恥の多い会社に勤めてきました。自分には、普通の会社というものが見当つかないのです。今日は会議がありました。月次定例営業会議。月次と、たいそうな名前がつけられていますが月に四度は開かれています。もっとも多いときで月に十度は開かれたと記憶しています。十一月五日木曜午後五時。部長は会議の日時をそう決めました。前回の会議の終わりに部長自ら席上で伝達したのですから間違いありません。ですから自分も、腰をすえて午後の仕事に取り掛かっていたのです。
午後三時、社会の窓を半分ほどひらいたままの部長があらわれ、「おい!」と自分に声をかけ、「会議だ。すぐにメンバーをあつめるんだ」と言いました。自分はわざとらしく卓上に置いてあるガンダム目覚まし時計《クロック・ジオン》を見ました。「会議は五時からではないのですか?」「六時から日本シリーズがある。テレビで観戦しなきゃいけないだろ」「はい…」自分はことさらに、消え入るような細い声で返事しました。刻の涙が見えました。
午後三時半。会議が始まりました。部長、担当部長、部長代理、部長補佐、副部長、次長その一、次長その二、課長つまり自分の八名。部長以下の序列はよくわかりません。肩書きのない社員はいません。四角いホワイトボードを背にした部長が、げほんと咳払いをし、「ええー皆さん集まりましたでしょうか?定刻で御座いますので会議を始めるぞおおお」と、口をすぼめ、阿呆鳥の小鳥が親鳥から餌を与えられているような顔をして、丁寧だか粗雑なのかわからない口調で挨拶をしました。自分は定刻という、ことば、の意味について考えていました。
そのときです。「すみません遅れました」と声がして扉がひらき、次長その二が廊下から会議室へ下痢のように飛びこんできました。「お前、会議に遅れるとは会社を、いや…俺をナメているんじゃないだろうな」と部長は惑星をずばんと爆発させそうな目線を投げかけ、次長その二が、「そ、そんなことはありません」と慌てふためくと、またげぼぼぼと咳払いをして「特別に許してやろう。今回だけな…これが俺の優しさというものだ…」と言葉をつなぎました。
めずらしいことに会議はさまざまな意見が交換され有意義にすすみました。突然、「非常に厳しい状況にわが社は置かれている。先日も得意先を失った。なぜか?」と、話し合いの流れを断ち切って、部長が話をはじめました。演説です。部長は周りを見渡してタメをつくりました。「クライノンノの平社員からのクレーン、つまり下からのトップダウンだ…」意味がわかりません。「たったひとつのクレーンが大きな問題になる。小さいラベルの問題がクライノンノのコンプレックスにかかわる問題につながってしまったのだ」確かに『暗いnon-no』読者にとってコンプレックスは重要な位置を占めそうです。
「気合をいれろ!」部長が立ち上がってホワイトボードを叩きました。ばしん。乾いた打撃音が響き渡りました。会議室が、しんとして耳が痛いほどでした。それから部長はにこりと気色の悪い笑みを浮かべ、「本をヒントにして苦境を乗り越えるんだ…俺はどれだけ忙しくても時間に追われていても一日三冊は本を読む男だ…」と言うと、誰かが、余計なことは言わなければいいのに、「部長はどのような本を読んでいるのですか?参考までに教えていただけませんか」と訊ねました。その時、ただこう言えばよかったのでした。「わかりました。今後は本を読みます」
それなのに、いやに部長を持ち上げ彼の自尊心をくすぐるような言い方のために、妙にこじれ、会議の行く方向もまるで変ってしまったのです。部長は世間的にあまり知られていない本だから題名を聞いてもわからないだろうが、と前置きしてから「『沈まぬ太陽』だ…」と言いました。また誰かが、どんな筋立てですかと訊ねました。その時、「わかりました。今度書店で手にとってみます」、ただこう言えばよかったのです。
自分で読んで確認しろ、とは言えなかったのでしょうか。部長はただひとこと、簡潔に、「太陽が沈まない話だ」と付け加えました。会議室がしんとして耳が痛いほどでした。また誰かが「もうすこし具体的なストーリーを」と言うと、ただ「太陽が沈まない話だ」の繰り返しです。北欧諸国では夏になると太陽が沈まない現象が起こると学校で教えられました。厳しい状況でも明るく行こうという部長からのメッセージなのかもしれません。すると部長は「昔、日本は日出国と呼ばれていた…。この小説は邪馬台国を舞台にした歴史ロマンにちがいない」と付け加えました。
読んでいる本なのに《ちがいない》はおかしい、とは、言えませんでした。何も言えず、判断も抵抗もできないまま、ただ阿呆のように笑っていると部長が「仕事中に歯をみせて笑っている奴は勝負ができない奴だ。たるんでいるぞ。まあいい。読売巨人軍が優勝する日だ。特別に許してやろう。HAHAHA」と白い歯を見せて笑いながら言ってきました。神に問う。無抵抗は罪なりや?
部長が叫びます。「もう六時になるぞー。日本シリーズが始まるぞー」「まだ、会議は終わっていませんが…」「会議はいつだって出来る。2009年の日本シリーズは今だけだ」「ですが…」「お前はビジネスを知らない。日本シリーズを見ない…これは機会損失だ。ビジネスウイミン(?)がもっとも避けなければいけないことだ…」「おっしゃるとおりです…」そんなやりとりが目の前で繰り広げられていくのを自分は呆然と眺めていました。「会議は終わりだー。テレビをつけろー」会議室にそなえつけられたテレビの電源が入れられました。「今日は巨人が日本一になる重要な試合だ。娘のように可愛がってきた原タツノリの胴上げだ。会議は以上終わり」といって部長は会議を打ち切りました。めずらしく、有意義な話し合いがおこなわれていた会議はこのようにして、半ばで、不本意なかたちで、幕を下ろしたのです。会議室にいる人々は判断も抵抗も忘れてテレビ中継を眺め、巨人ファンという事になりました。
部長、失格。
もはや、彼は、完全に、部長で無くなりました。いまは自分には、幸福も不幸もありません。ただ、一さいは過ぎて行きます。自分がいままで勤めてきた会社に於いて、たった一つ、真理らしく思われたのは、それだけでした。ただ、一さいは過ぎて行きます。彼が日本一が決まる、といっていた木曜日の試合は、サヨナラホームランという、あまりにも劇的なかたちで巨人が勝利をおさめました。けれども、試合前、二勝二敗であったものですから、劇的な勝利とはいえ、勝ち星をひとつ加えるにとどまり、当然のことながら、この日、巨人が日本シリーズ優勝を決めることはなかったのです。