Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

憎しみはクソになる。

憎しみからは何も生まれない。きれいごとではなく本当にそう思う。憎しみを出発点にしているかぎり、高くは飛べない。憎しみに足を引っ張られてしまうから。

僕は犬の散歩を眺めるのが好きだ。我が家は、車の通りがほとんどない、旧家や資産家が居宅をかまえる非常に環境のよろしい土地にある。前の小路は小鳥がさえずり、下水道のせせらぎが心地良く、人々の散歩コースになっていて、そこをいろいろな人たちが柴犬、チワワ、ブル、レトリバー、さまざまな犬たちを連れているのを眺めていると、僕は心がすっと落ち着く。こんな時間が永遠に続けばいいのにとさえ思う。「柴犬狩り」がはじまった今、その思いは強くなるばかりだ。一週間ほど前の話だ。ウチの前に大きなウンチが落ちていた。サイズと形状から人糞だと思われた。人糞を見つけたのは、僕で、早朝。発見時刻となかば液状化している人糞の状態から、酒をしこたま飲んだ人間が猛烈な便意を耐えきれず、「御免!」という一喝とともにパンツを下ろしブリブリブリと盛大にやらかしたものだと推測した。誰かが片付けてくれる、たいていの日本人のように僕も、見て見ぬふりをするつもりだったけれど、アスファルトの上にあるはずの人糞が、僕の頭の片隅から消えることはなかった。これが罪の意識というやつか。なぜ、僕が罪の意識、申し訳なさ、おもてなしの気持ちから他人様の人糞を気にしなければならないのだろう。僕は祈った。この人糞の施主も、少しでいい、罪の意識を持っていてほしいと。僕は、人糞に砂をかけ、時間をおいて水分を吸収させてから片付けた。かがんで処理をしてみて気付いたのは、人糞のサイズだ。大きい。「大きい…」と言われる側の人間で在り続けてきたので、他人のブツの大きさに免疫がなく、人糞の大きさに圧倒されてしまった。同時にこれは絶対に人糞だと確信した。否定しきれずにいた牛馬の可能性を切り捨て、この糞の主を女子学生と特定した。路上から立ったまま見ているときは人糞そのもので死角になっていた向こう側にポケットティッシューが添えられるように置いてあったのだ。そのポケットティッシューが無地ならば男性の可能性も否定しないが、ファンシーな柄が印刷されていた。仕事を持っていたら翌日を考えウンコを漏らすまで深酒をしない。それらの要素から論理的に人糞の主が女子学生だと導き出したのだ。それにクサくてデカくてキタない人糞の主が女子学生でなければ救いがなさすぎるだろう。僕は紙の前でだけは神を信じたい。僕の迅速な人糞処理が裏目に出てしまう。実は、女子学生の人糞があったのは隣家との境であった。隣りに住むオジサンは、顔を合わせれば挨拶をするくらいの関係だが気さくで優しそうな方だ。縁側で猫を撫でながらエサをあげているときの穏やかな表情を柴犬狩りがはじまってしまった今もはっきりと思い浮かべることができる。人糞はそのオジサンをダークサイドに転落させた。僕が人糞を処理した日の夕方、オジサンは貼り紙を人糞のあった場所の近くの壁に貼った。こんな文面だった。「いつもここで糞をしている柴犬!美化条例違反です!柴犬に糞をさせるな!柴犬に糞をさせるな!柴犬!」タイミングが一致するので、人糞か、僕の迅速な人糞処理がオジサンのトリガーを引いたとみていい。しかし、オジサンの柴犬に対する憎しみはどこからきているのだろう?義務教育を終えていれば、普通、あの糞のサイズからカワイイ柴犬の仕業とは考えない。そして、なぜチワワやブルやレトリバーではなく柴犬なのだろう。柴犬によって大けがを負ったり、柴犬にご両親を殺された辛い過去があるなら、理解できるが…。おそらく、オジサンは糞に悩まされていた。片付けても片付けてもそこにある糞糞糞。くっそー。おじさんは憤る。犯人は誰だ。どこのアホだ。張り込みをつづけるオジサンの前でかわいらしい柴犬がブリブリ!爾来オジサンは柴犬を狩る好機をうかがっていた。柴犬そこに巨大な糞が!暗黒面に堕ちているオジサンには柴犬の糞にしか見えない。この恨みはらさでおくべきか!こうして心優しいオジサンは柴犬狩りとなった。この悲しい実話を妻に教えたら「完全にキミのせい」と言われた。ホワイ?妻が言い分は次の通りである。《僕が謎の罪悪感により人糞を迅速に処理してしまったため、オジサンはチラ見した巨大な糞が柴犬のものだという思い込みを実物を再確認して修正することが出来なかった》《仮に僕が主張するように女子学生の糞だとしても、あのような憎悪に塗れた貼り紙を出されたら、お尻は出せても、出頭する勇気は萎えてしまう》《キミのせいで柴犬、人糞の施主、オジサン、散歩をする人たち、みんなが迷惑をしている、悲しみに打ちひしがれている》と。憎しみは何も生まない。ただし憎しみにはパワーだけはあるので、それをエネルギーに動くことは出来る。ただ、憎しみに引っ張られてしまうから、幸せな結果をみるのは難しいと僕は思う。オジサンは憎しみで判断力を失ってしまった。歪んだレンズで物を見てしまった。柴犬狩りの貼り紙が出されてから、犬の散歩をする人たちが、ウチの前を小走りで通過するようになってしまった。柴犬だけではない。ブルもチワワもレトリバーも。僕が永遠に続いてほしいと願った風景は憎しみの連鎖で喪われてしまった。妻は言った。「ひとつだけ解決できる方法があります」「教えてよ」「キミが出頭するのです。オジサンの怒りは鎮まって、犯人も逃亡できて、柴犬ちゃんの平和も少しだけ取り戻せます」うむ、確かに、大事なものを守るためには犠牲を払わなけれならぬ。でもなぜ僕がウンコ犯にならなければならないのか。マイ・トイレからそう遠くない隣家の前で深夜わざわざウンコをする方がヤバいような気がする。却下。たとえ大切なものを守るためであれ隣家の前で野グソするような野蛮人にはなれない。無実の柴犬には申し訳ないけれどさ。(所要時間26分)