。キミが亡くなったら希望通り、鳥葬か風葬、あるいはその辺の河川に散布するからね。でも私は嫌。少なくとも没後20年は毎日綺麗なお花に飾られたお墓で眠っていたい。今と同じようにキミとは別室で」などと言う。このように墓じまいをやろうとしているが頓挫しそうである。あと、弟を忘れていた。3年会っていないから存在自体を忘れていたよ。皆さんはお墓、どうしますか?(所要時間18分)

もしかして「負の遺産」って氷河期世代のことですか?

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参議院選挙が近い。どの政治団体の政治家も多少の差異はあっても「次の世代に負の遺産を残さない」的なことを仰っている。僕はそれを聞くたびに「僕ら(就職)氷河期世代のことを指しているよね」と思う。被害妄想が強すぎるのか、あるいは、意識過剰かもしれない。しかし、ここ最近、これまで見捨てられてきた氷河期世代を手のひらクルクルーで、氷河期世代支援の重要性が唱えられており、それは言いかえれば、氷河期世代が社会のお荷物というか、負債であることの裏返しだ。それがやたら目立ち、かつ、わざとらしいからムカつくのだ。

僕は氷河期世代だ。バブル期の恩恵を受けることはなく、バブルの残光すら浴びることはなかった。いざ社会に出るときは、就職状況は「風雲たけし城」や「SASUKE」のトラップ級の厳しさ。100社エントリーシートを手書き(!)して、最終選考まで進めたのは数社。無理ゲーだった。同じ世代は、やむをえず、しかたなく、定職に就けず、生活のためにフリーターや派遣社員になったりした。

そのまま時が流れて、今さら人気取りのためか、国はやってます感アピールか知らんけれど、氷河期世代支援をはじめている。あわよくば人が足りない分野のきっつーな仕事に送り込もうとしている。不景気で働き手は余っている、雇用する余裕はないという理屈で放り出したのに、働き手が足りなくなったら、氷河期世代で穴埋めすればいい、彼は人数だけは多いからね!社会保険を圧迫させる世代を働かせれば一石二鳥!なんて素晴らしい発想なのだろうか。馬鹿!実際のところ40代後半から50代になってからわざわざ新しい挑戦をする奴はいない。これまでいいようにやられてきてなぜ国を助けなければならんのだ、と考えるのが普通だろう。

それにこの世代は中高年で心身ともにボロボロなのだ。僕も、中間管理職として残業代もつかずにヒーヒー働かされている。下の世代からは管理職は罰ゲームとやれといわれてもやりたくない、と言われ、新人たちはポンポンと昇給する。僕が10年ぐらいかけて辿り着いた給与額に今の新卒は3年で到達している。たまったものではない。それでも僕は氷河期世代のなかではうまくやってきた方だと自負している。生まれた世代は運がなかったけれど、なんとかしがみついた環境で頑張って、努力クレーンで自分を持ち上げれば、自分だけのバブルを味わえるのでは、そう期待して30年頑張ってきたけれど、ダメでした。ストレスで体はボロボロになり、肉のクレーンは下を向いたままだ。

振り返れば、いろいろなものを諦めてきた。毎晩夜遊びしてタクチケを使いまくりたかった。世襲政治家になって悪いことをして隠蔽のためにドリルでパソコンを破壊してみたかった。ディスコ「トゥ-リア」で照明が落ちてくるまでお立ち台で激しいダンスをしたかった。氷河期世代は、そんな夢を全部諦めて、たどり着いた現在地が「負の遺産」呼ばわりである。きっつー。「自己責任」という言葉がもてはやされたのもあの頃だ。自力ではどうにもならない状況に対しても責任を問われた。「派遣社員は自分で選んだ道だろう」「誰も強制していない。決めたのはあなただ」と。強制はされていないが、そもそも選択肢がなかった。それを自己責任という言葉で押し込められたという感覚が僕にはある。で、今になって世の中のお荷物扱いされている。しまいには「次の世代に残したくない負の遺産」扱いだ。

