「湘南国際マラソン大会に出場する社長を自主的に参加しよう!」と会社から言われたのは昨年に続き二回目だ。開催日は日曜日=休日なので、黙殺しようと思ったが、総務や人事が「業務命令ではないが不参加の場合、別件で不利益を被ることがあるかもしれないしないかもしれない」などと不吉なことを言うので参加せざるを得ない。
己の趣味と健康のためだけに激走する社長へ、私たちはあなたを応援に来ていますよ、己の会社内の立場を守るためだけに大声でアピールする。使用者と労働者。二種類の生き物がもがき、苦しみ、必死に生きようとする姿は実に美しい。自主参加なので手当はなく、あるのは出欠確認のみ。別の言い方をすれば社長を慰労するために派遣されるボランティア。
ボランティアといえば、災害対応で残業をした公務員への残業代の金額がニュースになっていた。市議会の一般質問に対する市の答弁で残業した公務員に支払う多額の残業代が明らかになり、「ボランティアは無償であるのに…」と疑問の声があがっているらしい。この話が本当なら、僕は、怖いと思った。支払われた残業代の額とボランティアへの対応を見直すのは全く別の話。異なる話を一にして人様の正当な権利について文句を言えてしまうのは、ひどく暴力的に思えた。
当初、僕が怖いと思ったのは、公務員への残業代いかがなものかと考えている人たちが正義に酔っていることだった。その盲信による思考停止状態が怖いと。でも今は正義に酔っての言動であって欲しい。なぜなら、彼らの言動と疑問が、残業代の金額の多さへの妬みから来ているのを自覚していて、それを隠すために無償で働くボランティアとの対比を持ち出したように見えてきたからだ。正義ですら道具にしている。その方がずっと恐ろしい。どちらが現実なのかはわからないが、ボランティアの人へのリスペクトを欠いてる点が拒絶反応を起こしてしまうのは同じだ。公務員の残業代を疑問視する彼らはその金額が数千円程度の額でも同様の疑問を持つのだろうか。
マラソンの沿道で人事の人が「改革が奏効して離職率が改善した」と言った。退職金制度の廃止、新卒採用の見送り、会社主催のバーベキュー。それらの改革が改革が寄与したと考えているらしい。マラソン応援も改革の一環らしい。どうかしてる。二十代社員全てが退職し、残っているのは定年まで数年の五十代と伊達と酔狂の僕みたいな人間だけ。つまり辞めようとする人間はもう出尽くしている。出涸らしカンパニー。急にアホらしくなってきて口が出てしまう。
「現実見てくださいよ。そんなアホ改革で改善するわけないでしょ。退職金ないから定年まで働かざるを得ないだけっすよ。今すぐに出来る改革を教えましょうか?」「何?」「今日のこの応援に手当を支払うんですよ。そうすれば少なくとも年内僕は辞めません。約束しますよ」「無理だ」「何でですか。ぶっちゃけ仕事ですよこれ」「違う。あくまでこれはボランティアだ」彼は彼なりの正論で逃げた。有意義な議論をしているうちに社長が通り過ぎてしまっていた。応援アピール出来なかった。仕事をやり損ねた僕は会社員失格。でも構うものか。ペナルティーはどれだけ悲観的に見積もっても左遷くらいのものだろうから。
「ボランティアの人にも金銭的なものを」「ボランティアは無償でやるものだ」どちらも正しいのだろう。けれど正義や正論は、ただ、使えばいいのではなく、正しく使わないとダメなのだ。さもないとその正しさが人をを傷つける暴力にだってなりかねないから。当該公務員の正当な権利に文句のある方々に僕がいいたいのはただひとつ。他人の正当な権利に文句をつけている暇があるのなら、僕の会社に来て正当な手当を貰えるようシュプレヒコールのひとつでもあげていただきたい。それだけだ。
(この文章は007スペクター鑑賞前の20分間を利用して書かれた)