Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

1ヵ月経った。

事件から1ヵ月経った。事件については、被害者と距離が近いこともあって、まだ消化できてはいないけれども、距離の取り方、僕なりの付き合い方は何となくわかってきたので書いてみたい。いろいろな人が背景や原因について語ったり、分析している。だが、「加害者はこう考えて、あの行動を起こしたのではないか」とこちら側の考えた物語に安易に落とし込んでいいものなのだろうか? というのも、加害者はすでにこちら側の想定、物語を超えているからだ。《あれくらいで人を襲うのか》《会ったこともない人を…》そう考えるのが平均的な考え(「常識的」ではない)と思われるが、それを超えているところにいる者をこちらの尺度ではかることなど到底無理だと思うのだ。もちろん、事件の背景や原因について皆で考え、分析し、再発を防ぐことが必要なのはいうまでもない。だが、それは同時に、超えてしまっている者に対しては後手に回らざるをえないことの証明でもあり、それが僕を絶望的な気分にさせるのだ。加害者は犯行のあとにネットに声明を出している。犯行前ではなく、犯行後に。その文章を僕は意識的に避けていてずいぶん後になってから読んだのだけれど、僕の予想していた勝利宣言めいたものではなくて、事後報告で驚いてしまった。わかってもらいたいと言っているような内容と僕は読んだ(わからんけど)。ネット上で意味不明に荒れていた犯人が、こちら側に寄ってきてるようで気味が悪かった。率直にいえばこちらの物語に入ってきてほしくないとさえ思った。結局のところ、わからないものはわからないままなのだろう。犯人が何を考え、行動に至ったか、本人がこれから何を語ったとしても、その真偽なんてわからない。だから、ただ裁判で量刑をさだめて、粛々と刑を執行すればいいと思っている。人を殺めるのは論外で同情の余地はまったくないが、被害者の彼も、そして加害者以外の多くがそうであったように、ネット上での煽りや弄りが、どれだけ人の怒りのポイントを刺激しているのかについて、そして人の感情の沸点の低さについて想像することの難しさと限界を突きつけられたような気がする。僕は20年近く日記みたいなものをネットに流し続けている。そのうちのいくらかはストレス発散の愚痴や怨念によるものだ。だが、実際にストレスや怨念がすっきりしたかといえば、すっきりしたものもあるが、そうならなかったものもある。そして、残念ながら、ならなかったものこそ、総じて重くて深い。ネット人格として、怨念や愚痴を込めた言葉をネットに流しても、リアルな肉体にそれは蓄積している。そしてその純度は高い。これは想像でしかないが、おそらく加害者も僕と同じようにネットに負の感情を垂れ流しながら、知らず知らずのうちに負の感情を蓄積させ、平均的なこちら側の人間の想像の外の存在=モンスターになってしまったにちがいない。つまり、ネットに何らかの感情を垂れ流している種類の僕のような人間は、誰でも、あの加害者、モンスターになりうる、ということ。僕は思うのだ。確かにネットは現実の問題の救済にもなりえるが、現実の問題は現実のなかで、それがどれだけ苦しく消耗するものであれ処理したほうがいいと。その苦労から逃げ続けていることが、誰の中にでもいる、あのモンスターのサナギに栄養を与えることになるのだから…。そんなことを今朝、朝顔に水をやりながら考えたりしていた。(所要時間15分)

組織的な熱中症対策を頑張ってみた。

殺人的な暑さが続いているので、営業部の責任者として対策を打ち出すことにした。営業畑で20年ほど働いてきたけれど熱中症対策については「何とかならないねーの?」とずっと不満に思っていた。というのも、他部署と違って仕事の大部分を個人の裁量に任せている営業部の熱中症対策というと、水分を多く取ろう、休憩を入れよう、という注意をうながすくらいの、それぞれの判断に任せたものでしかなく、組織としての対策はまったくといっていいほどなされていなかったからだ。

f:id:Delete_All:20180718165805j:image

▲「営業中の風景(神奈川県某所)。気温34度日陰なし。もちろん1人。こんなところで熱中症で倒れたら確実に死ぬわ…」

炎天下で判断力が低下している環境で個人に正しい判断を求めるのはなかなかの無理ゲーではないか。実際、熱中症で倒れた同僚の営業マンを何人も見てきた。ましてや今年の夏は記録的な暑さ。各地で死者も出ている。営業職という仕事が個人の裁量に任せる部分が大きくても、組織的に守らなければならないと感じている。

