Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

Hagex氏と飲んでます。

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神奈川県の隅っこまで僕を訪ねてきてくれた

HAGEXことハゲ子(id:hagex)と飲んでるよ。高知産のトマトを肴に生ビールを傾けながらゲスい悪巧み。意外なコンビでしょ。おほほほほほほほほ。(所要時間1分)

「生きにくさ」とは何か。

「生きにくい」「生きづらい」、そういうフレーズをたびたび耳にするようになったのは、いつ頃からだろうか?マスコミや広告代理店の活動の結果なのか、僕のアンテナのそういうフレーズへの感度があがったからなのか、わからない。おそらく両者だろう。

 確かなことは、生きにくい、という言葉に接するたびに、当事者ではなくても言いようのない閉塞感を覚えることだ。もっとも、生きにくさは、平成の世に、突如、出現したわけではなく、ずっと僕らのそばにあった。ただ、文化や生活のレベルが上がるにつれ、その内容が変わってきているだけのこと。たとえば、縄文時代の生きにくさは「今日は鹿が取れなかった。飯どうしよ…」という直接、命にかかわるような生きにくさが主だったが、現代社会のそれは(心身の病気のようないかんともしがたい事情からの生きにくさは別として)他人との関係性において感じるものが主になっている。生きやすくするための社会が高度になればなるほど、他人との関係性で生きにくさを感じてしまう。なんて皮肉なのだろうか。ひょっとしたらツイッターやSNSで生きにくいと呟くだけで、「僕も」「俺も」「私も」とあっという間に拡散、共有され、強固になってしまいがちな現代の方が、縄文時代の人間よりも、生きにくさの厄介レベルは上がっているともいえる。

 能力が劣っているから、見た目が平凡極まりないから、収入が少ないから、恋人がいないから。それら生きにくさの理由は全部、社会や他者との関係、比較で生じるものだ。クソ上司、アホ先輩、厳しすぎる妻、少なすぎるこづかい。自分以外に、多種多様な人間が存在している以上、世の中は生きにくいものなのだ。生きにくさとは「他人に自分を合わせる無理」である。皆、社会の中で生きていくうえで、多かれ少なかれ、自分を殺し、他人に合わせる、無理をしている。たとえば「こうした方がいい」「なぜあれをやらないの」「次はこれが来る!」こんな言葉に従いすぎてはいないか?いいかえれば、生きにくいとは人間であることの証明なのだ。もし、この文章を読んでいる人で生きにくさ生きづらさを感じている人がいたら、こう捉えなおして胸を張ってほしい。人間だから生きにくいのだと。ついつい人に合わせてしまう優しい人間だから、生きにくいのだと。

 もし、生きにくさが耐え難いレベルになったら、一度、人から離れてみるのもありだと僕は思う。いったん捨ててしまえ。山に籠って鹿を追ってウハー。素っ裸で滝にあたってウホー。他人を気にしないで生きてみれば、生きにくさは感じないのではないか。僕は都会生活の方が好きなので御免こうむるが、縄文人に戻るのはひとつの手段としてありだろう。なにがいいたいかというと、鹿狩りの魅力ではなく、とかく現代社会は人との繋がりを大事にしすぎているのではないかということ。繋がり至上主義のアホになっている。繋がりバカ。テクノロジーの進歩で、ライン、ツイッター、フェイスブック、インスタグラム、ハッピーメール、ぎゃるる、などなど、知らない人と繋がるチャンスは増えるばかりだ。繋がりが善意だけで構成されているはずがない。繋がりが増えれば、生きにくさも増える。ちょっとした意見の相違や犯罪まがいのトラブルも生じるだろう。人との繋がりを重視する一方で、孤独は避けるべきものとされすぎている。孤独が忌避される理由、それは人との繋がりは金を生むが、孤独は金になりにくいからではないだろうか。結局のところ、ビジネスになるかどうかなのだ。先ほど、これは無理、と思ったら繋がりを捨てて鹿を追えばいいと提言したのは、思い付きや勘ではなく、そういう背景があることを僕が経験と尋常ならざる観察眼で看過したからである。

