Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

男の子だけど電車内で化粧を注意されたことあるよ。

少々特殊なケースかもしれないが電車内での化粧を注意されたことがある。十数年前のごく一時期だが、僕はイメージなクラブに入り浸っていた。場末の店の割には清潔で、オフィス、ファミレスなど様々なシチュエーションを選べるところが好きだった。お気に入りのシチュエーションは電車、お気に入りのコースはマゾマゾ君コース。マゾマゾ君コースも細分化されていて、小便のあとに大便が来るような自然の流れで車掌に扮したギャルが女装した僕に意地悪をするという倒錯した設定に行き着いていた。当時デビッドボウイや沢田研二にはまっていたのが影響したのかもしれない。粗末なワンレンカツラを被り、上はワイシャツのままズボンの上からペラペラなスカートを着用した僕のところに、今なら集中放火の的になりかねないナチ風の制帽を被ったサド車掌ギャルが襲いかかる。「車両内で化粧するなんて常識のない豚め!」とサド車掌ギャルに尻をさわさわされながら囁かれたとき去来した想いを僕は今でもはっきりと再生出来る。「なぜ料金を払っているのに、誰にも危害を加えているわけでもないのに、化粧くらいで車掌から注意されなければならないのだろう?」極論をいえばルールは人それぞれで、対話によってその境界を定めていくしかない。個人的には化粧は自宅で済ませてきて欲しいがそれを他人に押し付けようとは思わない。他人が化粧をしようがしまいが興味ないし、それで他人が恥をかいても僕にはどうでもいいからだ。ルールはある程度納得させなければ成立しない。人間は基本的に押し付けられることを嫌う生き物だからだ。押し付けられたという事実だけが大きくなり、そのルールがある程度理にかなったものであっても、反発してしまう。イメージなクラブという特殊な環境下であっても同じだ。化粧すなわち豚扱いを押し付けるなど言語道断、もってのほかなのである。そのような憤りに震えながら吊革にしがみつきブヒブヒ鳴いた屈辱の夜を僕は一生忘れないだろう。もしかするとルールに則った美しい社会など存在しないのかもしれない。でも僕は絶望しない。屈辱にまみれ憤慨に震える一方でその後やることはやってスプラッシュしてしまう人間の強さや逞しさを僕は信じているから。(所要時間11分)

子供がいないことはそんなに特別なことなのだろうか。

僕くらいの年齢(42才)で子供がいないのはそんなに特別なことなのだろうか。お子さんは?と聞かれることは多々あるし、なんだか悪いことをしているような扱いを受けることもある。先日のように、どうしても休日出勤して現場の穴を埋めなければならなくなってさあどうしよ?となったとき、自然の流れで「じゃあ子供がいない人で出られる人!」という理不尽な流れになったこともある。ウチの場合は、いろいろあって(妊活にしくじった/精子に問題あり)、子供を持たないと決めたので周りにどう言われようと構わないが、そういう対応をされて、愉快な気持ちになるはすがない。せいぜい人格者面で「能面みたいな顔をしてるくせにお盛んですなぁ!」と嫌味を言うくらいのものだ。このあいだ、妻が子供のときに遊んでいたぬいぐるみやオモチャを近所の児童福祉施設に寄付してきた。遊んでもらえるところにあげた方がぬいぐるみたちも嬉しいに違いないという妻の発案である。思い入れのあるもの以外はすべて譲ってしまった。僕は自分のおもちゃを提供しなかった。「そのうち価値がでるかもしれない…」という卑しい気持ちが僕にストップをかけたのだ。ぜんぶ、「開運!なんでも鑑定団」のせい。おもちゃを渡したあとの妻の言葉が印象的だった。「誰々の子供じゃなくて、みんながみんなの子供だと思えば世の中は良くなるのに」。そういう考え方は僕はとてもいいと思った。みんな僕らの子供。僕の子供。清らかな気持ちを拡散させようとしてフェイスブックを開いた。そこには以前付き合っていた女性の子育ての様子が流れてきていた。僕の知人とのあいだに出来た1歳の男の子だ。10年ほど昔になるが、僕は彼女から言語に出来ないほどこっぴどい仕打ちを受けて別れた。少なからず傷ついた。その後共通の知人と結ばれ生まれてきたのがその男の子。だが、その男の子も妻の考えによれば、僕の子供なのだ。大きな愛と優しさに包まれて元気に育ってほしい。そして、大人になってママに似た心ない女性から言語に絶するような仕打ちを受ければいいし、僕の子供ならそういう運命をたどると信じている。こんな考え方をする僕のもとにコウノトリが飛んでこなかったのもうなずける。(所要時間10分)

