Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

上司がパワポをはじめたら

 オリンピック女子フィギュアで世界最高峰の戦いが繰り広げられたあの日、僕は上司と最低レベルな消耗戦をぐだぐだと繰り広げていた。もともと当事者ではなかったのだが、昼休み、同僚の牛島君からの一本の電話によって、当事者になってしまったのだ。彼の話は、今日部長と同行する予定だったがひどい胃痛だ、くそう無念だ、この日のために頑張ってきたのに畜生、君、代わりに部長のところに赴いてくれないかね、というものであった。苦悶な牛島君の声が不思議と明るい。同僚が困っているときに助けるのは当たり前だ。僕は彼の頼みを受け入れることにした。


 ってそうはいくか馬鹿め、報酬は、見返りはないのか、牛島君に尋ねると、彼は、妹ならびに妹の学友たちとの合同コンパでどうです、と言う。僕が、まぶたの裏に彼のぺヤングソース焼きそばの容器に酷似した顔面を思い浮かべ、そこから彼の妹の顔面を想像し、午後は売切れる前にハワイアンバーガーを食べなきゃいけないんだよ的な、適当な理由を拵えて断ろうとすると、彼は、妹が現在齢21であること、お嬢様大学に在学中であること、彼と妹の顔面は似ていないことなど、重要な項目を告げた。そういう経緯で快諾した僕は部長の待つ新宿へ向かったのである。


 部長曰く、絶対しくじってはいけないクライアントへの大変重要なプレゼンテーション。「今回のプレゼンテーションは大変に重要なので特別に米マイクロソフト社と提携し…」なんて厳粛な調子でいうので、あのMS社と提携だと?、大変緊張して続く言葉を待っていると、「パワーポイントを使用する」だと。普通だよそれ、って突っ込みをいれるのも疲れるので、しない。腑抜けた顔をするな、気合をいれろ、日焼けしろ、騒々しい部長とビルディングのなかへ。


 絶対しくじってはいけないクライアントの担当者に案内され、会場に入り、牛島君から託されたノートPCを起動させてプロジェクターに接続する。部長は初めて木の枝を発見した原始人のように、ハンドマイクをあらゆる方向から観察するのに飽きると、誇らしげに言った。「プレゼンテーション資料は俺がパワアポイントで完璧に作ってある」「そうですか」「お前はただ俺の合図に従いマウスを操作すればいい…猿でも出来る任務だ…」「わかりました」「お前は幸せだ。俺のプレゼンテーションを間近に見られるんだからな…」今思う。このときが逃亡できる最後の機会だったのだ、と。


 絶対しくじってはいけないクライアントの方々が現れ、プレゼン開始。部長の合図によってマウスを動かすと表紙があらわれた。すわ葬式か。どうやったらこんな陰気で不愉快なブツが作れるんだ。ざわ・・・ざわ・・・。会場に微妙な空気が流れはじめた。


(再現画像/今年は平成22年のはず…)


 会場のどよめきを賞賛と錯覚したのか、胸を反らし、両手を左右いっぱいに広げてアーティスト気取りの部長は、それでははじめさせていただく、と咆哮、僕を指差した。マウスを動かすと黒の背景に巨大な白の明朝体で平仮名の『こ』が映し出された。

 なんだこれは。動揺した僕が部長を睨むと部長は片手をアホな雛鳥のように上下にバタバタさせている。「次のスライドに」。そういうサインなのか?ところが事前に打ち合わせを、という僕の申し出は、客先でバタバタするとは情けない奴だ、お前はただ俺についてくればいい、といわれ部長に却下されてしまったので、部長のアクションの意味がわからない。どうにでもなれ。マウスを動かすと『こ』が消え、今度は巨大な白の明朝体で平仮名の『ん』。ああ…。部長は両手を上下にバタバタさせて、アホウドリのようにどこかへ飛んでいってしまいそうだ。自暴自棄になった僕は、部長の羽ばたきが消えるまでマウスを動かした。黒い背景に、浮かんでは消える明朝体(白)『に』『ち』『は』。

 市川昆か。エヴァンゲリオンか。ルパン三世か。絶対しくじってはいけないクライアントの方々のこの冷たい視線、部長、あなたは感じていらっしゃいますか。部長は会場を見渡してから言う。感じていらっしゃらないようですね。「今のごあいさつはパワアポイントのアニメーション機能を活用して…」部長は目を細め、試すように数秒溜めて「…私がつくりました」。アニメーション機能じゃない。部長よ、恥を知れ。会場は、しん、と静まり、プロジェクターの、ううん、という呻き声に似た低い音だけが重く響いていた。「続けてください」絶対しくじってはいけないクライアントの担当者の声は乾いていた。僕の胃がきりきりと痛みだした。牛島君もこれにやられたのか…。


 続くスライドには題字が上辺に黄色で記され、その下に幾何学模様が、ってよく見たら細かい文字列。

(再現画像/ジョイ・ディビジョンっぽい)

アンノウン・プレジャーズ

アンノウン・プレジャーズ

 KIHON KONSEPUTO…基本コンセプトが小さな文字で細々と記されていて、まったく読めない。部長の補足。「それではご説明させていただきます。ごらんのとおり弊社の提案するコンセプトは多岐細部にわたっております。要するに弊社に任せれば、安心・安全・安牌、等々でございます。今回は限られた時間のなかですので、詳細はお手元に配布いたしました資料をご覧ください」補足になってない。細かい文字が織り成す幾何学模様をじっと見ていると、眼精が疲労し、何か三次元映像的なものが飛び出してくるような気分がした。


 続くスライドも、その次のスライドも、そのまた次のスライドも細かい文字で細々と記されており、文字を識別できる代物ではなかった。部長の説明も、飽きてきたのだろう、「等々でございます。詳細は配布いたしました資料をご覧ください」「等々でございます。詳細はあとで資料を見てください」「トウトウでございます。あとで読めばいいと思います」「ト〜ト〜でございます。たぶんそこに書いてあります」、という調子で、次第に粗雑なものになっていった。


 すべてを終えた部長はマイクを置き、なにかご質問はございますか、と絶対しくじってはいけないクライアントの方々に訊いた。もちろんこんなプレゼンなので質問があるわけない。担当の人から、ありがとうございました、結果は一週間後に電話でお伝えします、と乾いた口ぶりでいわれ、部長が、それでは以上をもちまして弊社のプレゼンテーションをおわ、終わらせてい、いただき、いただきました、い、いいただきます、と噛みまくるのを背中で聞きながら僕は早々に後片付けを始めていた。


 帰りの途上、部長の電話が鳴った。絶対にしくじってはいけないクライアントからの連絡だった。「残念ながら、だとよ」。当然の、失注。「一週間のところを一時間で連絡をよこすとは迅速な仕事ぶりだな…奴ら…俺と同じ世界の人間だ…」部長はまったくこたえていないようだった。


 残念でしたね、話題がないので棒読みで僕が言うと、部長は「俺の高度な営業トークの技術が奴らにはわからなかったようだ。これだから採点が絡むものは難しい。いくら高度な技を披露してもうまくいかないときもある。浅田真央選手がトリプルアクセルをキメても勝てなかったように…そうだよなあ?」と苦々しく言った。「御意…」とこたえたサラリーマンな僕だが、あんなプレゼンとトリプルアクセルを同列のものにされた真央ちゃんが不憫でならなかった。


 こうして、部長のはじめてのパワポは散々な結果に終わったのである。