僕は50代の中間管理職だ。気力体力の急激な衰えを感じている。毎日しんどい。勤務先が給食会社という労働集約型事業かつ若者からの人気のない中小企業であるため、人材不足が続いていて、ときどき現場の穴を埋めるために出撃している。不思議なのは、中高年になれば肉体と精神が衰えはじめるにも関わらず、多くの人が若い頃と同じように働き続けていることだ。どうすれば定年65歳まで働き続けられるのだろう…と苦悩しながら、毎日元気な同僚を観察したところ、ひとつの要因に辿りついた。それは子供の存在。
僕には子供がいない。それで引け目を感じたことはない。なぜなら子供がいてもいなくても人間は平等だからだ。ところが、子供がいると子供手当というお金がもらえる。平等なのにおかしい。二酸化炭素排出量と新設保育所を抑制し、環境に貢献している子なし世帯にも「子供いない手当」を支給するべきではないかと思うが、あえて言わない。若者や子供を育てるために税金を投じること、すなわちそれは僕の老後や年金受給に投資することと同義だからである。
しかし、人は平等だよ、と声高に叫んだところで、世の中のノイズキャンセリング機能がその叫びをかき消してしまう。そして気がつくと、かき消された叫びがあった空間を、「子供がいる人間を大切にするべき」という意見が埋めている。しかも、あえて主張せず、こちらが行間を読むように仕向けるのである。なんて嫌らしい。どーんと来いと言いたい。たとえば、現場のシフトに穴があいてしまったとき、当該現場の担当社員は、ニタニタと薄気味悪い笑みを浮かべ「明日は子供の学校で運動会があります」とか「明日は子供のバレエの発表会があります」などと仕事と無関係な発言をするばかりなのだ。「徒競走でビリになるのも、不格好な踊りを披露するのも君のチャイルドであり君ではない」「君が行ったところで一着でゴールしたり、プリマになれるわけではない」というシニカルな正論が頭に渦巻く。しかしながら、目の前にいる人物はニヤニヤと余裕のある笑みを浮かべ、あなたには子供がいませんよね、とじっとりと目で訴えてくる。汚れて濁ったガラス戸の向こうから感情のないワニのような目で見つめている。嫌らしいやつだ!卑怯者には負けられないと視線を返すが、子供運動会、子供バレエ、子供ピアノ発表会、子役タレント活動という子供を大事にしようという世の中のうねりが生み出した圧力に屈して目を逸らしてしまうのである。そして「ヘルプは私が行くよ…子育ては大変だね」と心にもないことを口にしている。僕が自発的にヘルプを買って出たことになっているのである。
だがおかしいのだ。子供を育てるのは大変であるはず。日々、子育ての苦しみでやせ細り、顔色が悪くなっていくはずなのだ。しかし、なんだか楽しそうなのだ。「参りましたよー」と嘆きつつも明るいのだ。元気なのだ。子供のためという概念が大きいのだろう。それがモチベーションとなっているからクソつまらない労働ができるし、上司に対してワニのような目で見つめるなんて非道が出来るのである。
僕には子供のためというモチベーションがない。クソつまらない仕事はただクソつまらないウンコ仕事であり、上司をワニのような目で見つめるような非道をする覚悟も持てない。子供の成長の一コマ一コマを喜ぶこともなく、子供の入学式卒業式授業参観への出席もなく、息子の嫁をいやらしい目で見つめる未来もなく、孫が生まれる可能性もゼロである。そんなつらい寂しい人生を送っているのに、影で「子供がいないから楽ですよね」とせせら笑っている若い世代に気をつかって「僕がやるから休みなさいよ」と進んで買って出る人生にこの先、何があるというのだろうか。(所要時間19分)人生と働き方についてのエッセイ本を前に出しました。→ ぼくは会社員という生き方に絶望はしていない。ただ、今の職場にずっと……と考えると胃に穴があきそうになる。