Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

「サボっていいですか?」を叱るべきか怒るべきか

「叱り方」と「怒りのコントロール」をテーマにしたセミナーを受けた。ほぼ同時に二つもだ。みずから進んで受講したわけではない。社長の命である。仕事だから仕方ない。眠らずにいられたのは、テーマに興味があったから、ではなく、レポートを書く必要があったからにすぎない。ただ、それらのセミナーの内容に僕は今少々混乱している。一方が「叱るときは絶対に怒ってはいけません」という、いわば怒り排除を謳えば、もう一方は「叱るときに怒るのは構わない。ただし怒りはコントロールしましょう」と仰る次第なのだ。人間には喜怒哀楽があるので、それを排除するのは不可能だと思われるし、激しい怒りを完全に制御するのも然り。両者に共通するのは己の感情を客観視しろという点であり、そのうえで排除するか制御するかの対処の違いがあるだけである。ひとことでいえば感情的になるな、なりすぎるなということだ。素晴らしい。

話を聞いただけで出来れば本当に素晴らしい。だが経験もなく怒りを制御できるだろうか。僕は疑わしいと思う。仕事上の怒りはこうしてほしい、こうあるべきというこちらが設定した「べき」と、過程や結果がかけ離れたときに起こる激情だ。「べき」は経験によって形作られる。あるいは想定された「べき」は経験で修正される。いずれにせよ経験が不可欠だ。僕は仕事で叱るとき、ほとんど怒りを覚えない。育ちがいいから、そして経験があるからだ。ドイヒーな同僚しかいない会社に勤めていたとき、常に裏切られ続けたため、この「べき」が僕は著しく低い。

運輸、食品。ブラッキーになりがちな業界を僕は渡り歩いてきた。諸事情で倉庫に飛ばされたとき(「追い出し部屋」に飛ばされたことありますか。 - Everything you've ever Dreamed)。新人クンに、中身は忘れたが三つある段ボール箱のうち、ひとつを持ってきて欲しいと分かりやすくペンでマークまで書き込んで頼んだら、ご丁寧にマークのない二つを持ってきたことがあった。マークを書きこんだ箱はご丁寧に廃棄済み。きっつー。このような日常を送っていたら「べき」を低くせざるをえない。おかしくなってしまう。期待しなければ怒りが起きない。その結果、完全に怒りを排除して「ここがこれだけ出来ていない」「あれがあれだけ出来ていない」と事実を淡々と並べて叱るようになったのだけど、それはそれで「冷たい感じがして怖かった」「レクター博士」などと陰口を叩かれるのだから、叱りに正解はないような気がしてならない。

また、感情的な相手に対しても冷静さを失ってはならないとよくいわれるが、こちらが冷静でいありすぎると、叱られていないと勘違いする人間も一定数いる。叱られているのがわからないというやつだ。かつて若手同僚の非について、僕は冷静に対応したつもりだったが、間違いであった。それが「課長(僕のこと)が力不足だから俺はダメだったんすよ」からの「いいんですか、俺、必要悪ですよ?」という戯言コンボを生んでしまったのである。僕も同じ土俵にあがって殴り合うべきだった。お前はバカだバカだバカだと。わからない人間には怒りをぶつけた方がいいときも、ある。

そもそも叱られることイコール「悪」「恥」という前提がおかしい。叱られるというのは見捨てられていないことでもある。基本的には喜ぶべきことなのだ。などと偉そうに言っているがなかなか難しい。自分の欠点や失敗を指摘されるのが好きな人などいないからだ。だからこそ叱りには欠点や失敗の指摘に加えて、道筋がなければならない。次はこうしようと。原因を追及するための叱りではなく、再発を防ぐための叱り。それが唯一の正しい叱り方ではないか。良くなって欲しいという祈りや願いがそこにあればいい。それさえあれば感情的か否かは些細な問題であり、ケースバイケースだと個人的には思う。