これはテロい。

血族姻族一同から「飛行機に乗らないでくれ」と真顔で言われる。僕の高血圧、高脂血症を心配して言ってくれていると感謝の念をもって受け止めていたのだけれど、どうやら違うようでございまして、彼らは自分たちの静かな暮らしを守りたいだけのようだ。「キチキチホイホイ」「事故体質」これが血族姻族の僕に対する評価である。妻の僕に対する評価はもう少しハリウッドで「事件に巻き込まれてばかりで何もしないジョン・マクレーン」というものに落ち着いている。ジョン・マクレーンはいわずとしれたダイ・ハードの主人公、しょっちゅうテロリストに絡まれている物好きだ。血族姻族一同はトラブルに巻き込まれる体質の僕が飛行機に乗るとハイジャックに遭い社会に迷惑がかかるからやめてくれと言っているのだ。失敬すぎる。僕はジョン・マクレーンではない。反論のために己のジョン・マクレーン度を調べてみた。以下が2013年から現在までの僕に起きた怪奇現象である。

(2013年)《2月.自宅トイレに全裸で閉じ込められる》《3月.話したことのない女性同僚からパワハラで訴えられる》《6月.精液検査でしくじる》《9月.意識高い系の事業説明会で精神が死ぬ》

(2014年)《3月.健診でひっかかりウブい肛門を弄られる》《夏.店長失踪により海の家運営を任される》《9月.僕のせいで同僚が離婚》《12月.妻が自宅トイレに閉じ込められる》《12月.上司が死ぬ》

(2015年)《夏.体調不良で3ヵ月弱静養》《7月.搭乗した新幹線のぞみ号で男が焼身自殺》《8月.暴走自転車を避けて軽傷》《9月.所属する営業部が解体される》《10月.箱職人修行開始》《12月.第一次別居生活》

(2016年)《2月.転職にともなう面接の場でズボンが破れパンモロ》《4月.よく知らないブロガーに絡まれる》《春.転職にしくじる》《5月.信号待ち中にババアの自転車に突っ込まれて愛車のボンネット破損》《8月.部長に昇進、リストラ担当となり全社員の憎しみの対象になる》《8月.泥酔老人の自転車が突っ込んできて左膝全治6週間。リハビリGO》

以上である。うむ、これはテロい。僕のジョン・マクレーンぶりがいかほどか、判断は皆さんにお任せしたい。気になるのは昨年から3回も老人の操縦する自転車の攻撃を受けていたり、新幹線で前代未聞の事故に巻き込まれたり、トイレに閉じ込められるなど乗り物系密室系のトラブルが多いこと。これが《飛行機に乗ったらハイジャック》説の根拠らしい。個人的にはテロよりエロを呼び込みたいのだけどうまくいかないのが人生。「チキショー!トラブルを乗り越えて生き残るしかない!」そう決意を固める僕に妻が「そういえばジョン・マクレーンって離婚したんですよね」と言ってきて挫けそうになる。イッピカイエー、くそったれ!(所要時間13分)

