Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

新型コロナの影響で飲食業が厳しいのは売上減のためだけではない。

僕は食品会社で働く営業職のサラリーマン。新型コロナ(COVID‐19)感染拡大で客数・売上が減って飲食・外食が大打撃を受けているけれども、地味にダメージを受けている衛生対策について、「どうにかならないかな…」と思うところがあったので残しておく。

社員食堂(製造業)の受託案件で、そのクライアントA社は事務部門の一部がテレワークになっているが、新型コロナの影響では食数は微減といったところ。食数はランチタイムで平均300食。喫食時間は11:30~13:00 座席数は300強。A社と協議のうえ決められた新型コロナ対策は1)アルコール消毒等衛生対策の徹底 2)密を避けるための喫食時間の延長 11:00~14:45 3)喫食スペース(テーブル)へのアクリルボードの設置(管理は弊社)であった。これらを徹底してくれれば、社員にも働きかけて食数維持は約束するという話であった。はじめての試みなので、様子を見ながらやってみて、問題が発生したら都度、軌道修正を図ろうということで決まった。

「いけるじゃん」と思った。つまり冒頭であげた飲食業最大の問題、客数・売上減はおさえられるので何とかなる…と思ったがそうはいかなかった。まず1)の衛生対策の徹底にともなうアルコール等の製剤コストが想定を越えてしまった(4~5倍)。原契約で経費負担がウチにされていたので想定外の使用量によりキャパを越えてしまった。つぎに2)の喫食時間の延長により労務費の増大。パートスタッフの時間延長。時間あたりの客数は減るのでスタッフ数は減らせるはずだったが、1人当たりの負荷が大きくなりすぎたので、予定通りに減らせなかった。最後に3)アクリルボードの設置。これが地味にダメージになった。設置費用はA社持ちだが、ホール内機器の管理はウチに業務負担がなっているのだが、この負担が大きかったのだ。300席に個別のアクリルボードを前面・左右面に設置されている状態を想像してもらいたい。これを使用後にスタッフが掃除&消毒をしていくようになったのだが、一つの席をテーブル+アクリルボードを拭き掃除をして消毒までこなすとざっと1分かかり、それが300席になると300分つまり5時間分の工程が増えてしまい、2)の時間延長と重なって想定の労務費を超過した。時間当たりの客数が減れば、労務的に余裕が出来て、消毒作業に回せるという見込みはあったけれども、完全に読みが外れた。5時間もかかるとは…。

次回ミーティングの席でこれらの課題をあげて対策案を出した。A社の担当は、「ウチからお願いしたことですから」という協力的なスタンスであった。だが、1)消毒製剤の負担は了承してもらったが、2)3)の改善案については苦しいなか設備投資したうえ、社内アナウンスして客数・売上維持に協力しているので、なんとか創意工夫してくださいと言われて却下されてしまった。では「販売価格に転嫁させますね」と価格改訂案を出したら、「それをやられてしまったら契約自体を見直すことになりますよ?」と言われてしまう。プチ脅迫?「社員食堂は福利厚生施設なので、街のレストランと同じ価格帯では意味がない」と。担当者は「衛生に力を入れているからという理由で料理の値段をあげる店はありませんよ?当たりまえですから」と言った。僕はこりゃダメだと絶望して天を仰いでしまった。

新型コロナ後で飲食・外食が厳しい状況になっているのは客数減・売上減のウエイトが大きいのは間違いがないが、衛生対策にかかる費用を販売価格に転嫁できない(しにくい)ことも要因のひとつになっている。社員食堂のように売上が見込める店舗でもこんな状態なので、売上の見込みがたたない街の飲食店はより厳しいはずだ。これまで安心・安全はサービスのひとつとしてタダで手に入るものだという意識をあらためて、安心・安全にも金を払うという意識へ変えていかないと、こういう問題は良くならない。

仮に新型コロナが収束して、売上が回復しても、現状のような徹底された安全衛生対策とそれに係るコストはこれからもずっと経営を圧迫し続けるのだから。今、僕は「全然当たり前じゃないですよ」といって、なぜこれが必要で、A社にとって利になることなのか丁寧に説明しながら、これまでの当たり前を当たり前でなくす地味な戦いをしている。創意工夫には限界がある。必要なのはお金なのだ。消毒用アルコールを用意すればすむ問題じゃないんだよ(所要時間21分)

こういうお仕事エッセイをまとめた本を去年出したのでよろしく。→ぼくは会社員という生き方に絶望はしていない。ただ、今の職場にずっと……と考えると胃に穴があきそうになる。

