Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

「配属ガチャ」は優しさでできている。

「配属先が希望と違う」と「配属ガチャ」を訴えて、入社即退職する新人の話題がこの季節の風物詩になった。「やってみないとわからないよねー」みたいなクソにも薬にもならない世の中の反応までがワンセット。僕は「配属ガチャ退職、別によくね? 」派。ガチャとは「自分の力が及ばない運で決められてしまう」ことだ。ガチャ自体はそれほど悪いものではない。なぜなら長い人生において全てを自分の責任にしていたらもたないからだ。すべてを自責にするのはよほどのマゾだろう。普通無理。誰かに責任転嫁できるならそれがいい。そこでガチャの出番となる。「ガチャで決められてしまったよ」といえばガチャのせいにできる。「ガチャはひどい」「ガチャありえない」というふうに否定的に語られているけれども、人生なんてガチャの連続である。僕らは皆、多くのガチャを通過してきている。ガチャの結果を、そのときの自分の置かれた立場や状況をかんがみて、受け入れるかどうかの違いに過ぎない。経験の少ない新人には立場や守らなければならないものもないので「配属ガチャ外れた〜ないわ〜」と嘆いてあっさり退職するのも仕方ないことなのだ。

僕は新卒採用のとき、会社の総務法務部門に配属された。希望通りだった。配属ガチャで当たりを引いたのだ。しかし、何ヶ月かその部署で働いているうちに「これは自分には合わない仕事だ」と考えるようになった。ガチャで当たりを引いたのに分からないものだ。そこへ営業部門への異動の話が来た。営業だけは嫌だった。「異動ガチャでハズレを引いた」とキャバクラで嘆いたものである。ところがどうでしょう。28年経った現在も営業職として働いている。なお、営業の仕事が楽しいと思ったことはない。何が言いたいのかというと、ガチャの当たり外れはとらえ方次第ということだ。

生きていると様々なガチャに遭遇する。配属ガチャ、異動ガチャ、上司ガチャ、座席ガチャ、プロジェクトガチャ、昇進ガチャ。ガチャは運次第で、自分の力では何ともできないが、どのガチャを選ぶかはある程度コントロールできる。ガチャガチャコーナーでどのガチャを回すかは自分で選ぶだろう?それと同じだ。極論を言ってしまえば配属ガチャがいやなら配属ガチャを回さずにすむようにすればいい。例えば自ら起業すれば配属ガチャを回さなくていい。配属ガチャのかわりに融資先ガチャ、販促ガチャといった別のガチャを回すだけのことだ。

ここまでガチャは運で決まることを前提に話を進めてきた。だが、すべてのガチャは本当に運で決まっているのだろうか。僕はそうは思わない。ほぼ全てのガチャは回す前に結果が出ている。たとえば意識と能力の高い学生たちが、新卒採用された全員が希望する配属先に配属されるとは思っていないはずだ。それでも自分は大丈夫だと思うのは、自分の力量なら希望するポジションを勝ち取れると信じているからだ。一方でポジションには定員があって配属される人数は限られている。人気のある企画系や広告系に希望は殺到する。より優秀で適性や能力のある人が選ばれる。漏れた人は営業部のような不人気な部署へ配属される。つまり運悪く配属ガチャで外れたのではなく、客観的な選考を経て能力や適性で自分より優秀と評価された人が選ばれたにすぎない。運ではなく実力で破れたのだ。ガチガチの配属ガチャもあるだろう。だが配属ガチャの多くは、実力の無さをガチャ運の無さに変換して自尊心を守る自分自身への優しさなのだ。「運が悪かった…」と思い込むことでダメージを最小限におさえて次に進むために「配属ガチャ」は必要なのである。すべてをガチャのせいにして今日を生き抜こう。

余談だが、結婚もガチャだ。僕は「結婚ガチャで大当たりを引いた」「僕の結婚ガチャは当たりっぽい」「当たりだと思う」「当たりかもしれない」と毎日繰り返し唱えて自分に言い聞かせている。言葉は神だ。希望の言葉を唱えていればやがてそれは真になるのである。(所要時間24分)