営業活動の禁止

まず「外回り営業は原則禁止」とした。「原則」としたのは必要最低限の面談や打合せは必要だからだ。営業活動を禁止したアホな営業部長を僕は他に知らない。営業部として掲げている目標数値を下げるつもりもない。貯金が活きた。僕が営業部を任されてからいろいろとやり方を変えた結果、4月からの貯金がまあまあ出来たので、ここで少しペースを落としても、問題ないと判断したのだ。この1週間かそこらを無理して働かせて体調を崩されるよりも、休ませて体調を崩すことなく夏を乗り切る方が得策だと計算したのだ。たとえば今15人のメンバーで仕事を進めているが、1人欠けるだけで戦力は6.6%ダウン。仮に2人ダウンすると13.2%の戦力ダウン、これを残りの13人で取り返すのは無理だからだ。他の部署からは「営業しない営業部」と揶揄されそうだけれども…。また、外回り営業する際は訪問先を報告させ、移動する際は必ず連絡を入れるようにさせた。有事の際にすみやかに対応できるようにするためだ。

水分補給を会社負担へ 

「営業活動禁止!」以外の対策としては、仕事中の水分補給にかかった費用はレシートがあれば経費で落とすことを認めた。予想通りだけれど、自分の財布ではなく会社の金で飲めるとなると、通常よりもドリンクを飲むみたいだ(昨日1日だけの実績だが)。人間て意地汚い。きっつー。とはいえ熱中症になって治療費を負担することに比べればコスト的にはたいしたものではないのでよしとしている。責任者としてはアイスコーヒーは認めるけれどコーヒーフロートやコーヒーゼリーはちょっと引っかかるし、ホットドッグは経費で落とすのはちがくね…と思わなくもないけれど、水分補給のため、栄養補給のため、補給するぞ補給するぞ補給するぞとマントラを唱えながら当面は見て見ないふりをするつもりである。調子乗って、雑誌とかを落とそうとしたら、地獄を見せてやるけれど。

保冷剤を支給 

また、先の3連休のあいだに妻とドラックストアで箱買いしておいた、安売りされていた保冷剤と経口補水液オーエスワンを会社のフリーザーで冷やしておき、外回りにでる社員には手渡すようにした。厳しい暑さを少しでも緩和出来たらいい。こういう目に見える対策のほうが「部長、俺たちのこと考えてくれてる感」がすると思ったからやっただけの、いってみればパフォーマンスだが、思いのほか喜んでもらえたのでよかった。

なぜ取り組むのか

営業部という個人の裁量にまかせている部署で出来る組織的な熱中症対策はまだ始めたばかりだ。これからトライ&エラーで皆の意見を取り入れてルール作りを進めていきたい。他に良いアイディアあったら教えてほしい。

 なぜ、僕が組織で熱中症対策をするかというと、自分の居場所を守るためだ。僕は一年前に来たばかりで、いきなり責任者になった。面白く思っていない人間もいるはずだ。友達をつくろう、とか、同僚と感動体験をシェアしたい、みたいな薄気味悪い気持ちは毛頭ない。ただ、仕事で、僕のことを面白くおもっていない人間を納得させたいと考えているだけだ。そのためにはノルマ達成という実績と職場環境の改善は必要不可欠だ。まあ、ウマくサボれって話なんだけど立場的にそれは言えない。ずっと営業として働いてきたので、営業の最前線で働いている現場の人間を守りたいという思いがないわけではないけどね。(所要時間19分)