超高齢化社会、中途採用面接のリアル

体調不良でダウンした同僚の代理で、中途採用面接に立ち合った。調理技術とリーダー経験を求められる現場責任者の枠だ。事前のエントリーシートで面接者のデータを確認してから面接に臨んだ。ヒアリング等細かいことは採用担当者が行うので、僕の役割は、その隣で意味ありげに「なるほど」といってうなずいたり、ちょっと気になる発言があったときに目を見開いて興味を浮かべているような表情をする実質マスコット的なものである。いらなくね?と自分の存在に疑問をおぼえるが、面接は2名以上で行うという規定があるので仕方ない。

入室した面接者が挨拶をした瞬間、僕は違和感を覚えた。手元にあるデータと渡された履歴書を見比べて、その違和感の正体を確認してから、隣りにいる採用担当に「地雷だぞ!」と視線を送ったが気付かない。急に寒くなりましたね~なんて、すでにフランクな感じで話しかけている。面接者は58才男性。資格経歴職歴は我々が望んでいたものであった。その人となりも、僕が猛烈な違和感をおぼえた一点をのぞけば、やってくれる感に溢れていた。

隣の採用担当もイケる感で高揚していて、地雷に気が付いていない。配置される現場はハードだぞ、技術的にも体力的にも、それを忘れるなよ、と念を送ったが互いにエスパーの素養ゼロなため伝わらない。仕方なく、机の上に置いてある履歴書を揺らすなどして気づかせようとするが、採用担当はバシっと手で履歴書をおさえてしまった。どうやら前面にいる地雷より、「今良い感じで話をしているから黙っていてくれ」と言わんばかりの顔を浮かべる。傍らにいる僕を地雷認定しているようであった。

いい感じに面接は進んでいき、やっていただく仕事の詳細は採用の連絡の際に~なんつって、まとまりそうな雰囲気を醸し出しているなかで、採用担当が「最後に何かありますか?」と話を振ってくれた。のちのちの災いになると思ったので、憎まれるのを恐れず、あえて地雷を踏みにいく。「エントリーには58才とありますが、実際はちがいますよね?」 頭髪で気付いた。20年間白髪染めを自分でしている僕にはわかるのだ。黒髪と安っちい白髪染めで染められた偽黒髪の違いが。「今年で73です」あっさりとゲロった。エントリーシートには58才と記載されていて、履歴書も58才とあった。だけど生年月日の欄が西暦で記載しなければバレないと思ったのか「昭和22年生」となっていた。

問い詰めると「本当の年齢でエントリーしたら書類選考で落とされてしまうじゃないですか。自分の技量と経験で判断してください」と彼は言った。実年齢でエントリーしていたら、体力面の不安を覚えて「弊社基準を満たさず」の一言で書類選考で落とされていたかもしれない。「いや、でも嘘はダメでしょう。嘘をつく人とは一緒に働けないですよ」と僕がいうと「年寄りにも働くように言っておいてこの仕打ちだよ」と彼は言った。返す言葉もない。

彼は落選した。弊社が求める人物像とは残念ながら合わないという理由だ。詐称する人を採用することは出来ない。彼には15才もサバをよんで選考に挑むタフさがある。だから、きっと、なんとかなるさ、と僕は自分に言い聞かせている。そのタフさをもっとちがう方向に活かすことを祈ることしかできない。彼は面接の終わりに、こうも言った。「あんたたちも何年か先、俺と同じことをするようになるぞ」その言葉は呪詛になって僕の心にあり続けている。彼は、超高齢化社会という地獄を生きる未来の僕だ。きっつー。(所要時間19分)

このようなエピソード満載のエッセイ集を去年出しました→ぼくは会社員という生き方に絶望はしていない。ただ、今の職場にずっと……と考えると胃に穴があきそうになる。

 

会社には絶対にしくじってはいけない選択がある。

社長からランチに誘われた。サシである。「来たな」と覚悟を決めた。社長は気になる人間をランチに誘って振るいにかけるとは社内では有名で、僕がサシ・ランチに誘われるのは入社3年で初めてである。我が社は社長派と常務派で争いが続いている。若返りをはかりたい社長と古参の上層部の対立である。

つまり、サシ・ランチはただのランチではなく、踏絵なのだ。社長からの質問に対して的確に答えなければ、最悪、失脚。僕と社長とのランチを聞きつけた古参社員から、ちょっと耳に入れておきたいことが、と話を持ちかけられた。その人は、もともと常務派で僕のことを目の敵にしていたけれども、とある案件でしくじって、トカゲの尻尾のごとく切られて、今は僕の部下として働いている。元々の敵である僕の部下になってしまったうえ、60を越えて初めての新規開発営業の仕事をさせられているせいで、すねてしまい、日常的に反抗的でヤル気のない不良債権と化しているが、武士の情けで切腹するまでは介錯しないつもりで面倒をみている。