 僕は生きにくさを感じない。そのせいでときどき妻から「キミからは人間味を感じない」と言われてしまうこともある。正確にいえば、僕は生きにくさを感じないようにしている。僕は人との付き合いにおいて、きっつーと感じるようになったら、その人を敵にしてしまう。生きにくさは人に合わせる無理。そういった無理をしないように自分を制御しているだけのことだ。おかげさまで敵ばかりで闘争も多く損ばかりしている気もしないでもない。もっとうまいやり方や付き合い方もあるだろうが、不器用な僕は、対象をエネミーにして、自分というものが影響されないようにしている。生きにくさのレベルは人それぞれなので、自分で対処法を見つけていくしかない。ただ、生きにくさを覚えるのが人間として当たり前であること、そしてその本質が人に合わせることによる無理、だとわかれば、付き合い方のヒントにはなるのでないかと僕は思うのだ。

 実は僕も最近イキにくさを感じている。よかった。僕はまだ人間であるらしい。綾瀬はるか様。深田恭子様。長澤まさみ様。冷めたカップラーメン。残り物のトコロテン。苦節40年。人生そのものといっていいほどの長い時間ををかけて体得したスキルをもってこれらを駆使しても、加齢のせいだろうか、全然イケない。僕にいわせれば、僕が目下直面しているイキにくさとの絶望的な戦いに比べれば、この国の皆様が感じている生きにくさなどは取るに足りない敵なのである。気楽に生きにくさと付き合おうぜ!ガンバレ、日本!(所要時間41分)

米山新潟県知事の辞職によせて。

米山新潟県知事と女子大生のけしからん交際発覚からの知事辞職!という一連の流れに際し、ざまあ、と思った心の汚い自分を今は恥じている。それが正義からではなく、嫉妬心や羨望や妬みからの「ざまあ」だったからだ。告白しよう。僕も、女子大生が、好きだ。定年まで働いたあとは、女子大のアルバイト警備員として女子大生を守りたい。それが僕の思い描く理想のセカンドキャリアだ。米山新潟県知事の会見を見て、僕が彼に感じたのは奇妙な純粋さである。そして僕は確信している。女子大生とお近づきになれるか否か、僕と知事との決定的な違いを生んだのは純粋さだと。能力ではない。東大出の医師免許と弁護士免許を所持する天才と、普通自動車免許といかんともしがたいEDを所持する僕とでは能力面では比べるべくもない。僕が知事に勝っているのは猜疑心の強さくらいのものだろう。

だが、女子大生とお近づきになれるか否かという重大な問題において、こうした能力の差は決定的な要因にはならないと僕は思っている。報道によれば知事はハッピーメールという出会い系サービスを利用して女子大生とリアルガチでお会いしてちょめったらしい。それを知ったとき悔しさのあまり僕は血が流れるほど唇を噛んだものだ。僕は手遅れと知りながら、ハッピーメールのアプリダウンロードコーナーを閲覧した。レビュー欄だ。「いいね!」「さいこー!」という利用者の声、声、声。これまでキャバクーラや店舗型風俗店で騙され、高い授業料を強制徴収されてきた僕には、こういう界隈のポジティブな声が、すべて嘘に見えてしまうのだ。全部ウソだ。みんなサクラだって。指名コーナーのお写真では麗しい御尊顔だった女性が、実際には元横綱朝青龍ことドルジさんにクリソツだった過去が僕を懐疑心の塊にしたのだ。あの夜ほどフォトショ加工を憎んだ夜はない。僕がハッピーメールをダウンロードしていても、どうせサクラだ、もしかしたら同性かもしれん、つってメッセージを送らなかったと思う。米山知事はちがった。ピュアな彼は女性陣の「新潟市在住のおじさまの好きの女子大生で~す!英文学を専攻してま~す」的はプロフを信じ、そしてメッセージを送ったのだろう。信じる者は救われるとは真理だったのだ。

1997年、米山知事が司法試験を受けて法曹への階段を上がろうとしているとき、僕はキャバクーラをハシゴしていた。真面目に学業に打ち込んでいれば、多少、世の中に疎くなるのは仕方がない。指名コーナーはドルジばかり、出会い系はサクラばかりという僕にとっての、いや、おそらく世間一般の常識は、世の中におぼこい知事にとっての常識ではなかったのだ。「サイトの向こうには出会いを求める女子大生がいる」そんな僕らにとってのファンタジーを、知事は純粋さで「おじさま好きの女子大生で~す!」をリアルに変えたのだ。先入観を持たず、疑わず、「女性にメッセージを送りますか?」でイエスをポチットできる純粋さ、それだけは尊敬に値する。先入観をもたないこと。これはビジネスにも通じることだ。先日、僕が先入観で儲からないと切り捨てた案件を、競合他社が軌道に乗せたという話をきいた。先入観がチャンスを潰すことがあること、そして純粋に信じることの大事さを知事は僕に教えてくれた。

