Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

透けブラ少女は空を翔る


 事故を告げる電光掲示板。僕はホームから夜空を眺めた。人身。遅延。予め組み込まれた橙色の文字列が素知らぬ顔で左から右へと秋風のなかをすり抜けていく。左から右へ。橙色のドット。駅員に詰問する会社員風の男。弁明する腕章を巻いた駅員。喧騒。ヘッドフォンをして気長に電車の到来を待つことにした僕に、女性が「なにがあったんですか」と尋ねてきた。僕は電光掲示板に映しだされた文字をそのまま声にして繰り返した。音のないヘッドフォンを介した僕の声はやけに無機質で遠く、あの掲示板の親戚みたいだった。ヘッドフォンの音量を上げる。プライマル・スクリームの「ロックス」が僕に飛び込んできた。


 「ロックス」が収録されていたアルバムは出来損ないのストーンズみたいだった。カート・コバーンがショットガンで頭をぶち抜いたあの年の秋、大学生だった僕はダメストーンズをCDウォークマンに入れてヘビーローテーションしていた。あの日も何かの理由で電車が遅れていた。帰宅ラッシュでホームには人が溢れていた。ダメストーンズを聴いてボビー・ギレスピーを真似て手をクネクネしながら歩いていた僕の肩を誰かが叩いた。振り返ると女の子がいた。高校の後輩。三年ぶりの顔。


 「時間かかりそうだからまわり道して帰りませんか」彼女の提案に僕は構わないよと同意していた。ミニスカートに釣られた。地下鉄、新宿、小田急。短大生の彼女は春から金融関係の会社に就職が決まったという。「先輩はあのときのこと覚えてる?」覚えてないな。嘘だった。それから僕は小田急の白い車両の中で差し出されたポッキーをくわえお喋りな彼女の話の聞き役に徹した。「先輩見てて。私は空を飛ぶの」ミニスカートはそう言って先に降りていった。


 僕の通っていた高校は県立高校のくせに山荘を所有していた。夏期休暇の間に運動部、続いて文化部が合宿を行うのが慣例。僕は美術部と吹奏楽部と数学部に籍を置きすべての部で幽霊部員になっていたけれど、高校時代最後の合宿には女の子率が極めて高い吹奏楽部の先輩として顔を出した。山荘の下には小さな川が流れていて昼間はバーベキューと水遊び。幽霊部員の僕は誰にも相手にされなかったので水面にモテるヤツや先生の顔を見立てて水鉄砲を乱射していた。モテる奴らは眉間に弾丸を受けると嘲笑って下流へ流れていった。そんな僕に声をかけてくれたのが彼女だった。


 「何…してるの?」憂鬱と理不尽を射殺していたんだ。「どうして?」理由なんてないさ。プリミティブな怒りさ。「いつもそんななの?」僕は相容れない奴らにはいつも唾を吐いて生きてるよ。それがゲーセンのオッサンや先生みたいな権力であれ。「いつもウォークマンで何を聴いているの?」最近はレッチリかスティービー・ワンダー。「ねえ?」うるさい。僕は彼女の質問と録音を停止させたくて彼女の左胸に狙いを付け、引き金をひいた。透明なグリーンの樹脂製の銃身の先端から一筋の水が勢いよく飛んで彼女の左胸に当たり、白いTシャツが濡れて透けた。濡れた部分が貼り付いて桃色のブラジャーが露になった。未知との遭遇。父さん本当にブラジャーはあったんだ。僕にはそのときハイティーンガールを水鉄砲で撃つチャンスが存在しない未来がはっきりと見えた。何も言わない彼女を水鉄砲でシュパシュパ撃ち抜き続けた。弾が切れたとき彼女は透明になっていた。桃色のブラジャーだけを身に付けているみたいだった。


 「気がすんだ?サービス…しすぎたかな」彼女はそう言うと僕が肩にかけていたタオルをするりと抜き取って胸を隠した。それから僕らは河原で日に当たりながら話をした。将来とか夢とか目標とかそういうものについて。あの小さな河原の僕らの先には未来が拡がっていた。そのときの僕はまだ先のことが巧くイメージ出来なくて曖昧で壮大でモテそうな夢を三つぶち上げた。「素敵ね。実現させるって約束しましょう」君は?「私?私は空を飛ぶの」そう言うと彼女は僕の逆側にある右手で弄んでいた小石を川に向けて投げた。小石は初秋の陽射しのなかに融けて視界から抜け落ちどこまで飛んでいったのかわからず仕舞いになった。


 彼女が脳内出血で急逝したのは五年前の春だ。僕は葬儀に顔を出せなくて少し経ってから彼女の家を訪れた。仏壇じゃなくて白い布をかけたテーブルに花に囲まれて小さくなってしまった彼女はいた。前年の夏にアメリカで撮影された彼女は東京で再会したときより大人にみえた。クラリネットと携帯電話が供えてあった。ご両親からは彼女が部活を毎日楽しみにしていたこと、彼女の携帯はしばらく通じるようにしておくこと、彼女が転職して航空会社で働いていたことなどを教えられた。


 彼女は本当に空を飛んでいた。僕は悲しくはなかった。悲しみの代わりに僕を支配したのは怒りだった。なぜ彼女だったのか。空が彼女を壊したのか。もしそうだとしたらあまりにも理不尽で残酷過ぎるじゃないか。そんなのないぜ。人間は弱くて脆い。だから求め祈り願う。それが叶わないものとわかっていても。振舞いや仕草や儀式なんてものは祈る者自身の癒しに過ぎないのかもしれないけれど。それでも僕は祈った。大きくて畏れ多くて残酷で無慈悲な何かに。彼女が肉体を棄ててこんなちっぽけでクソ重力のある惑星よりずっとずっと向こうの広い宇宙を自由自在に飛べるように祈った。


 彼女のシャツが乾くと僕らは皆がいる方へ向かった。僕は水鉄砲を手に彼女のあとについて行った。「あっちも楽しそうですよ」そう言う彼女の背中には桃色のブラジャーがうっすらと透けていて僕には小さな羽根のように見えた。


 家に帰りベランダからまた夜空を眺めた。ビールをちびちびとやる。またお彼岸がやってくる。まだ彼女のお墓参りには行けない。約束が二つ残っている。まだ駄目だ。僕は約束を果たして胸を張ってカッコいいオッサンになって会いに行きたいんだ。人は星にはなれないけれど数多の星屑のひとつを人に例えるのは悪くない。決めた。今夜はあの星があの桃色ブラジャーの彼女だ。風が涼しく心地良かった。すると月に寄り道した諸雲が光りを吸って蒼く白い輝きを放ち、傍らの星を包んだ。彼女の星を。優しく柔らかく。それはまるで大きな翼のようだった。僕はこの地上でもう少し頑張ってみるつもりだ。諦めの悪いオッサンになった先輩の姿を見ていろ。夢を撃ち抜いてみせるよ。水鉄砲でブラジャーを撃ち抜いたように。僕は、撃ち抜く。