Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

妻から若い男を紹介されて漏らすほど動揺した。

 二週間ほど前、妻が若い男を紹介するといってきたとき僕に沸き起こったのは、嫉妬でも怒りでもなく烈しい後悔であった。こんなことになるなら妻が働きに出るのを許さなければよかった。こんなことになるなら「私は裕福な暮らしをしたい」と妻が言いだしたとき、強くぶっておくのだった。そんな烈しい後悔だった。
 
 「キミの給料では足りない」「人形のお洋服が買えません」妻が僕の収入への不満を理由にパート仕事を始めると宣言したとき、僕は反射的に妻に対して右手を振り上げていた。悲しかった。月一万八百円の小遣いでのやりくり。現場にヘルプで入って朝5時からのマッシュポテトを作り。常態化した12時間労働。小生意気な学生バイトから「ポテトマッシャー」「ユニットリーダー」という蔑称で呼ばれる日々。そんな非人間的でダリぃ日々に耐えてこられたのは、ダーリン、君がいるからだよ。そんな僕の想いは無に帰したのだ。
 
 
 これは嘘だ。悪夢にちがいない。僕は激情に押し流されるようにして、振り上げた右手を振り下ろした。頬からは乾いた音が響いた。その音は僕に、近所の小学校の放課後に聞こえてくる哀しげなトランペットの音色を想わせた。直後に、僕の右頬から軽い衝撃。そのとき僕はすべてが現実だと認めるしかなかった。「殴ったね。オヤジにも殴られたことないのに」。僕のちっとも似ていないアムロ・レイの物真似だけが台所に虚ろに響いた。
 
 
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 スグル君ていうの。礼儀正しい男の子だよ。妻のいうとおりであった。駅前のさくら水産で僕の前に座った若者、妻のパート先の同僚スグル君は、礼儀正しく、気のつく大学生であった。僕にへりくだるような口まできいた。しかし心は開かない。決して。
 
 
 かの夏目漱石先生は名作「こころ」においてこう述べられていた。
 
「かつてはその人の膝の前に跪いたという記憶が、今度はその人の頭の上に足を載せさせようとするのです」。
 
 スグル君もいつかその足で僕の頭を踏みつけるにちがいない。僕の頭蓋を砕きにくるにちがいないのだ。若者とはそういうものだ。スグル君の高身長・高学歴・好感度に、僕は高年齢・高圧的・更年期で対抗した。それしか武器がなかった。「学生が勉強もせずに飲んでいていいのかね」「気に入らないな君の顔は」というふうに。スグル君は笑って受け流した。心まで広い。嫌な奴だ。彼の数少ない欠点を挙げるとするならば、若干タラコのように突き出ている唇くらいだろう。
 
 
 しかし、なぜ僕と妻とスグル君、三人で飲んでいるのに、妻が僕サイドではなくスグル君サイドに座っているのだろう。普通は僕サイド、すなわち僕の隣に座り、色々な意味で夫を立てるものではないか。ところが僕の目の前で2人並んでキャッキャウフフといいムード。「ダンナさんアントニオ・バンデラスみたい。ヒゲ濃いっすねー」「でしょー。夕方になるとドロボーみたいになるのー」 僕は2人のやり取りから、桃色のチクビに絡みつくタラコを想像して、ひとりイヤンイヤンと悶えるしかなかった。残念ながら妻の色を僕は知らないけれども。
 
 
 2人からはロマンスの匂いがした。蜷川実花さんが生み出す、花が咲き誇り赤とピンクに敷き詰められた色情魔の如き世界を伴うロマンスがそこには感ぜられた。たまらず僕は若者に声をかけた。
 
「スグル君!」
 
 怒気をはらんだ僕の声に驚いたのでしょう、スグル君は一瞬茫然とした。それから彼は、困惑した顔でこう言いった。「スグル君て誰ですか?」驚いたのは僕だった。
 
 
 スグル君の傍らにいる妻が、慌てて「ほら、江川卓に似てるからー」と言い訳する。なぜか僕に対してではなく、主に元スグル君に対して。僕:元スグル君=2:8。僕は、妻の全身を這い回り終えたタラコがアワビと邂逅する官能的な情景をを思い浮かべながら一つの疑念に頭を抱えてしまいそうになった。スグルとは《不能の旦那よりも男性として優れている》《人格面でも圧倒的に優れている》というメタファーなのではないかという疑念だ。
 
 
 《江川卓に似ている》という妻の言い訳も苦しく、僕の疑いを確かにするものでしかなかった。妻は野球に疎い。プロ野球の球団も、犠牲フライのルールも知らない。そんな妻が四半世紀も前の選手からニックネームを付けるなんておかしい。「僕は江川のカーブみたいに曲がっているんですよ」一戦交えたあとのピロートークで江川卓の存在を教えられたのではないか、そんな妄想に僕は壊れてしまいそうになる。
 
 
 宴席は僕だけを置いてきぼりにして盛り上がった。ひとり静かに陰になっていると、「おい、そろそろ交換の時間だぜ」と何かが耳もとで囁くのが聞こえた気がした。なあ、人間なんて誰もが交換可能な存在なのだと。
 
 
 元スグル君に彼女からLINEのメッセージがきた。すぐ返さないとイジけるんすよーと言いながら返信を終えた元スグル君が彼女の画像を見せてくれた。外国人の女子であった。セクシーであった。これでトリンドル玲奈に少しでも似ていたら、僕は彼に決闘を申し込んでいた。彼女が水沢アリー側で本当によかった。「今度彼女もいれて4人で飲みましょうよ」飲み会の終わりの元スグル君の提案に僕は条件反射的にこう言い返していた。「スワップ願望はあります!」。2人は聞こえないふりをした。さながら共犯者のように。
 
 
 おかげさまで相変わらずのセックスレスではあるけれども妻との関係は良好で、楽しい日々を過ごしている。妻は時々、スグル君の話題を出し「いい子だったでしょー」という。けれども妻のいう「いい」が何を指しているのかわからない。「仕事行くと疲れちゃうなー」という妻のボヤキも《突かれちゃう》のダブルミーニングじゃね?と疑ってしまうときもある。
 
 
 僕は人間関係なんて交換可能で、交換されたくなければ誠実に相手に尽くすべきだと割とマジに考えていて、その方が永遠の愛みたいなものを担保にして甘えるよりもずっと健全だとずっと思っているのだけれど、いざ僕自身が交換可能にすぎないパーツだと突きつけられると慌ててしまう。苛々してしまう。この苛つきは何だろう?マッシュポテトづくりのジャガイモに当たり散らしているけれど、僕はまだその苛つきの正体がわからないでいる。
 
 
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■「かみプロ」さんでエッセイ連載中。「人間だもの。」http://kamipro.com/series/0013/00000