誤解を恐れずにいえば、おぼこい知事の過ちは女子大生との付き合い方のみだ。女子大生は情熱的で燃えるような禁断の果実である。口にしてはいけない。ましてちょめちょめなど言語道断。近づきすぎてはならぬ。その禁忌を破れば、どれほど純粋な心を持つ者であれ、太陽に近づきすぎて翼を焼かれたイカロスのように墜落しても仕方がない。同じ趣味趣向を持つ者としては捲土重来を祈りたい気持ちも多少はあるが、今のところは、ざまあ、辞職やむなし、としか言えない。こんな心の汚い僕は援助交際もせず真面目に生きていても、永遠に女子大生と巡り合えないだろう。それだけが悲しい。(所要時間18分)

死を四次元ポケットに入れて

近所に住んでいたタカちゃんのお父さんが亡くなったとき僕たちはまだ小学一年生だったけれど、タカちゃんの家を取り囲んだパトカーや救急車の騒々しさと、普段は陽気なタカちゃんがお地蔵様みたいになっているのと、周りの大人たちの不穏な空気から、その死が普通じゃないことはなんとなくわかった。1980年(昭和55年)の初夏の出来事だ。当時、タカちゃんのお父さんは30代の半ば。平日の夕方、僕たちと遊んでくれる優しいおじさんであり、大きな友達だった。彼が病気で療養していたのだと気付くのはずっと後のことだ。どういう方法で命を絶ったのか僕は知らない。タカちゃんも知らなかったのではないか。ベーゴマ。メンコ。チョロQ。ルービックキューブにガンプラ。子供だったからだろうか、タカちゃんのお父さんについての楽しい記憶は断片的。バラバラで繋がっていないのだ。顔や声も思い出せない。ただ、身近で遊んでくれた人間が普通じゃない亡くなり方をして消えてしまったことが、とても怖かったことだけはよく覚えている。

しばらくしてタカちゃんのお母さんが車で、神奈川の丹沢にあるタカちゃんの親戚のウチに遊びに連れて行ってくれた。キーキー鳴くカミキリムシやどこかコミカルなカブトムシのサナギをそのときはじめて僕は見た。その帰り道に秦野のイトーヨーカドーへ立ち寄った。タカちゃんのお母さんが買い物をしているあいだ、僕たちは階段の踊り場で買ってもらったアイスクリームを舐めていた。夕方で、川の向こうには山の連なりが見えた。タカちゃんはアイスクリームを舐めながら「お父さんにはならないぞ」と言った。表が明るいせいで影そのもののようになったタカちゃんがどんな顔していたのか思い出せない。僕は何も言わなかった。何を言えばいいのかわからなかったのだ。40年近くたった今も、あのとき言うべき言葉を見つけられない。もしかしたら、そんなものはないのかもしれない。当たり前にいつもそこにあった時間や生活が、次の瞬間、夏の花火のように消えてなくなってしまう儚さに子供ながらに堪えていたのだ。テレビの中の四次元ポケットやタイムマシンは僕らをおおいに勇気づけ愉しませてくれたけれど、現実の僕らを助けてはくれなかった。救いはなかった。ちっとも。

それから間もなくしてタカちゃんは引っ越してしまった。僕の家から歩いて30分のアパートへ。たった30分の距離だったけれど、以前のように遊ぶことはなくなった。距離だけが犯人ではなかった。僕の両親がタカちゃんの家に遊びに行くのを控えるように言った。ご迷惑になるから。ご迷惑になるから。多分、僕がタカちゃんのところへ遊びに行けば、以前とおなじようにご馳走になったり、遊びに連れて行ってもらうことになり、それが迷惑になるという意味だったのだろう。たとえ親に言われなくても僕は自らの意思でタカちゃんと遊ばなかったと思う。タカちゃんと遊んでいると自分も同じ目に遭ってしまう。未知の熱病のようにうつってしまう。そんな気がしたのだ。僕はタカちゃんを忌避したのだ。まさか10年やそこらで、僕も父をタカちゃんのお父さんと同じような形で亡くしてしまうなんて。