ホワイト環境になじめない。

再就職してまもなく1年が経とうとしているがまだ職場に馴染めないでいる。仕事も充実、待遇も上司や同僚といった人間関係もいい、素晴らしい環境、いわゆるホワイト企業なのだが、12年もの歳月をかけて骨の髄、末端神経までブラック環境に染まりきった僕の心と身体が、そこに適応できないのだ。妻は「贅沢病」と笑うが僕は真剣に悩んでいる。小説や映画でベトナムやイラクからの帰還兵が日常生活になじめない描写があるが、大袈裟にいえば、それに似ている。たとえば職場で何かが起こると、「かつての職場だったら、足の引っ張り合いがはじまるだろうな…」と想像したり、実際に体験した獄絵図が頭にポーンと浮かんできたりするのだ。それに合わせて軽い胃痛が起きるのは日常茶飯事で、酷いときは吐き気を催してしまうくらいなのだ。この状態は何らかの疾病で診察を受けたほうがいいのか、それとも時間が解決してくれる慣れの問題なのか、ネットで調べてみたけれども、ブラック環境で心身を壊してしまう例はあってもその逆は見当たらなかった。いくつか例をあげてみよう。 

 

1.(現職)トイレに行く際にパソコンの電源を落とさないで良くなった。同僚「いちいち落とすのは効率的じゃないですよ」(前職)トイレに行っているあいだにデータ消去された経験あり。消去されるほうが対処しやすい。些細な数字を変更されて見積金額が改ざんされたときは焦った(未然に発見)。

 

2.僕がデスクで頭を抱えて考え事をしている(クセ)と…(現職)同僚たちが「大丈夫ですか!」「今日は休んだ方がいいですよ」と優しい言葉をかけてくれる。ありがたいがウゼーッと言いたくなってしまう。(前職)同僚「えー!!!脳出血死にかけても仕事に穴をあけないでくださいよ。人足りないんだから…」同僚「倒れるなら家に帰ってからにしてくれよ」上司「ローサイダー!」 

 

3.現職)ボス「日本代表の試合が深夜だから明日の午前は休みにしようか?」同僚たち「社長!僕らはサッカーを見てもいつも通りに出勤して仕事がします!」僕「吐き気が…」(前職)上司「日本シリーズに備えて俺は休む」「9回の表一死満塁カウント2−2、一球も外せないサヨナラの局面だ」僕「働いてくれ…」

 

4.(現職)日本代表ベルギー戦試合キックオフ午前三時を受けて。起きたくないので僕「観たいけど起きられない。明日試合内容教えてよ」同僚「それなら電話かけて起こしますよ!体験を共有しましょう!」僕「冗談でも嬉しいよ」ガチで午前2時55分にかかってくる電話。「起きてください!」もちろん熟睡中。ありがた迷惑って知らないのかな。鳴らない電話でいいのに…。UZA…。(前職)同僚「明日の出張、朝起きられるか自信がありません。モーニングコールお願いしてもいいですか!」僕「嫌だよ」同僚「遅刻してもいいのですか!会社の恥ですよ」僕「人類の恥め」 

 

5.(現職)朝礼にて。ボス「今夏の賞与は2.5か月」僕「そんなにもらえるのか」ボス「少なくて申し訳ない。冬はもっと出せるよう全員で頑張ろう!」同僚「頑張るぞー!!」僕「めまいがしてきた」(前職)上司「よろこべ。冬の賞与は0.2か月だ」僕「それしかないのか」同僚「すげえ、賞与がでるだけ俺たちは幸せ」僕「このままじゃダメになるな」

 

6.(現職)ボス「退職金は中途採用でも基本額と貢献度に応じた額を出すよ。安心して働いてほしいからね」僕「そんなうまい話があるはずがない、なにか裏があるのではないか…」(前職)上層部「退職金制度を廃止します!」僕「理由は?」上層部「退職金がなくなれば老後の生活のために一生懸命働いてくれるようになる。結果的に、離職率が下がるかもしれない」僕「血迷ったか」

 

7.(現職)ボス「役職者は社員よりも働かないといかん」同僚「そういう社長の姿勢マジ尊敬」僕「いやいや社員と同レベルでいいでしょう(吐き気)」(前職)上司「俺がサボっているように見えるとしたらそれはお前らの目が節穴だからだ」「上司があくせく働いていたら、誰も出世なんかしたくなくなるだろう?」僕「かっこいいけどクソだ」