ありがたいことに今はホワイトな環境の会社に勤めており、良くできた同僚に囲まれているので叱ることはまったくといっていいほどない。退屈でもある。もし「ドラえもん」の主人公が出木杉だったらゾッとするだろう?そんな毎日なのだ。「部長!」と声がかかるとき、トラブルの発生を喜んでいる自分がいる。叱られたいとさえ思うときもある。己の欠点や失敗をキツイ言葉で叱責されたい。言葉で打って!インポと詰って!僕は44才で叱ってくれる人も随分減ってしまい、そんな願望を満たしてくれる場所はもはや町田駅前にある店舗型のイメージなクラブしかないのだが。

そんなふうにレポートを書きながら悶々としていたら、若手社員から折り入って相談したいことがあるといわれた。真面目で仕事は極めて良くできる社員である。彼は「仕事は疎かにしないので明日少しだけサボってもいいですか?」というワンダーな日本語を口にした。ひとりの営業マンとしてはノルマを達成して公序良俗に反しなければどうぞ、であるが、営業部長としては、労働時間内はサボっちゃいかんと言うしかない。黙ってやれよ。やってくれよ。そもそも狙いはなんだ。ナンナンダ。生真面目な僕は、怒りとも悲しみともいえないもやもやした感情でいっぱいになってしまって、叱っていいのか怒っていいのかわからず、「サボタージュは労働者に認められた権利だからねえ。HAHAHA」などとどうでもいい言葉で笑い飛ばすしかなかった。ワンダーな現実には叱りも怒りも役に立たないらしい。(所要時間28分)

管理職になって1ヵ月やれたことやれなかったこと全部話す。

以前、管理職(営業開発部長)になるためにやったことについて書いた。今回はあれから1ヶ月経過した現時点における進捗状況、達成した部分と修正が必要な部分について語ってみたい。

delete-all.hatenablog.com

ホワイトな環境の職場で働いている。腹の底は知らないし知りたくもないし、僕などは「ウザっ」と思われてるかもしれないが、社員同士がリスペクトし合う、楽しい会社だ。目に見えたハラスメント言動や、足の引っ張り合いはない。昨夏入社したときと変わったのはこの四月から正式に管理職になったことくらいだ。「いつまで今の職場にいるかわからないが、若いスタッフのヤル気を搾取しないような仕組みだけはキッチリとつくっておきたい」という気持ちも変わっていない。

僕は以前、ヒドい環境の会社に勤めていた。「ブラック企業」と指摘されたりもした。職場環境や労働条件の酷さだけではなく、同僚同士、足の引っ張りも多々あった。そういう、きっつーな職場にいたので、仕事上では、他人を信じない、信じすぎない人間になってしまった。管理職になるうえで「目標の細分化」「チーム制の導入」「営業日報の廃止」を採りいれたのも(上記記事参照)、すべて、人を信じない地点からスタートしている。ただ、1ヵ月組織を動かしてみて、それらの施策に軌道修正の必要性も出てきている。

まず目標の細分化。目標を思いきり低く、細かく、そして多くの目標を設定して日々のミーティングで達成率を確認するようにしたのだが、この点については、概ね好評で、モチベーションの維持という点では僕の思惑通りに動いている。目標が小さいが故、目標の小まめなアップデートが必要になっていることが悩みだが、これは嬉しい悩みというべきだろう。実務上は大きな目標をボリュームと〆切を考慮して割っているだけなので、苦にならない。多少、苦労が予想されるのは次の大きな目標を探して設定することだろうか。

次にチーム制の導入。1案件に対して必ず2名以上担当者を置き、案件ごとにその人員の組み合わせを変えた。目的は2つ。仕事の鮮度を保つこと。案件のブラックボックス化を防ぐこと。前職で営業マンが、案件を自分ひとりで持ち抱え、よくわからない理由で失注するのを多々見てきた、その反省からである。この流動的なチーム制についてはスタッフから意見(反論)が上がってきている。「人によって得意不得意があるので、担当チームはお互いの欠点を補完する組合せにするべきではないのか」というものだ。流動性を限定的にしろ、という意見だ。確かに一理あるが、現時点では、却下することにした。表向きの理由は、「組合せを流動的にすることによる仕事の鮮度の維持と硬直化の回避を、補完関係による効率的な仕事の遂行より重視したい」というものだが、その実は、チーム固定化によるチーム自体のブラックボックス化の阻止であることは言うまでもない。