「私は社長とのランチで間違ってしまった」と不良債権マンは言う。彼は、社長からの派閥を切り崩しの質問に対して、あやまった答えを選択してしまったのを今も後悔しているらしい。「社長の問いに対しては必ずイエスといいなさい」と彼は攻略法を教えてくれた。なぜ、良く思っていない僕に救いの手を出してくれるのかと尋ねると、彼は「自分と同じような人間はもう見たくない」と寂しげに笑った。悲しかった。

ランチは社長の行きつけの焼肉店が経営しているいい感じのハンバーグ店であった。社長はランチを二人分頼み、料理を待つ間に、最近の営業部の状況と今後の見通しについて質問をしてきた。僕は現状そのままを話した。派閥切り崩しの質問が来るのか高まるばかりの緊張感。イエス。イエス。イエス。イエスマンになるのだ。古い連中のように振るいにかけられないために。

ハンバーグは絶品だった。食後のコーヒーを飲みながら、何事もなく終わった…と安堵していると、社長は「私に反抗的な勢力が社内にいるのは知っているよね」という答えを求めない問いかけをしてきた。僕の返事を聞かないうちに、社長は「私のために動いてくれないか」といってきた。ここだ!イエスマンになるのだ。しかし、動きといっても動きが何だかわからないうちはイエスがいえない天邪鬼な僕。イエス・マスター!と言うはずが「何をすればよろしいのですか?」と質問返ししてしまった。昨日の部下氏に対してはなった自分の言葉が蘇る。「質問に対して質問で返す人間は自信がないあらわれだよ」おっしゃるとーり。まさに自分のことである。

社長の眼光がするどくなった。過度なストレスで切れ痔が痛む。「反抗的な勢力が何をしようとしているのか、同僚たちを調べて私に報告してもらいたい。やってくれるな?」と社長は言った。不良債権マンは必ずイエスと言えと教えてくれた。どこまでもフェアな社長の性格を考えた。社長は、社内の誰もが避けた仕事を僕が押しつけられて、無事に終えたとき、「誰でも出来る仕事」と低評価を下す上層部に対して、誰でも出来る仕事を避けた人間にそんな評価を下す権利はない、と一喝するような正々堂々を好む人だ。それに対して、社長の問いは彼の思考とは矛盾していないか?と僕は
考えた。文言だけを読み取ればイエスしかないが…。「どうだ?」と社長は圧を強める。僕の出した答えはノーである。「お断りします社長。それは出来ません」。正義もポリシーもなかった。ただ、そんなつまらないことは仕事にしたくない、という自分の心に従った。最後は自分だ。どうとでもなれだ。

「合格」と社長は何事もなかったかのように言うと「上からの言われたからといって、仲間を売るような人間は私は好かん」と続けた。他の人間にも同じ問いをしているのですか?と尋ねると、「多少の差違はあるけれど基本的には同じことを質問している」と教えてくれた。僕は生き残ったのだ。じゃあ不良債権マンは僕を貶めようとしていたのか。あの野郎、マジでクソだな、切腹前に介錯するしかない。「ほとんどの人間はハイっていうよ」と社長は笑うので、そりゃそうでしょーとあわせて笑ったが、全然、楽しくなかった。厳しすぎるぞ会社員生活。つかこれが正解だったのかまだわからない。正解に見せかけて誤り、もっとふさわしい解がある、一筋縄でいかないのが人間というものだからだ。

こうやって僕は尻尾を振っていきている。エサはもらっても尻尾は振らねえ生き方は僕にはできない。尻尾振りまくりだ。だが、条件反射で尻尾は振らない。自分の意志で尻尾を振っている。サラリーマンという生き方を選んだ僕に出来ることはそれくらいなのだろう。(所要時間31分)

こういうエピソード満載の本を去年出したよ→ぼくは会社員という生き方に絶望はしていない。

20年間の営業マン生活で僕が身につけた、成果を出し続けられるようになる消極的一期一会スタンスについて全部話す。

昨日、部下氏から「客に嫌われたかもしれません」という悩み相談を受けた。僕は今後の進め方を助言したあとで「やるじゃないか」と評価を伝えたのだけれど、どうやら部下氏はピンと来なかったようで「意地悪やめてくださいよ〜」なんて泣き言を漏らしていた。意地悪ではない。僕は、嫌われるくらいのことを言えなければ成果は長期的に出せないと考えている。

