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Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

ミス・プリンセス細胞をみくびるな。

日記

 『プリンセス細胞』という言葉を知ったとき、その語感から僕は、ある一人の女性を記憶の中に呼び起こしていた。それからというもの、記憶の中にあらわれた彼女の丸顔は、真昼の月のようにひっそり、それでいて図々しく、僕を見下ろしている。
 
 偶然立ち寄った街のファストフード店でその女性は働いていた。十数年ぶりの再会。僕は嫌みでも何でもなく、誇り高い彼女は自称実業家と結婚して、自ら経営する無国籍カフェで「創作という名目なら何をしても許される」という誤解に基づいたワンプレートランチ(無農薬野菜使用)を出したり、自己愛に満ち満ちたブログを書いてシンパからチヤホヤされているものとばかり思っていたので、意外だった。
 
 彼女は悪くいえば苦手、よくいえば嫌いなタイプの女性だった。もっとも彼女が、僕の四十年という中途半端な長さの人生において、特別にイヤな人間であったわけではない。特別に凄くイヤな人間だったというだけだ。言いかえるならば、アンパンマンのような顔でお姫様のような振る舞いをする彼女が、性的な意味ではなく、純粋な意味でガマン出来なかったのだ。

 女性をアンパンマンと呼ぶのは忍びないので、僕は彼女のことをアンパンマン子と呼んでいた。僕の頭には、アンパンマン子の悪夢のような自己紹介が便器に付着したしつこい汚れのように、こびりついて離れないでいる。

 大学に入学した直後の、いささか遅い時期におこなわれた花見の席でのこと。アンパンマン子はありきたりの挨拶のあとで「今日は『肉じゃが』をつくってきました!」と言った。直後、うぉー、男たちの爆発のような歓声。法律学科の僕のクラスには女性が4人しかおらず、憧れのキャンパスライフとの落差を埋めるには、とりあえず熱狂の炎に身を置いて炙られるようにして盛り上がるしかなかったのだ。


 「あまり上手じゃないけどぉ」アンパンマン子が作ってきた『肉じゃが』は本人が謙遜する以上に酷いもので、芯は岩石のように堅く、じゃがいもには芽が丸々と残っていた。僕はじゃがいもの芽を食べる仲間達をただ眺めていた。
 


 《何をしても周囲の男たちはチヤホヤしてくれる》。


そのとき、無駄に聡明なアンパンマン子が直感的に自分の環境の良さに気付いたのは想像に難くない(以降の大学生活をアンパンマン子はお姫様のように振る舞うことになる)。人生初めての、アタシキテル感、ほとんど劇薬のような刺激を、大人が細胞の奥底に眠らせている決して目覚めさせてはいけない「私はお姫様かも」という子供じみた願望に受けたアンパンマン子が「今までの人生は間違っていた!」と覚醒、それまでの暗黒人生を初期化してブレークスルー、プリンセスに変態を遂げたのも仕方のないことだ。
 


 モテそうにないメンズの世界で、ルックス的に平凡な女性が女神のごとき扱いをされるのを時々目にする。カルト教団、テロ集団、結婚詐欺界、理化学研究所も然り。モテない男たちが大多数を占める世界で、ごく少数の女性がチヤホヤされる。


「私はこんなはずじゃない」「私は輝ける」「私はもっと高みへ行くべきだ」「悪いのは周り」「見て。地方のダサい人にはわからない私のシティなセンス!才能!」と常日頃思いつつも認められずに鬱屈した女性が覚醒するのも無理がない。僕が、キャバクラでチヤホヤされて気持ちが良くなってドンペリを入れてしまうのと同じことだ。
 


 仮にアンパンマン子が、理化学研究所的環境とは180度異なるイケメンパラダイスに放り込まれ、適度にチヤホヤされるだけだったなら、自室の畳を引っ掻いたり、天井板の継ぎ目の線でアミダクジをするような夜を過ごしていたはずだ。つまり、無理やりに持ち上げる周りのモテないおバカな連中が元凶なのだ。養分なのだ。
 
