Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

イジメと人の痛みを想像することについて


「抱き枕はね、泣き枕なんだよ。でね、腕枕は夢枕なの」妻が寝室でそんなことを言うようになったのは「イジメ」の話題でニュース番組が騒然としはじめたこの初夏の頃で、妻は、中学生時代にごく短期的にではあるが無視、シカトという卑劣なイジメにあっていたらしい。当時、妻は毎晩枕を抱いて泣いていたそうだ。「悲しかった?」「ううん悔しかった」大丈夫これからは健やかなるときも病めるときも選挙のときも僕が守るから。抱き枕になって。腕を枕にして。

 ナカムラのことを思い出す。四半世紀前。ヤンキー全盛期。僕が通っていた中学もシンナーカツアゲリーゼント暴力イジメ…それなりに荒れていた。中途半端に荒れた中学に二学期途中という中途半端な時期に転校してきたナカムラは、小柄で弱々しく、格好のターゲットに思われた。転校してきた当初、友人はおろか話し相手も皆無だったからだろう、ナカムラはいつもノートやプリントの裏にマジンガーZの落書きをしていた。今もはっきりと覚えている。ナカムラが、マジンガーZから目を離して上級生ヤンキーが誰かをイジメて殴っている廊下を見つめている姿を。その力のない目を。痛そうだな、という抑揚のない声を。


 他者を傷つけるのは他者の痛みに対する想像力が欠けているからじゃない。確かに他者の痛みを本人と同じように深く感じることは難しいが、人の痛みの表層を想像することは容易に出来る。だからこそ他者を痛めつける。傷つける。ホラー映画をつくるようなものだ。こうしたら人は痛がる、怖がる。人の痛みを、恐怖を、その表層を想像できるから、嫌いな奴を、ムカつく奴を、怖がらせたい、痛みを与えたい。ある種の人間にとってそれは娯楽なのだろう。「あんなに泣いている」「嫌がっている」俺ならイヤだ。でも嫌いなアイツなら。


 上級生ヤンキーが嵐のような暴力を廊下でふるっているとき、痛いか、痛いだろうと叫んでいた。的確にダメージを与えていた。その顔は、元々不細工という要素を考慮しても、この上なく、醜かった。上級生ヤンキーは教師たちに取り押さえられた。水を被って頭を冷やせ。自分の顔を鏡で見てみろ。そうだ。他者を痛めつける傷つける人は痛めつけている最中の自分の顔の醜さを想像する力が欠けている、いや…想像力を向けていないだけだ。大多数の人は他者の痛みや気持ちを想像できているから他者を傷つけないのか?違う。醜い自分は見たくない。そこじゃね?


 ナカムラ。ナカムラは利口だった。あいつは上級ヤンキーグループに取り入って一員となり、恐怖のヤンキー「ゼット」となり全校に名前を轟かせた。ゼットの暴力は壮絶なものだった。僕も一度からまれたことがあるが「マジンガーZいいよな」と言ったら見逃してくれた。「決まってる。マジンガーは最高だ。グレートマジンガーはクソだけど」マジンガーZの最終回。マジンガーZがボロボロになるまで助けに来ないグレートマジンガーはナカムラZにとって許せないものだったらしい。それならイジメや暴力はするなよと思うが、まあナカムラにとってマジンガーZは己を映す鏡だったようだ。僕は思う。確信している。あの、上級生ヤンキーが暴力をふるっていたとき、ナカムラがバイオレンスな廊下ではなく、手元のマジンガーZや窓に映った自分の顔を見ていたら、凶悪ヤンキーゼットは生まれなかったと。


 「抱き枕は泣き枕なんだよ」。昨夜も妻は言った。大丈夫。これからは僕が守る。僕が、君の、抱き枕だ。決して泣かせたりはしない。人の気持ちや痛みを表層だけでなく想い、理解することは難しい。もしかすると不可能かもしれない。今、僕はいじめられていた妻の痛みを理解することも、いじめのニュースを妻と同じように胸を痛めることは出来ないし、妻も僕の気持ちはわからないだろう。けれどわからないからこそ思いやることができる。理解しよう知ろうという気持ちになる。わからないからこそ際限がなく、これは素晴らしい断絶。目が開いてる時間、僕は、今オレはどういう顔をしている?オレは醜い顔をしていないか?自問自答しながら生きていく。それは、他者を傷つけないための自戒であり、祈りだ。眠りの時間。「おやすみ」と僕が言い「おやすみなさい」と妻が返す。僕が君を守る。それから僕は寝室を出て、別室に移り、一人で寝た。


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