 

8.(現職)ボス「残業は原則禁止。所定労働時間におさまらないのならそれは仕事のスキームが間違っているのです。残業した社員には残業代は法定より多く払うよ。これは戒めです。部長クラスは残業代がお任せてしている予算を圧迫しないよう早急にスキームを改善してください」僕「能力や努力の足りない人間に楽をさせるだけでは…(ブラック思考)」(前職)上層部「残業は絶対禁止。社として禁じている残業をやっている人間がいたら、それは個人が勝手に自己責任でやっているだけなので社は関知しない。残業が存在しないのだから残業代という概念も存在しない」僕「いいから定員を配置できるよう募集費をかけろ」

 

9.(現職)同僚「今日も仕事が終わってしまう。仕事楽しい!もっと仕事がしたい!」僕「アタマ大丈夫か?(吐き気)」(前職)同僚「仕事を早く終わらせたら別の仕事を振られてしまうでしょ。だから私は仕事をセーブしている」僕「たわごとは一度でもノルマを達成してから言え」

 

10.(現職)同僚「部長は最低最悪、劣悪な環境の会社で働いていたのですよね。そんな過酷な環境を生き抜いてきた経験と方法を教えてください」僕「何もないよ」同僚「いやいやいや謙遜しないでくださいよう」僕「ないないない(身についたのは同僚に対する猜疑心なんていえないの意/吐き気を催しながら)今の同僚たちから前の会社の悪口を聞かされるのは気持ちのいいことではある。

 

以上である。僕はこういうやり取りのたびに胃痛や吐き気を催しては、きっつー、と愚痴っている(PTSD?)。以前の職場とのギャップに苦しんでいるといえばいいのだろうか。今の職場は少々意識がハイな方がいるのをのぞけば本当に素晴らしい環境なのだが、理不尽な命令や足の引っ張り合いばかりで毎日が戦場みたいだった前の職場と比べると物足りなさを感じてしまうのもこれまた事実。暗闇(ブラック)に染まったこの俺を蹴落とす奴はもういない。その幸せな現状が僕を幸せにしてくれる日は訪れるのだろうか。(所要時間30分)

 

楽な勝ち方よりうまい負け方を教えてくれ。

キズつくのを極度に恐れるガラスの四十代の僕には勝ち方よりも負け方が超重要。知りたいのは、上手な負け方、ダメージを最小限に抑える負け方だが、それらを求めて書店のビジネス本や自己啓発本コーナーを眺めても、たとえば紀州のドン・ファンのように勝った人間の語る勝つ方法ばかりで、お目当てのものは見つからない。せいぜい負けからの奇跡の大逆転勝利ストーリー。稀に自虐的に負けた経験を語る人もいるが、それらは「ビジネスで負けるの正直きっつー…でも僕は人生に負けずに明るく生きていくよ」的な浪花節で、うまい負け方をレクチャーするものではない。「しくじり先生」というテレビ番組も似たようなものだ。身も蓋もないことをいえば、勝つときは何もせずとも勝つのだ。競合ライバルが勝手に自滅したりして。サクセス本というのは本質的にはどれも同じで、これこれをやったから勝ったという体裁こそ取っているが、勝てば官軍といわれるように内容は勝ったから言えるだけのこと。そもそもビジネス本を出すような面白経歴と能力を持つスーパーマンたちの勝利メソッドが一般人にそのまま適用できるはずがない。読む価値はない。と断言すると付き合いのある出版社から仕事を切られて難儀するので、断言はしない。読む価値なくはないよ。上下2巻構成にして、上巻で期限設定した施策を公表して、期限到来後に刊行される下巻で結果と分析を掲載するならね。下巻の刊行が諸事情により見送られることがなければいいけれども。では、なぜ負けたときに傷つくのか。負け方を教えられていない僕らは、その負けの大部分を自分の責任と捉えてしまいがちだからだ。もちろん負ける原因となった失敗については反省しなければならない。だが負けるというのは相手との兼ね合いもある。実際の割合は知らないが、勝負は運9割実力1割の結果だと思えばいいのではないか。負けてしまったけれど、実力の占める割合など1割と気楽にとらえ、その1割にベストを尽くしたかどうかで判断をすればいい。それが過度に傷つかない、ダメージコントロールの効いた、うまい負け方につながるのではないだろうか。勝ち組の皆様はおそらく9割はご自分の実力と才能と努力の結果だととらえていて、だからこそ編集者から「貴兄の成功体験をフィードバックして世の中の財産にしましょう」とそそのかされて勝つ方法的な書籍をご自分の手あるいはゴーストライターの手で執筆されているのだとは容易に推測できるのでございますが、ここはひとつ「勝ったのは要因の9割を占める運に恵まれただけでございます」という謙虚なスタンスを取っていただき、「発信力を身につけよう!」「自分ブランド化!」「気づきに感謝!」「体験を共有!」等々の薄気味悪い発言連発の書籍の発売を控えていただければ、紙資源の節約にもなり、大変ありがたい。あとこれらは意識の持ち方の問題なので「負けたけど僕チンの実力や努力なんてその1割しか占めてないよー。敗北を知りたい」などとかつての僕のように日本語に仕立ててて発声すると間違いなく白い目で見られるので、敗北が明らかになった当日くらいは茫然自失な雰囲気を演出するのは忘れないでもらいたい。(所要時間14分)