父も同じように初夏だった。父の葬儀にはハイティーンになったタカちゃんも来てくれた。僕はなんだか後ろめたい気がして彼から目を逸らしたものだ。僕にはタカちゃんという身近で便利な四次元ポケットがあった。僕は四次元ポケットから昔を引っ張り出した。具体的なものは何もなかった。ただ、勇気づけられた。まだ小学生のタカちゃんでさえ出来たのだから、やりぬけたのだから、自分にもできる、乗り越えられる、と。僕はタカちゃんを忌避しておきながら図々しくも彼を利用したのだった。図々しさは無情な人生や神様に立ち向かえる唯一の武器だと僕は思う。2018年、僕は今44才で人生の折り返し地点をターンしたところだ。最高な人生とはいえないけれども、まあやっていられるのは、たまたまのラッキーだと思っている。人生はタイトロープみたいなもので、神様がくしゃみをすれば、谷底に落ちてしまう。僕もまた父たちのように落ちてしまうかもしれない。何年か前、小田原のショッピングモールで偶然、タカちゃんを見かけた。色黒で痩せているのは変わらなかったけれど髪は薄くなっていた。立派な中年男だ。

タカちゃんは嘘つきだった。お父さんにはならないはずのタカちゃんは子供を二人連れていた。色黒で痩せっぽちの男の子。1980年のタカちゃんがそこにいた。あのヨーカドーも閉店し、一緒に遊んだ町も既に様変わりしてなくなってしまったけれど、1980年のタカちゃんは父親になったタカちゃんとそこにいた。人生はタイトロープで紙一重。ほんの少しのことで、うまくいったりいかなかったりだ。人の力は及ばない。それはわかっているけれど、僕はお父さんになったタカちゃんにふたたび強い風が吹かないように祈った。図々しいけれど、祈るくらい、いいだろう?(所要時間24分)

入社8カ月で管理職になるためにやったこと全部話す。

以前、この場で労働環境を整備するためにやったことを書いた。その冒頭で営業の責任者になるとサラっと書いていたが、今回はその過程について語りたい。

delete-all.hatenablog.com

この4月から営業開発の責任者(部長)になった。実は、入社する際、ボスに対して自分を高く売り込んでおり、それが少々ハッタリをかましたものだったので、試用期間中はいつクビになるか、ビクビクしていたが、万事うまくいったといえる。ラッキー!のひとことで片づけるのもつまらんので、昨年8月まで無職ときどき駐車場アルバイトの僕が、そこそこの規模の企業のそれなりのポジションに就くことが出来たのか振り返ってみたい。

僕はブラック企業に勤めていた。らしい。らしい、というのは僕自身にブラック企業に勤めていたという実感があまりないからだ。17~8年間ブログを書いてきてよかったことなどほとんどないけれど、無理にひとつあげるとするならば、読んでくれている人たちから僕の(かつての)職場がブラックではないかと指摘を受けたことだろう。ホンモノの一流ブラック企業は社員をマインドコントロールしているので、社員にブラックに務めているとは思わせない。実際、僕も仕事がキツイのは自分の能力が著しく劣悪だと思っていたし、当時一緒に働いていた同僚たちも同じだったと思う。

おかげさまで現在は本当にホワイトな環境で楽しく働けている。ちょっと気になるのはピュアな気持ちで仕事に向き合っている同僚が多いこと。そういう環境なので僕のように、仕事や上司に対して懐疑心を持っている人間は周囲から浮いてしまう。この「浮いている」が僕のストロングポイントだと気付くのにそれほど時間はかからなかった(昨年の9月くらいか)。

僕はブラックにいた経験をフルに活かすことにした。入社した当初、僕はリーダー(主任、課長)という立場を与えられ、ボスからは「キミのやり方で新しい営業チームをつくって欲しい」と言われていた。今の職場の同僚、特に若い人たちは、理想と現実的な目標を混同しているような印象があった。「高すぎる目標に向かってみんなでガンバロー」「夢がよりよい自分を形作るよー」みたいな気持ちのいい働き方というものを僕は信じられないし、信じない。薄気味悪っと思うし、ともすると高すぎる目標や夢は、その達成のむずかしさゆえに達成できなかったときに逃げの理由になることを前職で思い知らされてきた。例)前の会社「目標は売上対前年300%!」→「ダメだったけど、理想を追っている俺たちカッコいい」アホすぎる。