次は報告方法の改善(営業日報の廃止)だ。営業日報を全否定はしないが、あれを入力することが目的になりすぎていると感じたのと、前職で頻発したのだけれども、一日中、市営公園の駐車場に停めた営業車で、昼寝している某営業マンが営業日報上では顧客10社を回っていることになっているようなミステリーを目の当たりにすることが日常茶飯事だったからである。俗にいう虚偽報告である。これを改め、日々の細かい報告については、週イチくらいの頻度で個々に呼んで、ヒアリングする方法を採っている。交換した名刺も抜き打ちチェックしている(毎回じゃないが)。

ヒアリングは10分くらい。時間短縮になり、その分、外回りの時間を確保できると踏んでの施策だ。これについては予想以上の結果を出している。僕も驚きなのだが、30分ほどの入力時間が削減されただけでなく、アトランダムなタイミングのヒアリングに対応するために、それぞれが問題意識を持ち課題と進捗を整理するようになったのだ。フォーマットを無くした長所が出たようだ。修正点は、事前に行動予定表の入力を義務付けているのだが、その入力項目「①日時」「②会社」に加えて「③誰と(役職/決定権の有無)」「④目的」「⑤戦略」の3点を増やしたくらいだ。スタッフ増員となったら現行のヒアリング方式は難しくなると思うが、それはそのとき考えることにする。

これらに加えて40時間/週の労働時間を厳守するように改善を加えている(5月から実施)。ボスからも「スタッフのやる気だけは絶対に搾取するな」と言われている。40時間以上働く必要はないが、原則40時間は働いてもらわなければならない。弊社でもタバコ休憩問題がある(弊社の場合、喫煙スペースまで行って吸って帰ってくるまで15分程かかるので管理監督下にないため『労働時間』に当たらない)。いろいろご意見があると思うが、試験的に喫煙者には15分×2回@日のタバコ休憩を認めることにした。ただし該当者は30分だけ所定労働時間の終了時刻を繰り下げさせてもらう。非喫煙者にも平等に休憩を与えて終了時刻を繰り下げることも提案したが、ミーティングで却下された(民主的だ)。このタバコ休憩+繰り下げは来月から試験的に実施してみて、うまくいったら就業規則に盛り込むことになる。なお、新規採用者については非喫煙を条件とするので、将来的にはこのタバコ休憩問題はなくなるはずだ。(補足/そもそも営業スタッフは基本的に社外いるので、終日、内勤するのは月に1~2日程度。タバコ休憩が大問題にはなりえないけど一応ルールは決めておく)。

(雇い入れの制限については問題ないと思われる。

参考/三菱樹脂事件【憲法判例・労働法判例】 三菱樹脂事件の要点をわかりやすく解説 | リラックス法学部

万が一残業するときには、届出に理由の明記も義務付けた。この理由は残業発生のたびにミーティングで共有して、残業をしない仕組み、40時間内でおさまるチームに向けて全員で考え、新たなスキームに落とし込んでいる。僕の仕事はそのミーティングで「個人の能力不足」という安易な結論は出さないように議論を持っていき、チーム全体の能力ととらえるように促すこと。そして、ミーティングの結果を先ほど話したタスクの確認と設定にこれらをフィードバックすることである。

また、これは昨年11月に実施済みなのだが、事務パートの女性スタッフを正社員化した。部に与えられている予算(人件費)から考えたら余裕はないが、パートタイムよりもフルタイムで部内の事務をやってもらうことによる、営業スタッフの営業活動にかかる時間の確保等のメリットをボスにプレゼンして押し通した。まさか、7月から産休に入ることになるとは…それはそれで嬉しい誤算じゃないか。