 アンパンマン子を決定的に嫌いになったのは、それからしばらくしてからだ。生活が苦しかった僕は飲食店でほぼ毎日アルバイトをしていた。今はもうなんとも思っていないし、些細なことで覚えていることが恥ずかしくもあるのだけど、既にプリンセス化していたアンパンマン子はそんな僕に対して「アルバイトなんかして楽しいの?」「飲食店なんかじゃなくて他になかったの」と言ったのだ。「なんか」と言われたとき僕はこの人間を嫌いになろうと決めた。
 
 ある日クラスの飲み会が突然中止になった。理由はアンパンマン子の都合が悪くなったから。どこかのバカが、アンパンマン子が来ないと飲みがはじまらないと建て前を言うと、それを真に受けたアンパンマン子が「そこまで言われちゃうとなぁー。迷惑かけちゃうのもアレだしぃー」とクネクネしながら言い放った。アンパンマンなら殴っていたと思う。


 アンパンマン子のほぼ球体の頭蓋骨からスプレーで固められた前髪(工藤静香をイメージしたらしい)が、虚空を掴もうとする熊手のようで不気味だった。それからアンパンマン子は長い髪を一房、指で巻くような仕草をしながら「あーなんか飲みたい気分ー」とアンニュイな感じの口調で言ったとき僕はこの人間を死ぬまで嫌いでいようと決めた。
 
 その夜のカラオケで「うれしっ!恥ずかしっ!朝帰り!」とドリカムを歌うアンパンマン子からは身勝手な夢を叶えた者特有のウザさしかなかった。帰り際、調子に乗って飲み過ぎたアンパンマン子は僕に「ネコちゃんのバッグ、持ってきてー」と命令した。何様のつもりだ。激高した僕は忌々しいネコちゃんバッグをカラオケ屋の植え込みにぶち込んで退散した。
 
 卒業までに周りの友達たちからアンパンマン子と関係を持ったことを聞かされた。何度もだ。カミングアウトする友達は皆、なぜか同じように二人だけで飲みたいと僕を場末の飲み屋に誘い、アンパンマン子の痴態について、参ったような、まんざらでもないような様子で僕に語った。僕は、まあまあだよね、意外と普通かな、と語り部に合わせて首をふるしかない。実のところ僕はそういった話を聞かされるたびにアンパンマン子のアンパンマン子を想像して吐きそうになっていた。すべて懐かしくも忌々しい思い出だ。僕は遂にアンパンマン子から誘われることはなかったけれども。 
 
 あれから十数年が経った。そんなアンパンマン子がファストフード店のカウンターを挟んだ向こうにいる。アンパンマン子は僕に気づいている。丸い顔中の筋肉で表情を動かさないようにしているのが見てとれた。


「飲食店なんかでアルバイト」十数年を経て蘇るアンパンマン子の声。今の姿を僕に見られたくはなかったろう。ベッドに誘わなかった僕に見せたくはなかったろう。僕は大人だ。僕に対して不敬を働いたことや、クラスで僕だけをベッドに誘わなかったことについて、恨み言を言うつもりもそれほどない。
 
 僕らは居場所を見つけた。僕はインポテンツ、彼女はファストフード。その場所が望んだものではないとしてもそこは確かに僕の、僕らの守るべき、戻るべき場所なのだ。あのネコちゃんのバッグだってすぐに自分の場所に戻ってきた。大事なことは赦すこと。受け入れることだ。僕はあの頃の僕を赦し、受け入れるために、たびたびこの街のこのファストフード店に立ち寄っては、彼女の丸い顔をニヤニヤ見つめようと思っている。
 


■「かみプロ」さんでエッセイ連載中。「人間だもの。」http://kamipro.com/series/0013/00000