好かれるのと嫌われるのは表裏一体、紙一重だ。嫌われている人、苦手な相手が、ある商談を経て、大の得意先になった経験は何度もある。あえて感情をおさえて厳しい意見を出し合い、着地点を見つけて、進めていくのが仕事のあり方だ。営業の場合、相手が客であるケースが多いだけでその本質は変わらない。だが、相手が客になってしまうと、途端に思考停止してしまう。「嫌われたくない」「嫌われては契約が取れない」という恐怖がその本質を忘れさせてしまうようだ。若い頃の僕も同じだった。ある、ひとつの心がけを教わるまでは。

四半世紀の会社員生活で観察を続けてみてわかったことがある。営業という職種にかぎらず継続的に結果を出せない人は相手に好かれたい、嫌われたくないという意識が強すぎる傾向があるということだ。 なぜ結果につながらないのか。簡単だ。好かれたい、嫌われたくない、というのは自分の立場を守る100%利己的なスタンスであり、利他ではないからだ。

昨今、仕事のスタンスとして「自分を売り込む」「ファンを作る」と言われている。それらを表面的に解釈し、相手に好かれたいがために相手に都合の良いことしか言わなくなってる人が実に多い。打ち合わせや商談で「いいっすねー」しか言わない営業マンをたまに見かけないだろうか。長いスパンで見たときどうだろう?「いいっすねー!」で契約を取り続けられるだろうか。はっきりいってしまえば勝てるときは何をしても勝てる。誰でも勝てる。「いいっすねー」で勝てる。だが、いい局面、勝てる局面ばかりは続かない。勝ち続けるためには厳しい局面を打開していくことが不可欠になる。相手にとってネガティブな印象を持たれることも言わなければならない局面が必ずある。たとえば他社製品のほうが自社製品よりも相手のニーズに合致しているとき何を提案するのか。また相手の購買意欲を下げてしまうかもしれない自社サービスのマイナス面の話をできるか。そういった微妙な局面は相手にとっていい話、気持ちのいいことを言うだけだけでは乗り切れないのだ。

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『美女と野獣』のガストンのように「嫌われ者になれ」という話ではない。誰だって嫌われたくない。僕とて同じだ。嫌われてしまう覚悟は持ちながら相手と着地点を探っていくという話だ。そういう観点からいえば表面的なファンづくりは継続的に結果を出すことの障害にしかならない。

偉そうなことを言っているが僕も似たようなものである。大卒で入って数年間、ダメダメな営業マンだった僕は、当時通っていたスナックにいたベテラン営業マンから「消極的一期一会の覚悟」を教わってから道が開けた。消極的一期一会に即効性はなかったけれども、確実に僕の成約確率を高めてくれた。その人は何十年も新規開発営業の現場で生きてきた人で、本当の一期一会がどういうものなのか、その他の営業テクニックとあわせて、丁寧に説明してくれたあとに「消極的な一期一会」というワンフレーズに落とし込んで教えてくれたのだ。感謝しかない。僕は今でも商談や打ち合わせの前には「消極的な一期一会」を頭に浮かべてのぞんでいる。困っているひとにもすすめている。

消極的一期一会はシンプルな原則だ。この出会いは一度きりだから大切に、良いものにしようという一期一会を、少々ネガティブに消極的に寄せてとらえて、「今日で話をするのは最後。どうせ今後会わないのだから」という意識をもって相手に対峙するのだ。その場かぎりと決めれば、相手にうまいことを言って好かれたいとも思わないし、嫌われることを怖れなくなる。つまり自分の立場を「どうでもよいポジ」に置くことによってその面談のあいだにおいて利他的になれるのだ。主役の座を相手に譲って考えられるようになるのだ。

僕は四半世紀ほど営業という仕事をやってきて同僚や競合他社、別業界、さまざまな職種の人間を見てきたけれど口先で良いことばかり言っている人よりも、こういう消極的な一期一会なスタンスを持っている人のほうが結果を出している。逆にいえば、結果を出し続けている人はその人なりの消極的一期一会を持っている。

人間は基本的に自分の聞きたい話しか聞かないように出来ている。嫌な話、面白くない話は誰でも聞きたくない。当たり前だ。だが、仕事を進めるうえでは相手が聞きたくないような話をしていかなければならない。自分を捨てて、相手の嫌がるような話を出来るかどうかが継続して結果を出せる人と出せない人を分けるのだ。これは営業にかぎらずあらゆる職種にあてはまることだろう。「消極的なスタンスが相手にとってプラスになり、自分に返ってくるのだから、面白いだろ」というスナックでの言葉は今も僕のなかにあり続けているし、これからもあり続けるだろう。(所要時間32分)