「過ぎたことをいつまでも愚痴ってて氷河期世代めんどくせえなぁ」というご意見もあるかもしれない。しかし、僕が子供の頃から政治家は「次の世代に負の遺産を残さないため」みたいなことを言っている。なぜか。簡単だ。言っている時点では答え合わせができないからだ。で、次の選挙のときには新しい次の世代があらわれ「次の世代に負債を…」となるのだ。つまりその時々で答えが出ないことを言ってるだけ。だから今の選挙演説でも皆言っているのだ。次の世代云々は、答え合わせができず、何か良いこと言っている感がする使い勝手のいいフレーズなのだ。そうやってきた答え合わせをせずにやってきた結果が今の少子高齢化や人手不足であり、氷河期世代の放置だ。僕ら氷河期世代が次の世代と言われた時代もあったはずだけどこの有様なのだよ。

つか「国民の生活が大事」とか「国民の給与を増やす」と言っている政治家の皆さんはバカなのではないかと思う。そんなの当たり前すぎるだろう。ムカつくからそろそろ氷河期世代絶対保護をかかげた政治団体「氷河の党(仮)」が出てきてもいいはずだ。支持層は厚く、不満はマグマのように熱いぜ。(所要時間27分)

僕が見ちゃった未来

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「私が見た未来」というベストセラー本によると、2025年7月5日に日本で何かが起こるらしい。そのため、感受性の高い人があたふたしたり、日本への観光客が減っていたりして、影響が出ている。予言の夏、緊張の夏である。これまでいくつかの予言を生き抜いた僕からは「注意力が散漫になっているので交通事故に気をつけましょう」くらいしか言えない。予言や予言を信じる人をバカにしてはいない。なぜなら、僕は予言を信じ、予言で人生を軌道修正してここまでやってきた人間だからだ。

1991年の7月、高校3年生の僕はノストラダムスの大予言を信じるボンクラだった。ノストラダムスの大予言は1999年8月に恐怖の大王が空から落ちてきて人類が滅亡するという物騒な内容で、当時の米ソ冷戦世界情勢から核戦争を意味しているとか、未知の天体が地球に激突するとか言われていた。僕が通っていたのは大学進学率を信奉する地方の公立進学校だった。6月に部活を引退し、やることかなくなると学年全体が受験モードになると、劣等生の僕は居場所がなくなり息苦しかった。成績も学年ワーストレベルで、大学入試の絶望的な競争率もあり、わずかにあった学習意欲もすっかり去勢されていた。

 

何もかもがイヤになった僕は、恐怖の大王が降ってくるというノストラダムスの大予言にすがったのだ。「今、勉強しても8年後1999年の夏に全ては無になるんだー!ザマアミロー!」と怠けることを正当化したのである。バカであった。《1999年に25歳で何もかもが終わる》覚悟を決めてしまうと不思議なもので、生産的な事は何もしたくなくなった。ノストラダムスの予言を自分なりに解釈してみた。なぜなら、地球が真っ二つになる規模の天体がまだ発見されていないのはおかしいし、ワシントンとモスクワがどれだけバカでも人類を滅亡させるハルマゲドンを起こすほどバカではないと思ったからだ。ちょうどその頃、ホーキング博士の本を読んでいた(モテそうだから)。そこには宇宙が膨張するとか縮小するとか書かれていて、僕には何のことかサッパリわからなかったけれども、予言にある恐怖の大王とは宇宙の膨張縮小関係に地球が巻き込まれる事象に違いないと結論付けた。

 

授業が終わった蒸し暑い教室から、コカコーラ(缶)を飲みつつ、女子軟式テニス部や女子体操部や陸上部(女子)や水泳部の練習を眺めながら、受験雑誌「蛍雪時代」に偽装した「ボム」や「投稿写真」を読みふけるダメな夏を送っていた。ファイナルファンタジー4を買えなかった絶望が僕の末法思想に拍車をかけていた。夜は勉強もせずに「満月テレビ」「トゥナイト」「オールナイトフジ」といった大人のテレビ番組を見てこれからの人生が加速していく様子を想像した(のちに伝説になる「ギルガメッシュナイト」はまだ放送されていなかった)。レッド・ホット・チリ・ペッパーズやプライマル・スクリームのロックンロールが勉強より大事なものがあると僕に教えてくれていた。

