Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

非正規から正社員へステップアップする知人の覚悟が悲壮すぎて絶句した。

地元のスナックで前の会社で同僚だった男と再会した。彼は、ちっぽけな自尊心ゆえだろうか、派遣なのか期間工なのか、詳しいことを語ろうとしないので詳しくは知らないが、退職後は、いわゆる非正規雇用といわれる立場で働いていた。所属部署が違ったので彼の働きぶりや能力は知らない。僕が彼について知っているのは「真面目で言われたことだけはしっかりやるが愚痴っぽくて陰気」というビミョーな非公式評価くらいだ。

その彼が、この春から正社員になるという。前の会社を辞めて、6年に及ぶ時給生活を経て、ようやく訪れた50才の春。「よかったですねー」といいながら、僕は彼を正社員として採用する会社があることに感動していた。実感が伴わず、ともすると幽霊みたいに思えたアベノミクスの効果を、はじめて目の当たりにした気分だった。僕も昨夏まで8か月続いた無職期間で、再就職のつらさをこれでもかと世間から思い知らされた身分だ。40超の平凡な男がそれなりの待遇で再雇用される厳しさはそれなりに知っているという自負がある。だから目の前にいる、あのあのあの、つって、自信なさげでまともに目を合わせられないこの男を正社員として雇用するほど余裕のある企業の実在を信じることが出来なかったのだ。「人違いあるいは何かの手違いでは?」失礼ながらそう思わざるをえなかった。

「年に一度の苦しみから解放される…」「会社の方から契約更新の際に…」「やっと有期雇用から逃げられる…」軽く乾杯をして話を聞いているうちに僕の疑念は現実のものになっていった。もろに無期転換ルールの適用例だった。労働契約法の改正について〜有期労働契約の新しいルールができました〜 |厚生労働省 「本当に正社員なのか」僕は彼に尋ねた。確実に、待遇は今よりも良くなるのか?会社からは正社員という言葉を引き出せているのか?と。彼は胸を張って言った。僕はこのときほど自信に満ち溢れた中年男を見たことがない。そしてこのとき覚えた絶望の深さも滅多にお目にかかれないレベルのものだった。「会社は私を評価してくれていますが、厳しい状況なので給料は現状維持と言われました」。齢50才の男が時給1000円で満足する世界。ここは地獄か。それ評価されていないよと核心を突くと彼は大きな声で「でも契約期間は無期なんです!正社員です!常勤さんと一緒なんですよ」と言った。彼の職場では正社員を常勤さんと呼ぶらしい。常勤さんとそれ以外。常に勤めているのは一緒のはずだ。僕は両者の間にそびえたつ高い壁の存在を感じた。

僕は今まで何で辞めなかったの?と訊いた。彼によれば「法的に有期雇用契約は途中で解除できないと会社から説明されていた」らしい。確かに。労働契約法ではこう定められている。

第十七条  使用者は、期間の定めのある労働契約について、やむを得ない事由がある場合でなければ、その契約期間が満了するまでの間において、労働者を解雇することができない。

 つまり「やむを得ない場合」があれば《使用者から》中途解約が可能とされている。で「やむを得ない場合」に中途解約できる根拠が民法の条文にある。

第六百二十八条  当事者が雇用の期間を定めた場合であっても、やむを得ない事由があるときは、各当事者は、直ちに契約の解除をすることができる。この場合において、その事由が当事者の一方の過失によって生じたものであるときは、相手方に対して損害賠償の責任を負う。

 この条文では労働契約法「各当事者は」されており、「やむを得ない場合は中途解約可能」が使用者と労働者双方に適用されることがわかる。つまり、就業規則等で定められていない場合、労働者からも「やむを得ない事由」がない限りは、有期労働契約と中途解約することはできないのが原則になっている。らしい。これのことであろう。彼は、本当かどうかわからないが、今まで転職するチャンスがあったけれど中途解約が出来ずにズルズル来てしまったと言う。そして契約更新のタイミングには転職チャンスはなく、止むを得ず更新…という感じだったのだろうか。僕からいわせれば、もう少しファイトすれば何とかなったのではないかと思うのだが、悲しいかな、彼はそういう人間ではなかったのだ。

モヤモヤする僕に彼は言った。「そういうわけで私は晴れて春から正社員なんですよ」。時給1000円のどこが正社員なのだろうか。僕の疑問を察した彼は諭すようにこう言った。「あなたは正社員として働いています。確かに私より給料や肩書は上なのかもしれない。だが、あなたより給料の低い人が正社員ではないわけではないですよね。それは待遇と立場の違いであって、正社員かどうかではない。それを前提に、あなたに聞きます。正社員て何ですか?」僕は返答に窮してしまった。正社員、正規雇用と言いながら、いざ、明確な定義を持っていなかった。「強いて言えば契約期間がないのが正社員かな…」僕は誘導尋問に導かれるように答えじゃない答えを口にしていた。「ですよね」彼はドヤ顔で首を縦に振って続けた。「だから私は正社員なんですよ」。

なんだか気の毒で、哀れすぎて、我慢出来ずに「悪い条件で塩漬けされているだけだよ」と僕は言ってしまう。その、僕の心ない言葉に対する彼の答えが悲壮すぎて僕は思わず絶句してしまった。「全部わかっているんですよ。本当は正社員じゃないって。都合よく使われているだけだって。でも、無期になったことを正社員になれたと頭の中で変換すれば、生きていける。どんな形でも、必要とされていることには変わらないのですから」。この覚悟の言葉を受けて3日経ったけれども、僕はまだ返すべき言葉を見つけられないでいる。(所要時間31分)