Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

年に一度しか会わない親戚の子供にお年玉をあげる理由がわからない

「なぜ、年に一度しか会わない親戚の子供にお年玉をあげなきゃいけねえんだ!」と正月の不条理を嘆いて絶叫したら、妻からは「子供がいない私たちのお葬式をやっていただくためです」、母からは「あんたも子供のときに貰っていたでしょ」と極めて現実的な答えが返ってきた。


おかしい。僕自身が親戚から貰っていたお年玉についていえば、両親が長年に渡って親戚と冷戦状態にあったため、お年玉をくれる親戚が祖父オンリーだった期間が相当にあり、本来貰えたはずのお年玉を貰えなかった。来月42才になるが僕はその悔しさを忘れたことはない。そういう積年の恨みつらみを込めて、母に、あなたのせいでお年玉を貰えなかった、と言ったら2016年元旦から喧嘩になってしまった。


しかし、親戚とはいえ、一年に一度程度しか会わない子供になぜ無条件に現金を渡さねばならないのか、納得いかない。僕ら夫婦には子供がいない。つまりお年玉は一方的に僕の懐から出て行くばかりなのである。毎年、お年玉袋を渡した瞬間に、表情がカタくなり返事も適当上の空になる子供もマジでムカつくし。


妻が言うように、葬式をやっていただくための投資と考えれば納得できるかもしれない。だが、それならお年玉の金額は子供が成長するにつれ増額していく、いわば年功序列制で決めるのはおかしい。年齢や可愛げによってではなく、僕の葬式をやっていただける可能性が高い子供に投資したい。


つーわけで僕に馴染まない性格に難のある親戚チャイルド、風邪をひいたと嘘をついて直接受け取りに来ないような常識のない親戚チャイルドに対しては容赦なく金額を設定した(金額については僕に一任されていた)。具体的に一部を抜粋して公にすると高校生には二千円、幼児には一万円。おのずと思春期に差し掛かっている子供よりも幼児の方に投資額は多くなってしまった。元旦にその金額を袋に入れて手渡した。


それから1日経って、僕のもとに「金額が間違っているのでは?」「おかしい!」といった声が上がってきている。しかし僕は自分の正義を信じているので動じない。これをきっかけに成果主義と投資と僕の葬式について親族一同が学習してもらえれば、僕はどれだけ悪者にされても構わない。親戚の子供へのお年玉についていろいろ葛藤したが、今後は己の葬式の前払金と捉えて粛々と渡していこうと思う。

(この文章は財布が軽くなった悲しみをバネに15分間で書かれた)