僕は、チームの目標を思いきり低く設定した。低くした分、細かく、そして多くの目標を設定した。営業活動開始時間や帰社目標時間を厳密に定めて、営業活動にかかわる最低時間@日を定めた。売上ノルマに直結する訪問件数や見込み客獲得数をプラスに評価するのは当たり前だが、たとえばノルマに直結しない、交通費の精算や事務作業にかける時間をどれだけ削れるかに目標を設定した。夢や希望はないが確実に達成できることの積み重ねを重視し、毎日のミーティングでチーム達成率を発表した。出来なかった目標はどんな小さなものでもその原因と対策を見つけるようにした。偶然も味方してくれたが、この積み重ね作戦が功を奏し、大型案件成約につながったのだと思っている。

それと同時に僕はチームで戦うことを重視した。繰り返しになるが今の職場の同僚は基本的に仕事ができる。ひとつの案件に対しても全力で取り掛かってくれる。ひとりで結果を出してくれる。ありがたいが僕はそこが信用できない。うまくいったときはいい。うまくいかないときが問題なのだ。信用できない。営業マンが、一匹狼であることをいいことに、「俺の仕事」といって仕事を自分ひとりで持ち抱え、よくわからない理由で失注する様を何百回と見てきた。ブラックボックス化してしまうのだ。それに全力で取り掛かるというのは、余裕がないというか視野がせまくなることにつながりかねない。その結果、クライアントへの提案がおろそかになることもある。

案件をブラックボックス化させないために僕がやったのは、案件に対して担当者を必ず2名置いたこと。その2名は固定チームではなく、案件ごとに組合せを変えた。目的はチームで戦っていることを意識させることと、組合せを変えることによりなるべく仕事に対する鮮度を維持すること、うまくいったときは成功体験を共有し、うまくいかないときは失敗の理由を明確にすることだった。すべてがうまくいっているわけではないが、失注した案件の理由は明らかになっているので、これから効果がでてくるはずだ。

3点目、報告の方法をあらためた。具体的には営業日報という慣習を廃止した(試験的に今年3月まで。結果が良好なためこの4月で廃止)。パソコンのフォームにその日の行動と結果を入力していくのだが、前の会社で何人も営業日報バカを見てきたので、ボスにかけあって廃止した。営業日報バカとは日報入力を仕事のすべてととらえたり、虚偽の報告をする人間である。たとえば、営業日報バカは「4月10日午前10時。海山商事の総務担当A課長と面談。前回訪問時に口頭で説明した提案Bの反応をうかがう。社内調整不十分を理由に今回の導入は見送られたが前向きな感触を得る」ともっともらしく全部虚偽の内容を報告するのである。面談もしていなければ、提案もしていない。「口頭で説明」なので物証がないうえ、前進も後退もしていないが前向きという謎の記載で上からの監視(「まあ、動いていないならいっか…」)をかわすのである。もちろんA課長は架空の人物である。無駄すぎる。

営業日報の全てを否定するわけではないが、あれを入力することがイコール営業の仕事ではないし、僕からみれば時間を無駄にしている側面が大きすぎる。さいわい、今は重要な報告は上がってくる環境にあるので、日々の細かい報告については、僕が週イチくらいの頻度でアトランダムにチームのメンバーを個々に呼んで、10分ほど時間をもらってヒアリングする方法を採っている。営業日報にかける時間を削減(30分)でき、その分を営業活動にあてることができている。8時間の所定労働時間のうちの30分は大きい。

以上3点を僕は変えた。ひとつひとつはたいしたことではない。これらだけが僕を管理職に押し上げたわけではない(大型案件を受注できたのが大きい)。ただ、新参者の僕が一気に行ったこと、そしてホワイトな環境をより良くするために行ったこと、このふたつについては達成感はある。そして何よりもホワイトな環境ゆえに安定している社内に変化を起こしたことをボスは評価してくれた。すべてブラック企業に勤めていたときに経験したこと、反面教師的に学んだことを活かしただけだ。その根底にあるのは、猜疑心と他人の能力への不信感である。3つの改革は、すべて誰も信用できないという地点を出発点にしている。短期間で他人を信用できない人間にしてくれたブラック企業には感謝している。いつまで今の職場にいるかわからないけれど、辞めるまでに、若いスタッフのヤル気を搾取しないような仕組みだけはキッチリとつくって、僕のような不信感の塊が生まれないようにしておきたいと考えている。(所要時間36分)