Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

海苔と部長の禿げ隠し


 蒸し暑い昼間。取引先での打ち合わせを終えて蕎麦屋にはいり、お品書きに粋な調子でさっと目を通し、手を挙げ、時給780円おばはんにもりそばを頼もうとしたそのとき、打ち合わせ中は、あっ!とか、う〜っとか、おぅ…しか言わず存在感がなかった部長の声がした。「俺はざるだ…」。文章話せるんだ部長…と感心しながらもりそばを注文。そばを待つ間、部長はつぶやき続けた。目は虚ろだった。「俺たち営業マンは会社の看板を背負っている。白い歯をみせたら客になめられる…ビジネスは殺るか殺られるかの厳しい世界だ…」永遠に続きそうな言葉の数珠は、おばはんのお待たせしましたの声で途切れた。

 テーブルにざるそばともりそば。部長は中空を睨んだまま電池切れのように凝固していた。人の目が気になるし、気色が悪いので「部長…」と声をかけた。「ざるそばにあってもりそばにないもの…それはなんだ?」と部長は言った。狂ったか。「の、ノリです…」「それでは俺にあってお前にないもの…それはなんだ?」


 口臭、非情、図々しさ、悪い性格、醜い容貌、狂った頭脳…色々ありすぎて即答できず、同時に自己保身自分可愛さが脳内を渦巻き「ま、真面目に答えたらクビということはないですよね?」と訊くと部長はこたえた。「ビジネスの世界で優先されるのはスピードだ。即答できないお前は負け組だ。俺にあってお前にないもの、いろいろありすぎるが、まず能力、つぎに人間的魅力…」。あいた口は塞がらず、そばは乾いていった。「それから立場だ…。部長である俺が背負う会社の看板はとてつもなく大きく…」一旦話をとぎった部長はテーブルにあった七味と山椒を手のひらに何粒か落とし苔の密生した白い舌でそれを舐めてから僕を睨み「大きい」と繰り返した。


 とてつもなく大きく大きいですか…。そうだ…とてつもなく大きく大きく大きい。非生産的なやりとりのあとで部長は続けた。「その俺が、ざるそばを食し不覚にも歯や唇に海苔をつけたまま街を外遊していたらどうなる?」「仰ってる意味が…」「クライアントの要望をくめない奴は営業マン失格だ…特別に教授してやろう…」「…」「俺が海苔を付けたまま外遊するってこたあ、会社の看板に海苔を貼り付けたことになるんだ!わかったか…ざるそばともりそばを交換しろ…。金は払う…」馬鹿馬鹿しさの前に言い返す言葉と気力は喪われていた。


 食後。レジにて。これで一緒に払っておけといって五百円玉を寄越す部長に、僕はこれでは足りないですといった。部長注文のざるそばは税込み五百五十円、僕注文のもりそばは同五百円。「何をいってやがる…俺が食べたのはもりそばだ…ちがうか?お前はもう自分がざるそばを食べたのを忘れたのか?ああん?ああん?」ああんああん凄んでくる部長が憎憎しかったが堪え、ざるそばを食べました…と言うと部長はひときわ大きな声で、ああん?聞こえねえなあ、と絶叫した。僕は「ざるそばを食べたのは私です」と答え、泣く泣くざるそば代を払った。部長は領収書を貰っていた。領収書には1,050円と記載されていた。


 店を出た。「豚川部長!フミコさん!」うだつはあがらないが額はあがりまくりの中年男性が声をかけてきた。得意先の社長だった。炎天下で、いやどうもどうも、暑くなりましたね暑いね、景気がケーキが、社長部長社長社長、などとくねくね表面上の付き合いをした。社長がにやにやしているのに気が付いた。社長の視線の先には自らのポリシーにしたがい極めて厳しい表情をした部長の顔面。部長の特徴であるバーコード頭がいつにもまして薄いように思えた。頭からの太陽の照り返しは激しく、眩しさのあまり僕は目を細めた。部長、老いたな…。そんな感想をもった刹那、部長の額こめかみなどを汗が筋になって流れているのに気付いた。異様な発汗だった。滝のように流れる汗は黒かった。僕は目を見開いた。やはり汗は黒かった。部長の黒い部分はみるみる薄くなっていき、部長のタンクトップシャツの襟はずんずん黒ずんでいった。


 黒い汗を頭からだらだらぎざぎざと流す部長は、まるで邪悪なスイカ。部長…海苔どころか…会社の…会社の看板が泣いてます。黒い涙を流しています…。ざるそばの海苔で部長の頭を被ってしまいたかった。もう、笑うしかなかった。社長にあわせるように笑った。すると部長がああん?ああん?顔で僕を睨みつけた。その表情は、客前で笑うんじゃねえと雄弁に語っていた。僕は社長と邪悪スイカの板挟みにあい、顔の上半分、目もとあたりだけで睨むような表情をつくり、下半分、口元あたりだけで笑い顔をつくった。素人がやるアントニオ猪木のモノマネのような奇怪な表情だったと思う。黒い汗を流し続ける部長に睨まれながら、僕は、口のなかで、ナンダバカヤローナンダコノヤローとつぶやいた。