以上である。流動的チーム制の導入で薄々お気づきだと思うが、僕はエース営業マンやスーパー営業マンを否定している。前職のときから、エースと呼ばれる、仕事のデキる営業マンを、数字が出せるからといって持ち上げる風潮に少なからず違和感を覚えていたからだ。たとえば重要な案件や大型の事案を優先的に与える、いわばエースの仕事(数字)を最大化するやり方である。そういう仕事のやり方を僕は否定しない。短期的には数字も出せるだろう。会社も数字を出すやり方を否定はしない。

だが、エースが退職したり死んだりしていなくなったとき、あとには何が残るだろうか。ほとんど何もないのだ。書店やネットで見かけるスーパーなビジネスパーソンの語るメソッドが僕は好きではない。それらは物語としては見栄えがするので魅かれるのも無理はない。だがそこに再現性はあるか?ない。全員がスーパーになりうるか?ありえない。ヒーローはいないが、普通の人が普通に働いて普通に結果が出る、働きやすい組織。目指すべきはそこだと僕は考えるのだ。

繰り返しになるが前の職場のこともあって、僕は仕事で人を信じることができない。だからこそ僕の下で働いているスタッフには、僕みたいになって欲しくないと強く思っている。そのためには厳格だがフェアで、特定の人に依存しない組織が必要なのだ。記憶が定かではないが、落合さんが中日の監督になるとき、現有戦力を10パーセント底上げすれば優勝できる、と仰っていた。そういう普通の人が活躍する組織を作り、維持できるような仕組みを、今の会社、今の立場にいるあいだに作り上げたいと本気で思っているしそれが僕の仕事なのだ。(所要時間42分)

「YAZAWAの勘」のスゴさについて。

こんな記事を読んだ。ロックンローラー矢沢永吉さんがチケットを完全電子化するらしい。なぜ?という問いにYAZAWAは「勘」と即答したという内容だ。

blogos.com

僕はこれは全人類にとっての教訓になる!といたく感動したのだけれど、妻は「ただの勘ですよね…」とピンとこなかったご様子。そこで僕が「YAZAWAの勘」がどう凄くて教訓になるのか妻にプレゼンをした。これはそのときの話のまとめである。

先ほども述べたが、この記事を読んで、僕はYAZAWAのロックな姿勢に感動した。見習いたいと思った。同時に、「YAZAWAのように俺たちも【勘】で動けばウマくいくのだ!」と勘違いする人も少なからずいるだろうな、とも思った。勘をただの思いつきと誤解している人たちである。おそらく妻もそうだ。だがそれは違う。「勘」の一言でまとめてしまっているが、YAZAWAは1.問題(「チケットを欲しい人がいても不正をする不届き者のせいで手に入れられない」)を見つけて2.解決「じゃあチケット全部電子化しちゃおうよ」という実に合理的な考え方で電子化を決めている。この決断と解決の導き方は極めて普通で、普通な僕たちでも導き出せる答えであり、天才性は感じられない。YAZAWAの凄さ、天才性はその決断のスピードにある。インタビューにおいてYAZAWAが「勘」と呼んでいたもの。なぜ勘で行動することができたのか。その背景を考えてみたい。

何か問題が発生したときに、その解決が遅くなってしまう理由には大きく分けて二つある。ひとつは知識不足や経験不足からの不安によるもの。未経験のトラブルに遭遇したとき、「難しそう」「わからない」という理由で判断が遅れてしまったことは誰でもあるのではないか。もうひとつは知識や経験が足かせになって素早い判断が出来なくなってしまうものだ。たとえばクライアントから近々の納期を提示されたときに過去の経験から「きっつー」と思って躊躇してしまったり、JDから告白されても「ハニートラップかもしれない」と身を構えてしまった経験がないだろうか。図にするとこんな感じ。

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一般人の場合

YAZAWAの場合はどうだろう。彼はインタビューの中で《IT技術には詳しくない》と述べている。先ほど述べたとおり、知識がなかったり、経験がなかったりすると、決めることができなかったり遅くなってタイミングを逸してしまうことが往々にしてあるがYAZAWAは違う。やっちゃうのだ。図にするとこうである。