あのブログを読んではいけない。

個人ブログは読まないようにしている。正確には、情報や知識を得ることを目的に個人ブログを読まないようにしている。時間の無駄だからだ。趣味や娯楽の情報なら多少の過ちも許されるが、仕事上で正確な情報や知識やを求めているときに、間違った情報や知識を垂れ流している個人ブログに出くわすことが多すぎるのだ。専門家でないと真偽が判定できない情報を素人が判定するのは至難だ。正確な情報を記載している個人ブログもあるかと思う。だが、多くの個人ブログの中から正確な情報を探し出す手間、時間を考慮すると、どこの馬の骨が書いているかわからない個人ブログから情報を得ようとするのは効率が悪すぎると思う。こんなことをいっているとブログが嫌いなように思われるかもしれないが、僕は個人ブログを読むのが好きだ。好き好き大好き。どちらかといえば、書くより、読む方が好き。僕は知識や情報を得るためではなく、暇つぶしの道具と割り切って個人ブログと付き合っている。過ちや不正確も楽しければオッケー、そんなスタンス。ブログサービスで注目を浴びるブログ記事はだいたい《ホットな話題+極端な意見+良くわからない立ち位置の書き手》の公式で成り立っていて退屈極まりない。それらは一見役に立つような体裁をしているのでなおさらタチが悪い。役に立たないなら役に立たない体裁をしているべきだ。僕はこれからも毒にも薬にもならないようなウンコブログをウンコブログの体裁を維持して書いていこうと思う。ウンコはウンコ。これは読んでもらっている人に対しての僕なりの誠意で、そういう誠意が最近の個人ブログ界隈には欠けているように思えてならないのだ。(所要時間8分)

人権セミナーで意識が高まりました。

人権セミナー参加を契機にこれまでの自分の考えを改めることにした。人権を重んじるというのは、簡単にいえば人を大事にするということ。今までの僕は自分の人権や苦難を主張することが人権だと信じて、他人という存在やその人権を蔑ろにしていた。誤解を恐れずにいえば、加害者サイドにいた。僕は42歳。もう手遅れかもしれないが、これをきっかけに生まれ変わりたいと強く思っている。

 

僕は初めての参加だが、そのセミナーはいくつかの会社の代表や担当者が集まってすでに何回か催されていた。コンテンツは講師による人権とその成り立ちについての講習と小グループトレーニングの2部構成。5~6人のグループに別れて、各々が今抱えている悩みを打ち明け、それについて皆で語り合い解決を見出すのである。ぱっと見、単なる悩み相談室にしか見えなかったのは僕の劣悪な人権意識のせい。恥ずかしいかぎりだ。

 

各々の悩みは通俗的でくだらないものに人権意識の薄い僕には思えた。「心を許しあえる友人がひとりもいない」「家族にいえない秘密があります。打ち明けるべきでしょうか」「人生の意味が見いだせない」「心にもない、キツイ言葉を人に浴びせてしまう」「マンション共用部に打ち捨ててあるゴミを私が捨てても捨てても捨てる人が絶えません」などなど。それらの悩みを皆で受け止め「君だけが悩んでいるのではない。ここにいる誰もが悩める子羊なのです」「あなたには友人がいます。あなたの目の前にいるじゃないですか」「人生の意味を見出せないと見出すことが出来た人生ほど意味のある人生を私達は知らない」などとときに笑って、ときに涙を浮かべて、肩を叩き、励まし、慰める。美しい世界がそこにはあった。人権を重んじれば悩んでもどうしようもないことをわざわざ悩める充実した人生を送れるのだ。実に素晴らしい。光が射した気がした。

 

僕の順番が来た。抱えてきた悩みを出会ったばかりで大して親しくもない友人たちに吐き出し、赦されるのだ。「私はEDです。妻とは一度も関係したことはありません。精子も少なくて子供を持つことは諦めました」透明な闇のような僕の深い悩み。誰も、何も、言わない。友人たちは重すぎる悩みに潰れてしまいそうに見えた。人権を重んじるとは他人を大事にすること。友人たちよ。子羊を見捨てることなかれ。重苦しい空気を引き裂くようにリーダー的な役割の人が口を開いた。「大変だね。じゃっ、次」軽っ。このように僕の悩みは極めて軽く処理されたのである。

 

結局のところ、飛び入り参加の他人の悩みなんてそんなものなのだ。そこには《悩みは誰もが共有できる一般性と普遍性》を持つものでなければならないという暗黙のルールがあった。僕の吐き出した悩みはごくごく個人的、かつ特殊すぎた。いいかえれば僕の人権なんて軽く扱われるような、たったこれっぽっちのものにすぎないのだ。これまで僕は加害者意識を持ちながら人と付き合ってきた。間違っていた。しくじっていた。僕は軽んじられた人権の所有者。これからは被害者意識全開で生きていこうと思う。(所要時間12分)