20年間引きこもっていた友人にロスジェネの呪いを見た。

実家近くの床屋で友人Fと会った。Fは今年で45才、新卒で入った会社、確か教材を取り扱っている出版社だったと思うが、そこでの激務で心身を壊し、入社初年度で退職、以来20年ほど実家に引きこもっていた。その20年間、彼が何をしていたのか僕はほとんど知らない。そんなFと久々に再会したのは昨年の夏で、社会復帰に向けてチャレンジしようとしている彼を僕は応援していた。一方的な想い込みかもしれないが、彼とは特別な関係だと思っている。小中高と同じ学校に通っていたが同じクラスになったことは一度もない。高校3年の秋の幾日かの放課後、音楽室にあったピアノで連弾をして遊んだだけだが、その、「くるみ割り人形」を弾いた時間は、受験ムードに息苦しさを覚えていた僕の気持ちを軽くしてくれた特別なものだ。

僕の記憶によれば、Fは昨年末にアルバイトを始めていたのだが、状況は変わっていた。「4月から正社員として働いている」床屋の順番待ちのソファで漫画雑誌に落とした目線を上げることなくFは言った。僕は職場や仕事について質問したが「勘弁してくれよ」と彼は答えなかった。声のトーンが暗いのが気になったが、そのままにしておいた。すると突然、Fは「給料いくら貰っている?」と尋ねてきた。リアルな額をいうべきか、気をつかった額を言うべきか、真剣に悩んでいると彼は「俺の給料、新卒のときとほぼ同じなんだよ」と自嘲気味にいった。答えを求められていないことに安堵しながら、どういうことだよ、と言葉をうながした。嫌な予感がしていた。Fは「おかしいだろ?今年45才になる正社員に20万しか払わないなんて」と言った。嫌な予感テキチュー。無資格で「ほぼ」職歴もないから仕方ないよ…何もない45才のオッサンが正規雇用してもらっているだけラッキーと思わなきゃ!とは言えなかった。その代わりに僕は「給料いくらなら満足なんだよ?」と尋ねていた。「最低手取り35万」という回答に、思わず「無理だー!」と口に出してしまう。僕は今、管理職(部長)で労務管理とコスト削減に悩む毎日を送っている。そんな部長としての僕が顔を出してしまったのだ。無理無理無理、少なくともウチの会社じゃ未経験者にその額は払えない、きっつー、と。するとFは重い言葉を口にした。「20万が俺の価値なのか」と。