僕が立ち直れたのは、いくつかのプチ奇跡がごく短期間のうちに打ち上げ花火のようにぱばーんと連続して起きたからだ。話をしたことのないセクシーな女学生からグダグダしている姿を見られて「君、そのままじゃダメになっちゃうよ」と言われたこと。その前後に深夜番組で東京の大学に通う大学生が伊豆地方の南の島で楽しくいかがわしいことをやっていると言うレポートを見たこと。

そして、その直後に、ノストラダムス、セクシー女子学生、南の島の楽しさ、それらが一体となり僕の夢に現れた。夢のなかで少し大人になった僕はボロボロの服を着ていた。僕は全力で走っていた。走る勢いでボロボロの服は落ちていきパンツ一丁になっていた。僕の走るその先には、ビキニ水着を着た女性のグループがいた。僕は息をぜいぜいと吐きながら全力で追いかけたが、ビキニーズとの距離は離れていくばかりだった。夢の最後、パンツ姿の僕は警察に捕まり中島みゆきの『時代』が流れるなかで「なんで女の子を追いかけたんだ」と問い詰められるところで夢は終わった。妙にリアリティーのある夢だった。僕はそっちの未来に行ってはいけないと強く思った。東京の大学生になって南の島でハレンチなパーティーに参加する。そちらへ自分の未来を持っていくととかたく南の夜空へ誓った。

地獄の猛勉強で奇跡的に東京の大学に進学することができた。しかし現実は厳しかった。結局、僕は大学に進学したけれどもプライベートの問題で南の島へ行くことは叶わず、バブルは崩壊して日本は坂道を転がり始め氷河期に突入し、大学を卒業した僕はクソみたいな就職戦線をどうにか生き抜いて就職し、1999年の夏は、営業マンとしてのノルマに追われていて「こんな世界終わってしまえ!」と空からの魔王を切望したものの、何も起こらず現在に至る。それでもあのタイミングで自分の未来を見なかったら、どんな人生を送っていただろうか、と振り返るときがある。結局のところ予言とか予知とかは、当たる当たらないではなく、それに際して自分がどう生きるか、どんな選択をするのか考えるきっかけでしかない。僕はそう考えているし、これから死ぬまでいくつかの予言に際してもそう考えるだろう。(所要時間26分)

 

文科省の「就職氷河期世代」教員採用がダメなのは「今さら何言ってんだ感」に加えて「支援になっていない」から。

こんな記事があった。求む、バブル崩壊で教員を断念した40~50歳代…文科省が「就職氷河期世代」の積極採用通知へ(読売新聞オンライン) - Yahoo!ニュース読んでもらえばわかるが、今さら何言ってんだ感がひどい。最近、就職氷河期世代支援が話題になることが多いのは、40代から50代になった氷河期世代が、社会が背負えないレベルの重荷になることが判明したからだ。公による支援策の多くは就業支援だ。はっきりいって手遅れ。15年遅い。僕は「体力と気力の衰え著しいアラフィフをブラック環境の職場に放り込むつもりなのか、雑に使うなー」と冷ややかに見ている。冷ややかなのは、本気でやっているようには見えなかったからだ。「氷河期世代見捨ててません!」というポーズに見えたからだ。それに、政治や行政は手を打っている、それに乗るかどうかはあなた次第!といういつもの自己責任に持ち込むやり方には耐性が出来てしまった。

今回の文科省の施策、これが酷い。今更感だけではなくこれまでとはガチ感が違うからだ。以前から懸念されていた人材の穴を明らかにしたうえで、これまで見捨ててきた氷河期世代で埋めればちょうどいい、氷河期世代もあの頃叶えられなかった夢を叶えられてサイコーじゃないか、ウインウイン!という意志と目的が感じられる。それがまた大真面目で上から目線なのがヤバい。ポーズならスルーできるが、間違った方向のガチはやめてくれ。きっつー。

