両親と僕と弟の家族四人で撮った写真は一枚しかない。1980年(昭和55年)に油壷マリンパークのフォトスポットでカメラマンに撮ってもらったものだ。写真は今も実家の母の寝室に飾ってある。カメラと家族が壊れていたわけではない。スマホやデジカメはなかった。今のように気軽に写真を撮る時代ではなかったのだ。1980年代、父は仕事が忙しかった。平日は朝早く出て行って夜遅くまで働いていたので、顔を合わせることはめったになかった。今も思い出すのは、夜、布団のなかでうとうとしながら聞いた父の運転する日産サニーカリフォルニアの「ぷすぷすぷす」というエンジン音。家族で泊まりの旅行に出かけたのは三回。1980年代前半に伊豆方面に二回、90年代、父が亡くなる直前の京都旅行。旅行の写真が残っている。父はカメラを持ち歩いていたが、風景写真が多く、家族の写真はあっても四人一緒に撮影したものはなかった。父は生前デザイナーとして働いていた。日本ビクターで働き、最後はフリー。デザイナーという職業柄なのだろうか、家には写真集やデザイン画集がたくさんあってそれらを見ていれば楽しかったし、それらを通じて父がどういう人間かを知ることができた。父が揃えていた大友克洋やジェイムズ・クラムリーの作品に小学生低学年で触れることができたのは僕の人格に大きな影響を与えている。
そんな家族だったが、年末に家族四人で出かけるイベントがあった。藤沢駅から小田急ロマンスカーに乗って、藤沢から新宿に出て、秋葉原の電気街で買い物をして、肉の万世で肉を食べるのだ。電気街ではラジカセや双眼鏡やファミコンのカセットを買ってもらった。お腹いっぱいになるまで肉を食べた。父は普段僕らに構えない罪滅ぼしのつもりだったのだろう。小学生の目にはピカピカな未来都市に見えた秋葉原を家族四人で手をつないで歩いた。父は秋葉原で毎年のようにカメラやレンズを買っていた。「お父さんは自分の写真を撮らないね」と訊くと父は「カメラマンは映らなくていいんだよ」と笑っていた。そのとき僕も「プロのカメラマンだね」といって笑ったけれど、父の最期とあわせて考えると父は自分の姿を残したくなかったのかもしれない。家族ロマンスカー小旅行は1988年の年末で終わった。
毎年、年末が近づいてくると僕はどうしても家族四人でロマンスカーに乗って出かけたことを思い出してしまう。夕暮れどきのネオンが映える電気街を家族で手をつないだ記憶は鮮明だ。本当に楽しかった。幸せだった。四十年近くも経っているけれど、どんなにしんどいことがあっても、ロマンスカーと電気街と肉の万世の記憶、家族で手をつないで歩いた電気街の思い出を思い浮かべると、人生は捨てたものじゃないと思えて乗り越えられることができた。あの遠い記憶は、きっと僕の郷愁を誘うものであるだけでなく、僕が目指す宝島のようなものなのだ。どんな高性能なカメラでも切り取れない宝島なのだ。あの頃の家族も。生前の姿をとらえた写真が少ない父も。電気街のネオンも。肉の万世も。ひっくるめて。カメラを持ち歩いていた父は電気街を歩く僕らの姿を撮らなかった。きっと、フィルムではとらえられないものがあることを父は知っていたのだろう。(所要時間18分)