違う。とも言い切れなった。去年、Fがアルバイトを始めたときに僕はこんなことを言った。インディーズで、いい音楽をやって幸せそうなバンドもたくさんあると。それはメジャーな生き方以外にも生きる道はあるという意味だったのだが、伝わっていなかったみたいだ。そういえば、あのとき、Fはそれでもメジャーの方がいいと呟いていたっけ…。僕はFに無理に20年を取り戻そうとせずに、進んでほしかった。20年のロスは想像以上に残酷なほど大きいと思ったからだ。その時間を社会人として生きてきた僕と社会に触れていなかった人間との差は決して小さくはない。ましてや彼はAGE45。新卒というわけにはいかない。「何もしなかった国が悪い。無責任だ」と前置きしてから、Fは続けた。就職活動をしているとき、氷河期で入りたい会社・業界に入れず、入れる会社に入ったのが、そもそも失敗だった、個人ではどうしようもなかった、時代が、運が悪かった、その結果20万しか価値のない人間になってしまった、と。話を聞きながら、僕は「これがロスジェネ…」と複雑な気持ちになっていた。大学時代ふざけていた僕も、Fと同様に就職戦線で苦労し、運輸から飲食・食品という希望とは程遠い業界で今までやってきている。その一方、シビアな時代でも、自分の希望した道を歩いている者もいる。シビアな時代というのは、完全に道が閉ざされているのではなく《ハードル》が高くなっているだけなのだ。まあ、ツイていない、時代が悪かったというのは事実としてあるのだけれど、なんだか、Fの話を聞いているうちに、自分の20年間が否定されているような気がしてきた。僕は、「あのさ、いつまでも時代のせいにしてちゃダメだと思うぞ」とFに言った。「あのころはしんどかった」、それは事実で、国は何もしなかったかもしれないけれど、20年も経っているのもこれまた事実で、あの頃を生き抜いた人間は、ツイてなかったことも受け入れて皆、なんとかサバイブしてやっている、いつまでも時代が悪かったといっているのは、逃げているんだよ、と。「そんなことはわかっている」とFは言った。僕は追い打ちをかけようとしたけれど、Fに「愚痴を聞いてくれてありがとう」と言われてしまって何も言えなくなってしまった。

僕たちはロスジェネといわれている。失われた世代と。Fは不幸なことに、そのうえ20年という長い年月まで失ってしまった。若ければ…という仮定は虚しいだけだ。現実の僕たちは40代半ばで、残酷だが、その年月を取り戻すのはほとんど不可能だ。でも失い続けることはない。僕は彼に世間とはちょっとズレたところで居場所を見つけてほしいと願っていた。お金に換るできない自分の価値を見つけてほしいと。髪を切る順番が来て、席を立つFに「いろいろあるかもしれないけど、頑張ってよ」と声をかけることしか出来なかった。高校時代、あの夕暮れの音楽室、「くるみ割り人形」の連弾で、僕とFはそれぞれのパートを弾いていた。人生もそれぞれが任されたパートを奏でていると捉えられたら、いい。人生の折り返し地点をターンした僕は最近そういうふうに考えている。そういえば「くるみ割り人形」の連弾に失敗し、それをごまかすために11PMのテーマ(ダバダバダバってヤツ)を即興でやったのがいちばん楽しかった。いつからだろう?失敗を楽しめなくなってしまったのは。失敗を、再起不能な失敗と思い込んでしまうようになったのは。

Fはロスジェネに呪われている。いや、呪っている。僕はFについてはポジティブに考えている。呪いから解放されると信じている。なぜなら本人は「20万の価値しかない」と嘆いていたが、とりあえずスタート地点に立つことはできているし、僕らには、失われていないものもまだまだたくさんあるからだ。ピアノ連弾は人生に似ている。相棒が走りはじめたり、運指に問題があったら、演奏や言葉で伝えて気づかせるのがパートナーの役目。失われたものをいつまでも嘆いているほど人生は長くないし、人生は後悔のためにあるんじゃないってことを早く彼に気付いてほしい、失われた過去に縛られて未来まで失うことはない、そういう言葉を彼にぶつけていこう。厳しい言葉の羅列になるだろう。ウザがられても嫌われてもかまわない。床屋で髪を切られながら、僕はそんな誓いを立てていた。(所要時間32分)