Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

最近の若い人たちが成長することに必死すぎる。

僕の狭い観測範囲の話なので、一般的な事実と乖離していたら申し訳ないけれど、最近の若い人たち(30代くらいまで)は成長することに必死すぎるように見える。もちろん、成長することはいいことである。成長を目的のひとつにすることも否定しない。ただ、成長することに必死すぎる状態、あるいは、成長「だけ」が目的になっているような人たちが多すぎるように見えるのだ。勉強会やセミナーに参加して、SNSで学びや気付きに関することを呟き、人生の目標をプロフに謳っている若者たちは本当に多い。個性をうたっているのが没個性的なのも悪い冗談みたいだ。義務でやってるようにも、焦っているようにもみえる。僕の経験からいって、成長したい、結果を出したいと焦ることに意味はない。むしろ、成長することが目的になってしまうことは恐いことだと考えている。手段が目的になることのすべてが悪いわけといっているのではない。目的化した成長には無理無駄ムラが伴いがちだといっているのだ。階級制のスポーツのように、それぞれのステージにはそこで戦うために適切なウエイトやパワーや敏捷性がある。ウエイトとパワーをつけすぎて敏捷性を失うこともあれば、その逆もある。目的にマッチした成長というものがあるのだ(もちろん全てが完璧な天才もいるが、それはレアケースである)。絶対に。成長だけに特化してしまうと、あるいは、必死になりすぎてしまうと、目的を達成するために必要な要素以外の余計なものが身に付いてしまうことがままある。いってみれば贅肉である。これからの時代を生き抜くために必要なのは、好奇心と研ぎ澄まされた感性と能力だと信じている。余分な贅肉をもっている人は発想が鈍いし、決断が遅くなる。取り残される。周りにはいないだろうか、どうでもいい役に立たない知識を振り回す僕のような年寄りが。僕は、基本的にはマジメで善良な若い人たちにはそうなって欲しくはないのだ。つまり、目的を達成するために、必死に成長しようとして成長にフォーカスしてやっていること(勉強会やセミナーやオンラインサロン)には、よほど注意しないと若さゆえの吸収力で、大きな贅肉になってしまう危険性があるということ。いったんついてしまった贅肉を落とすのはひどく難しく、結果的に、目的を達成するのが遅くなってしまうことがあるのだ。急がば回れという言葉があるように、案外、遠回りが最速のルートであった、ということがままあるのだ。成長!気付き!学び!と必死になって身に付けるものも確かに成長だろう。だが、成長とは普段やっていることを周りを気にせず、真面目に誠実にコツコツやっていて、気が付くと身に付いているようなものではないだろうか。それは実戦でしか身につかない、贅肉のない成長なのだ。要するに、大きな成功や目的を見上げる頻度を落として、身の回りの小さな成功に喜びを見出していくことが贅肉のない成長につながるのだ。長々と書いてきたがここからが本題である。なぜ、若い人たちが必死に成長や結果を求めるのかというと、それより上の世代が、成長や結果という、わかりやすいもので評価されてきたからだ。実際、今の若い人たちより僕ら(40代)の方が目に見える結果と成長が感じられやすい世の中で生きてきたと思う。同じような経験をして、同じような音楽を聴いて、同じような番組を見てきた。今はどうだろうか?同じような経験やコンテンツもあるにはあるが、より細分化・ニッチ化して、いってみれば難しく、複雑で、わかりにくい世の中になっている。そこで求められる成長や結果も難しく、わかりにくくなっている。僕が最近の世の中に感じるのは、昔の価値観で若い世代へ結果を求めることへのギャップと、分かりにくくなった世の中でわかりにくい成長を求められている若い世代の生きにくさである。わからないから、わかりやすいものに飛びつくのだ。成長、成長、成長と。本当に世の中にあわせて成長しなければならないのは若者ではなく、社会や、僕ら上の世代の方なんだよね。こんなことを言うのは若い人たちが必死に成長する姿は、見ているだけで疲れるし、若い人たちにはしっかりと生きていただいて我々の世代を支えていただけないと困るからである。(所要時間21分)