彼は待ち合わせの喫茶店で僕と顔を合わせるなり「マジで死にたくなった」と言ってきた。きっつー。半年ぶりに会った彼は、幸だけでなく頭髪までも薄くなったせいで、実年齢よりもえらく老けたように思えた。彼は五十才の元同僚で、昨秋、イケメン要素、才能、若さ、定職、貯金すべてが無いという絶望的な状況を棚に上げ「なぜ俺は結婚できないのか?」という禅問答を僕に投げかけてきた問題児。生活保護を受けようと真剣に考えている珍獣のもとにやってくる女性がいるとは思えなかった。なにより《俺は結婚出来る。出来ないのは社会が悪いだけだから》などと都合のいい可能性を信じている彼のお花畑な頭脳が驚異であった。
僕は、絶望を直視せず、あたかも希望があるような思い込みをしているかぎり、彼が絶望的な状況を脱出するのは無理だと判断した。ありもしない希望はより深い絶望の母になりうる。その彼が「死にたい」といっている。僕は目の前で練炭テロを起こすのだけはやめてほしいと思った。それ以上の感情は一切なかった。理由を訊くと、生きていても何もないから、という。なんて贅沢な悩みだろうか。こちとら何もしなくてもいろいろな厄災が降りかかってくるというのに。僕が彼の言葉にまったく動揺せずにコーヒーを飲んでいると「でも死なない」と彼は発言を翻した。また希望を見出したのだろうか。それとも答えのない禅問答だろうか。きわめてどうでもいい。
「何で?」「いざ、死のうとすると俺が死ぬことによって悲しむ人たちのことを思い出してしまうんだよ。だから俺はその人のために死なない」彼は波のように押し寄せてくる自死願望を食い止める防波堤のような存在について話した。僕の父も自分で命を絶った。父にはその波を食い止める防波堤がなかったのだろうか。故人が考えていたことなんて永遠にわからないけれど、僕ら家族が防波堤になれず父を守れなかったのは動かしようのない事実で、それはそれなりの重たさをもって僕の心に在り続けている。
しかし、目の前の男が死んで、悲しむような人間が本当に地球上にいるのだろうか。僕は尋ねた。返事は驚くべきものだった。「お前だよ」イヤすぎる。どうやら僕は彼の死を悼む人間と思われているらしい。完全なる誤解。きっつー。僕を生きる理由にしないでほしい。おそらく構ってくれる人がハロワの職員以外には僕しかいないのだろう。年少の僕に甘えないでもらいたい。僕が彼と会うことにしたのは、半年を期限に貸した一万五千円を返してもらうためだけであり、この面会を今生の別れに決めていたくらいなのである。誤解は解かねばならぬ。
僕は「いや、別にあなたが死んでも僕は悲しまないですよ」と言った。「えっ。いいんだよ。悲しんでくれてもさ。恥ずかしがることないよ」とおどける彼。「いや、マジで悲しみませんよ」「何で?」「僕はあなたの人生に何の関心もありません。どうぞご自由にしてください」その後、なんだよ、人でなし、そういうこと言うのかよ、死んでやるからな、ホントにやってやるからなと彼はブチ切れて帰っていった。あのバイタリティがあれば大丈夫。きっとまた生きていくために都合のいい希望を見つけるだろう。
それから一週間。ちょっと気になって彼のケータイに電話を入れてみた。虚しく響くコール音。ホントにやっちまったかもしれない。遺書に僕の名前を書いたりしてないことを心から祈る。やるのならせめて金を返してからにしてほしい。金銭貸借を終わらせるために僕がわざわざあの世へいくのは割に合わな過ぎるから。(所要時間20分)