Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

そのときは妻によろしく


 妻を呼び捨てたことがない。「シノ!」と言うや否や照れくさい感が充満してきて「シノさん…」あるいは「ノッピー☆…」と言い直す始末。なんか恥ずかしいんだぜ、呼び捨てなんてロックの歌詞みたいなんだぜ、真顔で呼び捨てなんてロックンローラーみたいなんだぜとロックな人のような語尾で言い訳をしながら行きつけの飲み屋でひとり、生ビール中ジョッキ、冷酒、焼酎、ウイスキー、醤油などをがぶがぶ飲んでいるといつしか尿意常時。席が暖まる間もなく便所便所便所。インポテンツで役立たずの竿を握りしめ用を足すたびに、便所の窓から、ネオンに照らされ闇のパープルアイのような二対の淡い光になった男女が、迷いなく、きゅっきゅとターンしてラブホテルに入っていくさまが否応なく視界に入ってきて、そのたびに僕は、いいなぁ、と呟き、唾を吐いた。それから残尿感そのものが形になったものを握り締めてめそめそ小便器の前で泣いた。

 妻の実家に行く約束であった。妻は一足先に向かっている。所用で遅くなるので飯は済ませると連絡した直後に、所用は上司向けの嘘であったと気付き、ああ愛すべきおバカさんっと嘆き、手持ち無沙汰になった身で軽く飲んでいたのだ。連絡の際、受話器の義母から夫婦生活のことを聞かれた。夜のほうは芳しくないと答えた。義母はナニを指しているのかわからないらしく、くぱぁ、と的を得ないサウンドを出したり、コーホーとキン肉マンウォーズマンによく似た呼吸音を出したりする。ははん。義母の胸中を察して、「芳しくないという漢字は柏原芳江のヨシなのですが、柏原郁恵と混乱しますよね。でもお義母さん恥ずかしがることはないですよ、今僕だって榊原と柏原が混乱した状態でお話していますから」とデキル義理息子感に陶酔しつつ言うと、ややあってから、またウォーズマン。コーホー。気まずい。コーホー。コーホー。孝行せねばならぬのに。ナニをやっているんだぼかぁ。重苦しい空気に耐えかねた僕は吐き出すように、シノを呼び捨てられないんです、と告白していた。


 僕のささやかな、それでいて深刻な悩みを聞いた義母はウォーズマンであることをやめ「くぱぁ。ま〜きっかけがあれば呼び捨てで言えるようになるわよ」と笑い、それから、「私がきっかけになれればいいのに〜」と付け加えた。僕はそのとき義母の呂律が回っていないことに気付いた。


 午後九時、しこたま飲んでから妻の実家マンションへ。飲みすぎたかもしれない…後悔しつつ呼び鈴を押す。反応がない…。押す押す押す。反応なし。異常事態を察した僕は身を翻しドアの正面を避けて立ち身を屈め耳をドアに当てる。静かだった。こういうとき鍵が空いているのが火曜サスペンスの展開だ。ドアノブを勢いよく回す。回った。回っちゃった。嫌な予感ほどよく当たる。ドアをゆっくりと開く。エアコンの冷気が僕の頬をなでた。突き当たりのドアから光が漏れていた。ドアの向こうはリビング。僕はズックを脱ぎ、お利口さんに、脱出の際速やかにズックが履けるよう、ズックの向きを入ってきたドアに爪先を向けるよう直した。それから廊下を、前方に両手を突きだし、ゆっくりと進んだ。突きだした手のひらを開いてパーにひらいた方が掴みかかるときにいいかな?グーのほうが殴るときにいいかな?チョキが目潰しに適しているかな?思案しながら前進した。ドアの前についたとき僕の両の手は、オッパイを揉むときに見受けられる、中途半端に指を開き、開いた指をやや曲げるなどした中途半端な姿勢をとっていた。


 ドアの向こうからテレビの音がした。僕は最悪の事態を予想し身を固くした。ドアを開けて室内を見た。天井から目をやったのは惨事を予想していたからかもしれない。明るいシャンデリア。付けっぱなしのテレビ。部屋の真ん中に置かれたテーブル。その上の破魔矢。ソファーセット。壁ぎわに置かれた鎧、矢、眉毛の細い人形。そして…床にそれを見つけた僕はそのまま静かにドアを閉めた。酒は抜けてしまった。それから妻を呼んだ。呼び捨てていた。シノ!シノ!志乃!恥じらいは消えていた。ただ一刻も早く…。僕はマンションのどこかにいる妻を呼び続けた。リビングの中央では義理の母が全裸で、ドアの側に向け足をひらき、陰毛と大事な部分を晒して眠っていた。以来、夢に出てきそうで、眠るのが怖い。


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