こういうエピソード満載の本を去年出した。→ぼくは会社員という生き方に絶望はしていない。ただ、今の職場にずっと……と考えると胃に穴があきそうになる。

閉店を惜しむ客がいるのに潰れてしまう店のリアル

取引先の飲食店から突然、閉店の連絡を受けた。脱サラしてはじめた洋食店。「コロナが憎いよ」店主は無念さを隠そうともしない。メニュー改訂やテイクアウトで半年間粘ったけれども、客足が戻ることはなかった。食材を卸させていただいていた業者目線でも、そこそこ繁盛していた店だと思う。「夕方まで手が離せないから納品は昼は避けてくれ」と言われていたし、何回か食べた料理はどれも美味しかった。

僕は、なんていっていいかわからず、軽い気持ちから「最後に閉店イベントをやらないのですか?」とたずねてしまった。これが良くなかった。鎮火していた店主の心を再点火させてしまった。「閉店の貼り紙を出した途端に、以前はよく来ていたお客がやってきて、店がなくなると困る、惜しい、想い出がなくなる、と言ってくれてる。それは嬉しい。でも普段から来てくれてればウチだって閉店しないですんだんだよ。お金を落としてくれるのが客。死に際にお別れの言葉を言ってくる客になってない客になんでウチがサービスをしなきゃいけないのさ」と店主は言った。もっともだと思った。

店(やサービス)がなくなると、「寂しい」「残念だ」という声が起きる。最終日に行列をつくって思い出の写真を撮る。よく見る光景だ。でも、これって客のエゴだろう。なくなったら寂しい、困る。これらはすべて客にとって都合の良い都合であって、そこに提供する側は存在しない。お店は、客の寂しさを埋めたり、美しい記憶を守るためにあるのではない。料理やサービスを提供して対価を得るために存在している。新型コロナで露わになったように、飲食店は経営基盤は脆弱だ。本当になくなって欲しくない店なら、閉店のポスターが張り出される前に、今すぐ足を運ぶしかない。惜しむ声をあげても、後の祭りである。

もちろん、店側にも問題はある。個人店に顕著だが、客をリピーターにする努力が決定的に足りていない店が多い。美味しい料理、そこでしか食べられない料理を提供すれば再度来店してくれる客はいる。だが、自分の料理に依存しすぎているように見えるのだ。とある客の家の近所に似たような料理(多少味が落ちても)がより安価で提供する店が出来たら、来店の頻度は落ちてしまう可能性は高い。客と自分の提供する料理に期待しすぎている。受け身なのだ。主体的にアクションしていかないと他のものにとって替わられてしまうという危機意識が足りない。根底には良いモノを提供していれば客はついてくるという楽観にある。それは確かだが、それだけでは足りないのだ。

客のエゴと店主の楽観によって、惜しまれているのに閉店せざるをえない店が生まれる。惜しまれるだけあって、料理やサービスの質は決して悪くないのが残念でならない。その反面、たいした料理を出していないチェーン店がシステマチックに集客して生き残っている。「飲食業コロナで厳しいよねー」「お店なくなるの寂しいよねー」と閉店決定後に惜しんだり悔やんだりしても何も変わらない。無意味だ。このように、惜しまれるような店がなくなっていくのは、自分が行かなくても他の人が店にいってくれるだろう、美味しい料理を出せばまた来店してくれるだろう、という二つの楽観に原因がある。

どんなサービスであれ、本気で存続させたい、続けて欲しいと考えるなら、なくなったら困る、寂しくなるという不幸な未来予想図を想像して、普段から利用していくしかない。それが出来る人こそホンモノの客である。そういう意味でいえば閉店フェアに行列をつくっている人のほとんどがホンモノの客ではない。僕はあの行列を見るたびに冷めた気持ちになってしまう。最近はコロナの影響で商売をやめる店も増えていて、普段から利用しない客になっていない客が、自分の無責任をコロナに転嫁して、より軽い感じに「惜しい」「困る」「残念」と言えてしまう空気になっている。イヤな感じだ。

気に入った店やサービスがあったらお金をつかって客になろう。流行りの言葉でいうと「推し」になろう。惜しむ言葉では誰も救われない。冒頭のお店の店主は僕に「愚痴はもう終わりだ。最終日まで来てくれるお客さんには誠意をもってこたえるよ。最後までやりきるよ」と言ってくれた。商売人の気概とプライドを見た気がした。残念ながらお店は最終日3日前に閉店した。現実は僕らが考えている以上に厳しい。(所要時間22分)