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YAZAWAの場合

経験不足や知識不足を言い訳にせず、YAZAWAは障害を越えてピンポイントで解決にいたっている。まるでジャンプするように、だ。

なぜジャンプすることが出来るのか。それは問題の本質をつかんでいるからである。《チケットの電子化についての知識はなかった。だが勘で決めた》という文脈の裏にはYAZAWAがチケットの電子化によってファンにもたらされるメリットとデメリットを、それが直感によるものなのか、多少の知識があったからはわからないけれど、ほぼ完全に把握していた事実の存在が読み取れるのである。詳細な知識がないのを恐れない。経験に縛られない。それがYAZAWAの勘であるが、そのベースには問題を正確に把握する能力がうかがえるのだ。

もうひとつ、これは僕がもっとも参考にしたいところなのだけど、問題解決の優先順位のつけ方もYAZAWAの勘の凄さだと思う。YAZAWAはまずチケットを買えないでいるファンを第一に考えて解決を導き出している。我々は知識や経験不足を言い訳にしたり、経験や知識が足かせになったりしない。導入にあたって予想されるトラブルや面倒は後回しにして決めてしまう。いってみれば顧客ファースト。これはブレない。僕は今管理職で、顧客ファーストという視点は忘れないよう、スタッフには話をしている。正確には「【自分都合の】【顧客目線で】案件に取り組む」だけれど、ついつい自分都合に重きを置きすぎてしまいがちなので、YAZAWAの勘は顧客ファーストの教訓として非常に参考になった。

YAZAWAが顧客ファーストの解決へジャンプできた理由。それはインタビューからも垣間見えるように、ライブを大切にしているからだ。つまり現場の声を聞く耳を持っているからだ。僕は今44才で、仕事において現場の声を聞く、現場を知ることの大切さを重々承知しているつもりだけれど、様々な経験をしているせいで、知らず知らずのうちに現場の声にバイアスをかけてしまっている気がする。自分都合に。69才、ロックの年齢になっても、現場のファンの声を聞き逃さない耳。それを維持しつづけることはなかなか出来ないと思われるが見習いたいものだ。

「YAZAWAの勘」の凄さは、現場を大事にすること、顧客ファースト、問題の正確な把握という誰にでも通じるが、おろそかになりがちなことを「勘」のひとことで軽やかにやってしまっている点にある。やっちゃえは伊達じゃないのだ。(所要時間22分)

Hagex氏と飲んでます。

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神奈川県の隅っこまで僕を訪ねてきてくれた

HAGEXことハゲ子(id:hagex)と飲んでるよ。高知産のトマトを肴に生ビールを傾けながらゲスい悪巧み。意外なコンビでしょ。おほほほほほほほほ。(所要時間1分)

「生きにくさ」とは何か。

「生きにくい」「生きづらい」、そういうフレーズをたびたび耳にするようになったのは、いつ頃からだろうか?マスコミや広告代理店の活動の結果なのか、僕のアンテナのそういうフレーズへの感度があがったからなのか、わからない。おそらく両者だろう。

 確かなことは、生きにくい、という言葉に接するたびに、当事者ではなくても言いようのない閉塞感を覚えることだ。もっとも、生きにくさは、平成の世に、突如、出現したわけではなく、ずっと僕らのそばにあった。ただ、文化や生活のレベルが上がるにつれ、その内容が変わってきているだけのこと。たとえば、縄文時代の生きにくさは「今日は鹿が取れなかった。飯どうしよ…」という直接、命にかかわるような生きにくさが主だったが、現代社会のそれは(心身の病気のようないかんともしがたい事情からの生きにくさは別として)他人との関係性において感じるものが主になっている。生きやすくするための社会が高度になればなるほど、他人との関係性で生きにくさを感じてしまう。なんて皮肉なのだろうか。ひょっとしたらツイッターやSNSで生きにくいと呟くだけで、「僕も」「俺も」「私も」とあっという間に拡散、共有され、強固になってしまいがちな現代の方が、縄文時代の人間よりも、生きにくさの厄介レベルは上がっているともいえる。

