例の「日本死ね」が煽り文句として最高なのは疑いようがないが、「死ね」という言葉の強さにぞっとしてしまう瞬間も僕にはある。人間は強い言葉に支配されるものなので「死ね」に同調して「死ね」「死ね」言いはじめる人があわられるのも仕方ない側面はあるけれども(「死ね」よりも弱い言葉では目立たない)、「死ね」と言われた側が必要以上に感情的になってしまうのもまた事実。
実際「死ね」と名指しで言われたようなものである日本国首相のアベ氏は「あべし!!」と断末魔の叫びを上げて保育園建設を具体的にぶちあげるでもなく「匿名である以上、真実であるかどうかを私は確かめようがない」などというぼんやりした答弁を若干キレながらしただけ。まあ、理由がどのようなものであれ「死ね」と言われたら普通の人間ならキレる。
僕も「死ね」と言われた経験がある。お付き合いをしていた女性からの別れ際の捨て台詞だった。お付き合いが深まりお突き合いとなり、悲しいかな、全裸パロスペシャルを申し入れたことがきっかけでどつきあいに発展し「アンタ頭おかしいよ。死ね。一度死ね。いいから今すぐ死ね」と言われたのである。僕もアベちゃんのように感情的になり、ブチキレ、ここに記すとフェミな界隈な人から袋叩きに遭うような醜悪な言葉を並べたてたのであった。以来、死ね死ね死ねと彼女に呪詛を吐き続けたけれど風の噂によればというか具体的にはフェイスブックの通知によれば彼女も昨年子供を授かったらしい。例の匿名ダイアリーを書いた人でないことを切に祈るばかりだ。
強すぎる言葉は副作用も強い。もっとも「死ね」くらい言わないと大騒ぎにならず本気で検討しようとしなかった政治はダメダメだけれども、同時に、追い詰められた一般人の「死ね」に釣られて死ね死ね言いはじめてる政治家やマスコミには冷めた気分になってしまう。一般人の問題提起のサインである「死ね」を翻訳するのがあんたたちの仕事じゃねーの?そのまま使ってどーすんの?死ねって追従してるけどあんたらが日本殺してない?って。「死ね」なんて言葉が氾濫する世の中を僕は見たくないけれども、死ねが氾濫している現実は既に世の中は死んでいるのではないかという絶望さえ僕に抱かせる。「ロンドン橋落ちた」の歌詞が「ロンドン橋落ちろ!落ちろ!落ちろ!」だったら殺伐としすぎて子供には聞かせたくないだろ?(所要時間11分)