僕は、1974年2月生まれの団塊ジュニア世代で、氷河期世代前半に新卒採用され社会に出た。運よく職に就けて、今は中小企業の管理職として働いている。そういう人間なので「30年弱の間、いちども浮上するきっかけがなかったー」と主張する人に対しては、「他に問題があるのではないか」と疑っている。そんな僕が振り返っても、就職活動をしていた頃は、努力が報われない、思い通りにならない時代だった。僕自身、希望する職には就けなかった(書類選考で全滅)。教員志望のほとんどが枠の少なさに絶望して諦めていた。景気が悪くなれば民間が採用枠を減らすのは仕方がない。当時は悪魔の所業のように見えたものだが、長年民間企業で働き採用する側になって仕方のなさがよくわかった。

だが、景気に左右されない(されにくい)公までがあの頃民間と同様に採用枠を減らしたのはどうなのだろう。教員採用がある程度の枠を維持していたら…と考えずにはいられない。氷河期世代が問題になることは予想されていたが、何も手を打たずに、どうしようもなくなって、ようやくヘビーな腰を上げて対策をはじめたのが今の状況だ。僕自身はサバイブできたからいいが、同じ世代の仲間が、高齢になり、他の世代より所得が低く、少子化の原因とされ、健康状態も悪く、財政を圧迫しかねない、社会のお荷物扱いされるのは我慢ならない。

で、今さら氷河期世代支援。そのすべてが今さら感が強い。加えて文部省の施策は、構造的な欠陥というか国の無策の結果を、被害を受けた当事者たる氷河期世代でカバーしようとしていて、それを「あの頃あきらめた教員という夢をかなえてみませんか」的なスタンスでやっているのがヤバい。世代のことを全然わかっていない。僕が他の世代だったら「ナイスアイデア!」「効率的!」と賛成したかもしれないが、当時者なので「ふざけてるの?」と言いたくなる。あまりにも人を軽んじている。氷河期世代で沈んだままの人だけではなく、同世代の人間全体を軽く見ている。氷河期世代が就職しようとしていた時代、不景気で採用枠がなく努力は報われなかった。だが、生きていくためには働かなければならなかった。夢や目標を諦めなければならなかった人も多かった。

それでも氷河期世代は「タイミングが悪かったよねー」と自嘲しながらしぶとく二十数年間生きてきた。その間、救済らしい救済はなかった。それが今になって氷河期世代がお荷物になるのが目前に迫ってから、手遅れの支援、それも人材不足の現場仕事へ向かわせようとしているのだからバカにしている。地獄を見た人間をさらに地獄へ行かせるのか。文部省の施策にいたっては、かつての夢をかなえませんか的な上から目線である。なんで何もしてくれなかった国を助けなきゃいけないの?バカなの?記憶力ゼロなの?人の人生で遊ぶなとしか言いようがない。もっともムカつくのは、ここ二十数年間の時間とそれに付随する努力と経験を軽んじているよね。夢だけでなく、積み重ねてきたものを捨てさせて「あきらめた教員の夢をかないましょう!」なんて、本気でそれが氷河期世代支援になっていると思っているのだろうか。大丈夫?

まあ感情論は抜きにして、相応の年齢で経験を重ねてきた、裏切られてひねくれまくっている氷河期世代を採用するのなら相応の待遇を約束してくれるのだと信じている。まさか、有期契約なんてことはないでしょうが、同じ世代の教員より低い待遇もありえない。欲しいのは夢を叶えようみたいな綺麗事ではなく、相応の待遇と保証だ。そうでなければ20年働いてきたキャリアや実績を投げ捨てられない。ただでさえ、氷河期世代は見捨てられてきたのだから、困っている国を助ける義理がない。それもキャリアという犠牲を払ってまで。全然わかっていないよね。

僕には教職員になる願望も、教員免許も無いけれども、もし僕が文部省の施策に乗って教職員になるのなら今の1.5倍から2倍の給与、現在管理職なのでそれに相当する校長か最低でも教頭のポジション、年下の管理職を付けないという条件でなければやらない。人の人生で遊んでいるのだから、これくらいのコストは安いものだ。人間を都合よく使うためには、相応の対価を支払わなければならない。僕が20年間必死に働いてきて学んだことのひとつだ。自分たちの失策でつくった穴を僕ら氷河期世代で埋めないでくれ。ゴミじゃないんだから。(所要時間38分)