Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

退職金でキャバクラ嬢と特上カルビを

 今の会社に世話になって早八年、八だよ八、末広がりで縁起がいい、わけがなく、八は八でも七転八起、といった感じで、業績の悪化と後を絶たない離職者で会社は何とかやりくりをしている状況だ。退職金廃止の話を耳にしたのはそんな状況下だった。退職金でキャバクラのお姉ちゃんと特上焼肉、そんな淡い夢は桜の花と一緒に儚く散っていった。

 総務課長の説明によれば、わが社は一年以内に離職する社員が全体の九割に迫る勢いなので退職金制度が実情にそぐわない、即座に解体すべし、という意見が部長会であがり、賛成多数で決定されたそうだ。僕は営業課長として、退職金を廃止するよりも、社員が辞めないようにする工夫や面接方法の改善をやるべきだと意見したが、業績悪化にともなう会社を覆う暗い影にとらわれたかのように、同僚たちのあきらめムード、仕方ないね感、職があるだけマシ思想たるや深刻で、あれこれの手続きを経て退職金制度は廃止になった。


 とはいえ制度廃止時点で在籍している社員にはその時点で算定した退職金を支払われることになった。勤続八年の僕は、大多数を占める勤続一年未満の若輩たちのあいだで相応の額が支払われると噂され、正当な金額を受領するだけなのに、大変に、肩身の狭い思いをした。金の話はやだね。性根が露出するからね。といいつつ狭くなった両肩のあいだにある左脳で自分の退職金額を計算し、右脳でキャバクラ嬢との焼肉を夢想していた。「課長…特上カルビを食べたら眠くなっちゃった…」「それは大変、タンがつまって酸欠になっているのかも。吸い出してあげようか。やや、参ったな。僕も飲みすぎでレバーの調子が悪いんだよ。おや、裏通りに入り口が目立たないつくりになっていて、そのうえ料金体系が明朗な宿屋があるよ…ご休憩ってなんだろうね…」


 先月、四回目の月次定例営業会議の最後に、部長から退職金制度廃止についての説明がなされた。背筋を伸ばし、薄く目をひらき、口をすぼめ、頭髪はまばら、頬を緊張から紅く染めた部長の顔は、悪くいえば少しイッちゃっているようであり、良くいえば射精寸前のようであり、その形相は僕に、恍惚とした表情で「明日に架ける橋」を熱唱するアート・ガーファンクルを想わせた。もっとも部長の話から<明日>はまったく見えなかったけれども。


 部長が退職金の支払い期日について「おそらく…すぃっ、すいっつ月のきゃ、きゅ、九、窮、旧、Q、給料日にしは、しは、腹割れ、支払われる」と噛みまくって言った。すると入社半年、自己紹介のセールスポイントで空気が読めないことを挙げた小杉君が部長に噛みついた。


 「部長、シチガツですかシガツですか?」 「コスゲか…一人前の口をきくようになったな…」と部長は煙草の煙を吐きながら返した。部長は部下の名前を覚えられない。部下を追い込むとき部長の口は流暢になる。「コスギです部長。ですから支払いはいつですか?」小杉君はイラっとしたらしく声が大きく棒読みになっていてまるでケインコスギ。「コスゲ…すいっつ月だといってるだろう…」「コスギです部長。四月ですか?七月ですか?」「コスゲ…すいっつ月だ…」「コスギです。支払いはいつなのか明確にしてください」「コスゲ…」。


 あとになって聞いたのだが、部長同士の飲み会の席で、部長はこのやりとりで生意気な部下を翻弄した己の姿を『ハエのように舞い、ハッチのように刺す』、そんな誤った表現でモハメド・アリにたとえてご満悦だったらしいから笑止である。僕は二人の不毛なやりとりを眺めながら、早くギャルと特上カルビを食べにいきたい、と呟いていた。


 つづく部長の言葉で会議室に集まっていた営業マン一同は騒然となった。総務課長からきいていた退職金制度廃止の理由とはまるで違ったからだ。部長は言う。「今回の退職金制度廃止は俺が提案した。会社をとりまく危機を乗りきるためには退職金という甘え、退路を断ち、俺のように(62才嘱託社員)一日一日勝負するしかないからだ…」何を言ってるんだ?意味がわからん。俺たちを巻き込むなよ。僕は特上カルビが食べたい。騒然とする面々をよそに部長は加速していった。


 これは他の誰も気付いていない革命的な考えだが…と鼻腔から煙草の煙を排出させながら前置きし、部長は「離職者を減らすのが最大の目的だ…」と言った。部長の理屈だと、退職金をなくせば退職金目当てで会社を辞める人間は滅亡し、老後の保証がなくなる不安を払拭しようと男気元気勇気やる気にみちあふれ、定年まで会社に忠誠を誓う社員によって業績はブイ字回復する、らしい。意味がわからないを越えて恐ろしくなった。紫煙の向こうで揺れる部長は紅潮し、安いカルビのようだった。


 4月25日。給料と一緒に退職金が口座に振り込まれた(シガツだった!)。五月の連休明け。辞表を出す社員が相次いでいる。退職金の額のせいかもしれないし、そうでないかもしれない。小杉君も辞める。「フミコ課長はたくさん退職金をもらったんでしょうけど俺は…」辞表を出した直後の小杉君の言葉だ。辞めていく人たちは一様に、将来が不安になった、と言う。こうして部長の社員引き留め策は盛大に失敗したのだ。

 

 勤続八年。課長職にある僕の退職金、二万八百四十八円也。「コスゲが辞めるか…清々するな…」部長が傘をドライバーに見立ててスイングの練習をしている。ノーフューチャー。七転八起というが僕には八回目の転倒も、キャバクラ嬢との焼肉も、許されない。