Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

無駄にポジティブな人と一緒にいるのは地獄だ。

かつて、ボンクラの分際で「俺って必要悪ですよね?」と言ってのけた若者が職場にいた。ポジティブであることは大切なことだ。だが、彼のように何事にも無駄にポジティブな人は付き合っている人間にとってはただただ迷惑な地獄の使者だ。先日、20代同僚が電話でアポを取ったり、約束の時間5分前に登場しただけで「俺、スゴクないですか?」と自画自賛。きっつー。僕が皮肉の意味合いを込めて「なかなか自分のことをスゴイとか言えないよ(バカみたいだから)」と言っても「ですよね!なかなかできませんよね」と極めてポジティブなリアクションが返ってくる無敵ング。なぜ大したことでないのにポジティブな対応が出来るのか?僕は「私という存在には価値がある。価値がある私の行動には意味がある」という信仰に原因があると思う。自己啓発的な本やセミナーが安直に「あなたには価値がある」みたいなことを言うからである。《あなたには絶大な価値があるよ》と言われて気分を害する人はいない。気持ちいい。当たり前だ。求めているものを与えられているだけなのだから。僕は「薄気味悪っ!」としか感じないけれど、感化される人は一定数いて、ゆとりやらさとりやらの若者は感化されやすい傾向にあるように見える(偏見)。一方、厳しい世の中は個人に対して無関心。価値があるはずの私が取ったアポには大きな意味があるはずなのに、なぜか世の中は評価してくれない。いいねくれない。おかしい。価値ある自分をプロデュースするためには自分でスゴイスゴイとアッピールすることが不可欠になってしまうのだ。自分には価値があると思うのは個人の自由だ。しかし人間の価値というものはそれなりの言動やアクションを基礎にしてこそのもの。何もないのに私スゴイと表明するのはバカにしか見えないが、価値がある人は己が正しいと考えているので伝わらない。結果的に《価値がある私》同士はリアルでは居場所がなくなり、ブログやツイッターやオフ会などで、「君のやってることは意味があるよ」「いやあ君という人間こそ地球よりも重いよ」などと気持ち悪いやり取りをするようになる。ポジティブであること、積極的であることは聞く耳を持たないということではないが、自分には価値があると思っている人はそれがわからない。問題は、貝のように黙って自画自賛念仏でもつぶやいていればいいものを、わざわざアッピールすることだ。マジでウザすぎる。無駄にポジティブに己をスゴイスゴイと評価する人間は、他者に対してもスゴイスゴイの安売りをする傾向にある。人間は不思議なものでございまして他愛ないことをスゴイスゴイと褒められていると気持ち良くなってしまう。勘違いしないように気を付けていないと、無駄にポジティブなバカになりそうで怖い。地獄はすぐそこにあるからではなく感染するから恐ろしい。最近僕も俺スゲースゲーって言っている気がするし。(所要時間13分)