 能力が劣っているから、見た目が平凡極まりないから、収入が少ないから、恋人がいないから。それら生きにくさの理由は全部、社会や他者との関係、比較で生じるものだ。クソ上司、アホ先輩、厳しすぎる妻、少なすぎるこづかい。自分以外に、多種多様な人間が存在している以上、世の中は生きにくいものなのだ。生きにくさとは「他人に自分を合わせる無理」である。皆、社会の中で生きていくうえで、多かれ少なかれ、自分を殺し、他人に合わせる、無理をしている。たとえば「こうした方がいい」「なぜあれをやらないの」「次はこれが来る!」こんな言葉に従いすぎてはいないか?いいかえれば、生きにくいとは人間であることの証明なのだ。もし、この文章を読んでいる人で生きにくさ生きづらさを感じている人がいたら、こう捉えなおして胸を張ってほしい。人間だから生きにくいのだと。ついつい人に合わせてしまう優しい人間だから、生きにくいのだと。

 もし、生きにくさが耐え難いレベルになったら、一度、人から離れてみるのもありだと僕は思う。いったん捨ててしまえ。山に籠って鹿を追ってウハー。素っ裸で滝にあたってウホー。他人を気にしないで生きてみれば、生きにくさは感じないのではないか。僕は都会生活の方が好きなので御免こうむるが、縄文人に戻るのはひとつの手段としてありだろう。なにがいいたいかというと、鹿狩りの魅力ではなく、とかく現代社会は人との繋がりを大事にしすぎているのではないかということ。繋がり至上主義のアホになっている。繋がりバカ。テクノロジーの進歩で、ライン、ツイッター、フェイスブック、インスタグラム、ハッピーメール、ぎゃるる、などなど、知らない人と繋がるチャンスは増えるばかりだ。繋がりが善意だけで構成されているはずがない。繋がりが増えれば、生きにくさも増える。ちょっとした意見の相違や犯罪まがいのトラブルも生じるだろう。人との繋がりを重視する一方で、孤独は避けるべきものとされすぎている。孤独が忌避される理由、それは人との繋がりは金を生むが、孤独は金になりにくいからではないだろうか。結局のところ、ビジネスになるかどうかなのだ。先ほど、これは無理、と思ったら繋がりを捨てて鹿を追えばいいと提言したのは、思い付きや勘ではなく、そういう背景があることを僕が経験と尋常ならざる観察眼で看過したからである。

 僕は生きにくさを感じない。そのせいでときどき妻から「キミからは人間味を感じない」と言われてしまうこともある。正確にいえば、僕は生きにくさを感じないようにしている。僕は人との付き合いにおいて、きっつーと感じるようになったら、その人を敵にしてしまう。生きにくさは人に合わせる無理。そういった無理をしないように自分を制御しているだけのことだ。おかげさまで敵ばかりで闘争も多く損ばかりしている気もしないでもない。もっとうまいやり方や付き合い方もあるだろうが、不器用な僕は、対象をエネミーにして、自分というものが影響されないようにしている。生きにくさのレベルは人それぞれなので、自分で対処法を見つけていくしかない。ただ、生きにくさを覚えるのが人間として当たり前であること、そしてその本質が人に合わせることによる無理、だとわかれば、付き合い方のヒントにはなるのでないかと僕は思うのだ。

 実は僕も最近イキにくさを感じている。よかった。僕はまだ人間であるらしい。綾瀬はるか様。深田恭子様。長澤まさみ様。冷めたカップラーメン。残り物のトコロテン。苦節40年。人生そのものといっていいほどの長い時間ををかけて体得したスキルをもってこれらを駆使しても、加齢のせいだろうか、全然イケない。僕にいわせれば、僕が目下直面しているイキにくさとの絶望的な戦いに比べれば、この国の皆様が感じている生きにくさなどは取るに足りない敵なのである。気楽に生きにくさと付き合おうぜ!ガンバレ、日本!(所要時間41分)